海を臨むココロフィルム

リウクス

空を臨み、海を望む

 私は進路で悩んでいた。

 高校を卒業したらどうしたいか、なんてことは一年生の頃から何度も教師との面談で話し続けたことだけど、三年生になった今でも明確な答えは出ていない。

 受験勉強が一層本格化する夏休みに突入しても、中々目標が定まらず、勉強に身が入らない。

 やりたいことがないわけじゃない。むしろたくさんあるくらい。

 だけど、それらは子どもの頃の漠然とした夢に過ぎなくて、今から手を伸ばすには時間がかかりすぎる。

 世の中には短い期間で奇跡みたいな成功を収める人がたくさんいるけど、私の人生はそんなにドラマチックではないから、結局惰性で薄っぺらい勉強を続けている。

 そうして、目標は永遠に決まらないのだ。



 八月一日。

 私は今日も早寝遅起き。

 十時半に起きて一階に降りると、母から皮肉っぽく「おそよう」と声をかけられる。

 それに対して私は眠い目をこすりながら「むー」と生返事をした。

 不満げな母を他所に、洗面所へ顔を洗いに行く。

 今日も勉強を開始するのはお昼過ぎからだ。


 ラップをかぶっている冷めた朝食の前に座ると、正面に母が座った。こういうときは何か小言があるに違いない。


「あんた、ほんとに大丈夫なの」


 ほら、この通り。


「大丈夫って、何が?」

「受験。志望校も全然決まってないんでしょ」

「うん。まあ、進学はするって決めて、勉強はしてるから、どこかしらは受かると思うよ」


 夏休みに入って何度聞いたことだろう。

 決まらないものは決まらないのだから、仕方ないじゃないか。


「あのねえ。本当に何かないの? せっかく高いお金払うんだから、あんたのやりたいことができる大学に進学した方がいいと思うんだけど」

「あー、うーん」


 私の自主性を尊重してくれるのはありがたい。

 しかし、残念ながら、私はご期待に沿うような自主性を持ち合わせておらず、高い学費を払わねばならないこともどこか他人事のように感じている。


 母は不服そうに頬杖をついて私を眺めながら、それ以上は追求しなかった。

 私は冷めたトーストを一口かじった。

 もっさりしていて、パサパサで、なんだかこの可哀想なトーストに親近感が湧き始めた。

 そんなことを思いつつ、このままじゃ美味しくないから焼き直すのだけど。

 母にトースターで何分加熱すればいいのか聞いて、立ち上がり、台所に向かうと、その作業がてら私はリビングのテレビの音声に耳を傾けていた。


《これが今若者に話題の『ココロフィルム』! 撮った写真を現像すると、いつもの四角い形ではなく、撮った人の心の形になって現れるそうです。見てください、私の写真は星型でした!》


 若くて元気溌剌な女子アナが芝居がかった声でそう語っていた。

 若者の流行りとか、私にはわかんないなあ。私もばりばりのティーンだけども。

 そもそもこういうテレビで紹介されている流行りって、都会を中心としているのが前提なわけで、さっきのココロフィルムとやらも、私が住んでいるような田舎町には現像してくれる写真館もないだろうな。

 やりたいことがあっても、色んな要因が絡んでできない。そうやって選択肢が削られていくから結局虚無になる。

 まあ、別に私がココロフィルムを試したいわけではないけども。


 そうしてパンが焼き上がるの待っていると、トースターがチンと鳴って、それと同時に母が「あっ」と声を上げた。


「どしたの」

「そういえば」


 母がテレビを指差して言う。


「お母さんの友達の写真館、最近これ始めたらしいのよ」

「ほえー」

「すぐそこだし、気分転換にやってみたらどう?」

「え?」


 人差し指でつまんだトーストを、思わず落としそうになった。



「どうしてこんなことに……」


 私は母の友人がやっているという写真館にやって来た。

 写真館といっても古臭い感じはせず、真っ白な壁にシックな木製の家具が揃っていて、割とモダンな印象だ。

 こんな田舎町なんかで、若者に流行している新しいサービスを導入しているというのも頷ける。


 ドアを開けると、受付の女性がすぐに私を出迎えてくれた。彼女が母の友人らしい。

 ゆったりとした紺のワンピースにウェーブがかかった髪が大人っぽい。


「いらっしゃ〜い。娘ちゃんよね? 久しぶり〜。元気だった?」

「あ、まあ、はい」


 正直、顔も名前も覚えていないけども。

 幼い頃に母と一緒にどこかへ行った記憶だけはある。


「来てくれてありがとねー。ここあんまり繁盛してないからさあ」

「ああ、はい。はは」


 こういう明るく接客してくるタイプの人は苦手かもしれない、と愛想笑いを浮かべながら私は思った。


「あ、母がまた今度お茶でもって……」

「あー、たしかに。ここんとこあんまりお茶してなかったものねえ。今度連絡しとくわ」

「はい、ありがとうございます」


 しばらく会っていない友人とお茶をするには少しハードルが高いから、まずは娘を使ってコンタクトを取る。それが今回の母の目的だ。なので、もう私は帰っても構わないわけだけど……。


「それで、娘ちゃんは今日ココロフィルムのお試しに来たのよね」

「あ、はい」


 今更予約をキャンセルするわけにもいかず、私はその場の雰囲気に流される。

 まあ、帰っても無気力に勉強するだけだし、別にいいか。


 私が返事をしてすぐに、彼女は受付の裏で何やらごそごそすると、黒い物体を取り出し、それを机の上に置いて言った。


「はい、これ、カメラ。好きなものを撮ってきていいよ。誰でも簡単に撮れるように設定してあるから、気負わず自由に、好きなものを撮ってきてね」

「館内で、ですか?」

「ううん、外に行って撮ってきてもいいよ。これだ、って思ったものを直感で写真に収めるの。そうすれば、ココロフィルムで現像したときも、形になりやすいから」

「はあ」


 正直まったく乗り気ではなかったけど、私はとりあえず外で一枚撮って、さっさと終わらせることにした。


 ただ、好きなものと言われると悩んでしまう。今はこれといってこだわっているものなんてないし、自分らしいものっていうのがイマイチよくわからない。

 昔は海が好きだったと思う。小学生の頃に図工で描いた海の絵が何かのコンテストで賞を取って、それが嬉しかったのを覚えている。

 海面を上空から見下ろして、波の中を魚が一匹泳いでいるシンプルな絵。

 まあ、そんなのは誰にでもある普遍的な記憶で、今の自分に関係があるとは思っていないけど。


 炎天下に長時間外をぶらつくのもしんどいので、私は適当に空の写真を一枚撮った。薄い雲を張った水縹みはなだの空だった。

 あとはココロフィルムとやらが良い感じに形にしてくれるだろう。原理はわからないけど、魔法か何かなのかもしれない。

 私が店内に戻ってカメラを母の友人に返すと、彼女は私に質問をした。


「どんなものを撮ったの?」

「え、あ、空です」

「空? 空が好きなの?」

「あ、いえ。……なんとなく」

「そう」


 そう言って奥の暗室に入る彼女の顔は困り気味だった。切実な感じではなく、どこかもったいなさげというか。そんな表情。

 今話題のココロフィルムの体験に来た若者がこんなにも乗り気じゃなかったら、そりゃ困惑もすると思うけどね。


 それからしばらく時間がかかるそうなので、私は館内の待合スペースで、母の友人がこれまで撮ったココロフィルムの写真をいくつか眺めることになった。

 どれも隣接する写真とは違う形をしている。

 ココロフィルムは撮る人が捉える世界の形を具現化するものだから、一人でこれほど複数の形が現れるなんてこともあるもんなんだと、私は少し驚いていた。

 一人に一つではなく、環境によって色んな世界の見方があるのかもしれない。

 星、ハート、ケーキ、犬、三角……。


 とりわけ面白いと思ったのが、猫の形をした猫の写真だ。

 地面に伏せたような体勢で撮影したことがうかがえるローアングル気味の構図で、まるで撮影者本人が猫になりきったかのような世界が写っていた。

 きっと、その瞬間の彼女は本当に猫になりたくて、猫の世界を見たくて、そんな気持ちが写真の形に現れたんだろうな。そう考えると、案外このココロフィルムとやらも楽しいものだと思えてきた。


 そうして私が写真を吟味していると、存外時間が経っていたらしく、彼女に背中から声をかけられた。どうやら私の写真が出来たらしい。


「娘ちゃんの写真、なんだか不思議な形をしていたよ」


 現像した写真を置いた机に向かう間に、そんなことを言われた。

 何も考えず、ただ無心で適当に何もない空を撮っただけだったから、どんな形になっているのかは想像もつかない。

 外が暑すぎて溶けそうとは思っていたから、もしかするとそんな感じのだらしない形になってしまっているのかもしれない。


「はい、これが現像したココロフィルムだよ」


 満を持して、彼女が私に写真を手渡す。

 すると、そこにあった形は——。


「……なんか、ぐにゃぐにゃしてますね」

「だね」


 なんだか、写真の輪郭が溶けたみたいにぐにゃぐにゃしていて、アメーバみたいになっていた。

 もしかすると、本当にただ猛暑に苦しむ私の気持ちが反映されただけなのかもしれない。

 正直、少しだけガッカリした。私はやっぱり何もない人間なのだ。


「娘ちゃん、乗り気じゃなかったのに、良いの撮れてるじゃん」


 しかし、彼女は私の憶測とは裏腹に、安堵と喜びの表情を浮かべていた。

 なぜだろう。私とは違う解釈をしているのだろうか。


「この写真が、ですか?」

「そうだよ。あれ? そう思わない?」

「えっと……」


 私がピンときていないのを察して彼女が言う。


「ほら、覚えてない? 小学生の頃のアレ」

「アレ?」

「そう、あれあれ」

「んー?」


 アレと言われても、こんなぐにゃぐにゃの空の写真なんて見覚えがない。

 しかも、ヒントが小学生の頃。記憶が薄れて余計にわからない。


「まだわからない? ほらあのとき、賞取ったでしょ? 文化会館に飾ってあるのを一緒に見に行ったの覚えてない?」

「賞って……あの海の絵のことですか?」

「そうそう! ほら、もうわかったでしょ! もう一回写真を見てごらん」

「はあ」


 空の写真と海に一体どんな関係が?

 私は特に何も納得していなかったけど、もう一度じっくり写真を眺めてみることにした。

 すると——。


「——あ、これ」


 私は気がついた。

 ぐにゃぐにゃしていたその形の意味に。


「これ……波だ」


 猛暑で溶けた自分を表現しているのだと思ったうねりが、揺れる水面のように見えたのだ。

 そして、薄く張った雲は潮、水縹は海の青。

 私が撮った写真は、退屈な空ではなく、いつか描いた海のような様相を呈していた。


「私が描いた海……」

「……でしょ」

「はい……」


 私は何か大切なことを自覚できそうな気がして、意識がその写真の中に吸い込まれていくような感覚がした。


「……娘ちゃん」

「あ、はい」

「……何か悩んでたでしょ」

「え」


 不意を突かれて、私は豆鉄砲を食らったような顔をした。


「母が何か言ってました?」

「いやいや、見てたらわかるって」

「そう、ですか?」

「そうだよー」


 大人っぽい見た目に反して、無邪気な笑顔だった。苦手なタイプだけど、信頼はできそうな、そんな態度。

 恐らく経験豊富なのだろう。

 彼女は徐に語り始めた。


「……あのね。いつも見ている何気ない景色でも、そんな形に見えることがあるんだよ」


 窓のそばに立ち、空を見上げて言う。


「それでね、決まってそういうときほど、心は世界で一番純粋で素直になるんだ。だから、娘ちゃんが何で悩んでいるかはわからないけどさ、娘ちゃん自身はもう答えを見つけられるんじゃないかな」

「答え……」


 私が何気なく撮った空は、海だった。

 私は海が好きで、それだけは覚えていた。

 そして、海が好きなのは、私があの絵を描いたから。

 私の一番純粋で素直な心がそこにあるのなら、多分、私は——。


「そうですね」

「お、悩み解消した感じ?」

「……多分」

「ならよかった!」


 もしかすると、母はこうなることをなんとなく見越して、今日のココロフィルム体験を予約したのかもしれない。

 そう思うと、なんだかしてやられた感じがして悔しい気もするけど、不思議と嫌な気分じゃなかった。

 将来の選択肢がなくなるのではなく、増えるのは初めてだから。


 それから海型の写真を受け取って、外に出ると、空がいつもと違って見えた。いや、今までと全く同じなんだけど、感じるものが違っていた。


 目指したいところに手を伸ばすにはきっと時間がかかるし、私がそうするにはもう遅いのかもしれない。

 でも、見たい景色の形がわかると、なんとなく、理屈抜きに、できるんじゃないかという気がしてくる。それが、漠然とした子どもの夢ではなく、今見えるものならば、と。


 だから、私はとりあえず、明日の朝から早起きをすることにした。


 そうして空を見上げながら家に帰る足取りは、海を泳ぐ魚のように軽やかだった。

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海を臨むココロフィルム リウクス @PoteRiukusu

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