優しい味のするコーヒー

広河長綺

優しい味のするコーヒー

私は金持ちの持ち「物」である、と自己暗示する。自分が人間であることを諦めるのは、裏メイドとして生きるために必須のスキルだ。


もちろん私は中世のメイドではないし、そもそもここは現代日本だ。本来なら労働基準法によって、メイドの雇い主といえどメイドに命令できることは限られる。


しかし「裏メイド」は違う。半グレが運営する裏メイドサービスの利用者は、金を持ちすぎて何をやっても逮捕されない。所謂、上級国民なのだ。


メイドを24時間働かせ続ける者。意味もなくメイドを殴る者。


色々な上級国民がいるが、全部許される。


お嬢様と初対面での「商品」説明の時も、私はそう伝えた。


私には人権がないので何をしてもいいんですよという告知。


そして裏メイドマニュアルに従って、説明の最後に、返品保障の話をしなければならない。


やっと説明が終わるぞと内心で安堵しつつ「もし私が気に入らなくて不要となれば、1年以来なら返品可能です」と、返品保証書を差し出しながら、丁寧に説明した。


しかし。

「こんな紙いらないわ」

とここまで静かに聞いていたお嬢様は、唐突に言い放ったのだ。拒絶するような口調だった。


そしてあろうことか、返品保証書をビリビリと破り始めた。


あまりの奇行に私は思わず、お辞儀で下げていた顔を上げて、まじまじとお嬢様の姿を見つめてしまった。失礼極まりないことだと分かっていても、目が離せなかったのだ。


お嬢様はショートカットの髪で、切り揃えられた前髪の下に、静かに怒っているような険しい目つきの瞳が光っていた。でもヒステリックさは無く、強い信念が土台にある理性的な憤怒のように見えて、何に怒っているかはわからないのに、どういうわけか応援したくなった。


しばらくお嬢様に見惚れて呆けていた私は、数秒後我に返り、書類の破壊を止めようとした。


「あのあの、ちょっと待って下さい」私はいそいで駆け寄った。慌てながら説明する。「まだ初対面の私のメイドとしての能力をご覧になっていないのに、なんで返品書類を破くんです?確かに私たち裏メイドは、家事格闘技教養など様々な訓練を積んでいますが、わざわざ返品の権利を放棄しなくても…」


「返品というのが、そもそも気に入らないのよ」


「…というと?」


「あなたたちは、親の借金かなんかで人身売買の被害に遭ってるんでしょう?そこに付け込んで奴隷にする、裏メイドなんてサービスはクズのすることです」


「え、でも私はこの家に買われたような…。あれ、私が買われたのってこの屋敷であってますよね?」


「合ってますよ」

とお嬢様は頷いた。ため息まじりの肯定だった。

「私の父が勝手にあなたを買ったんです。そういう下品な父から経済的に独立したくて、私は探偵業をやって殺人事件を解決したりしてます。その依頼人が来た時だけはメイドの仕事をしてくれませんか?よろしくお願いします」


「いや、裏メイドって本来もっとこき使うものです。そもそも、お願いしますなんて言わなくても良いんです。私に対して遠慮しなくて良いんですけど…」


「まぁ話は明日にしましょう」お嬢様は私の反論を、遮った。「ここがあなたの部屋なのでそこのベッドで寝て下さい。あ、メイドだから床で寝るとか無しね。これは命令です」

有無を言わさない命令を言い残し、お嬢様が部屋を立ち去った後、私は言われた通りベッドに入った。


ふわっふわっの羽毛の感触。本当にお嬢様と同等な寝具なのだろう。


しかし、高級布団で眠りに落ちつつ、それでもまだ、これはお嬢様の気まぐれで明日は床で寝ることになるのだろうと思っていた。目の前に奴隷がいるのにこき使わない金持ちなど、いるわけない。


だが予想に反して、お嬢様は本気だった。次の日の朝、私が目覚めて下におりてみると、お嬢様はすでに起きていて白いエプロンを身に着け、凛とした佇まいでキッチンに立っていたのだ。


フライパンの上で焼かれていく卵を見おろす横顔の白い頬に、ショートカットの髪がかかっていて美しい。


お嬢様は真剣な面持ちで、朝ごはんを作っていた。しかも私の分もだ。


雇い主がメイドの朝食を作る。


そんなバカげた事があってはならない。


私は慌てて「お嬢さま、私が作りたいんです。労働とかじゃなくて、料理が好きなんです」と、駆け寄った。


「私に対して遠慮しなくて良いんですけど、ね」と、昨日の私の言葉を返してお嬢様は微笑んだ。


こうして私は、お嬢様の優しさが本物であると知り、驚かされたのだった。


以降も私はメイドとして家事をしろと言われることすらなく、自分から無理やり労働しにいかなければメイドとしてのアイデンティティーを保てない。甘やかされすぎて逆に居心地が悪く、「唯一私がメイドの仕事ができるチャンスがありそうな、探偵業依頼人の訪問が起こってほしい」と毎日祈る程だ。


お嬢様が優しすぎてびっくりしたのは、それだけじゃない。


例えばTVで殺人事件のニュースを聞くだけで、お嬢様は本気で泣きそうな顔をなさる。


難民の子どものためのユニセフ募金やら赤十字など数十種類の募金窓口に、毎日入金を欠かさない。


屋敷に依頼人が来る今日までの数日間だけで、お嬢様の極端な博愛主義を、何度も何度も何度も目の当たりにすることになった。




だからこそ今日の私は、ずっと待ち詫びていた探偵業依頼人が屋敷に訪れる日になったというのに、「やっとメイドの仕事ができる!」と素直に喜ぶことができない。


屋敷の2階の窓から玄関に近づく人影を見下ろしながら、胸の奥で不安が湧き上がってしまう。


心優しいお嬢様にとって殺人事件の探偵をすることは苦痛じゃないのか、と。


安楽椅子探偵のようなことをする以上、殺人事件の詳細を聞かざるを得ないだろう。それは繊細な心を持つお嬢様に向いている仕事とは思えない。


しかし、お嬢様が悪人の父から離れるために、信念を持って探偵しているのも事実。


ならばせめて、お嬢様の心の支えになろう。そう決意して、私は一階へ下り依頼人を迎えに行った。




依頼人は初老の男で、屋敷のドアの前で待ってくれていた。


お嬢様の住むこの屋敷はとんでもない広さであり、玄関だけでダンプカーが通れそうな巨大さである。


一般人ならその金持ちオーラに圧倒されるだろうが、依頼人の老人は落ち着いていた。


ということは、この男はお嬢様と同じレベルの富裕層なのだろう。お嬢様にとって話しやすそうなので、喜ばしい。


私は「こちらへどうぞ」と屋敷の奥に案内して、応接間のドアを開けた。




眩いほどのシャンデリア。気品ある赤色が美しい絨毯。


威圧感すらあるほどにゴージャスな部屋の中央に、スーツ姿のお嬢様が立ち、こちらを見ている。


その目が与える印象は、昨日とは少し違う。理知的なのはそのままに、優しい雰囲気が減っているように見える。仕事モードということなのかもしれない。


その表情のままお嬢様は私の方を向き「お客様にコーヒーを淹れてくれるかしら。豆はマンデリンでおねがい。私がひいきにしている豆なので」と仰った。


ここにきて初めてのメイドらしい仕事だ。私はなぜかドキドキしながら「かしこまりました」と頭を下げ、急いでキッチンに行き、コーヒーを淹れて応接間に戻ってきた。




コーヒーがカップからこぼれないギリギリの速度で小走りして戻ったのだが、挨拶や前置きはもう終わっていたらしい。2人とも席に着き本題に入っていた。


そして私が部屋に入った時は、ちょうど、依頼人の初老の男がテーブルの上に写真を置き「ワシが旅から帰宅した時、家の中はこのように荒らされ妻は毒ガスで殺されていたのです」と説明しているタイミングだった。



コーヒーをテーブルに置きながらさりげなく覗くと、写真には、荒らされてガラス片が散らばった部屋と女性の死体が写っていた。


壁にかけられていたであろう絵画、机の上に置かれていたと思われる花瓶と花、ネックレス。

本来なら金持ちのアクセサリーとして美しく飾られていたはずの物の破片が無造作にちらばり、その上に女性の死体が横たわっているのが写っている。



生々しい暴力の痕跡に、チラ見しただけの私ですら気分が悪くなる。

これをお嬢様が見なければいけないなんて、耐えられない。


「あの、お嬢様」私は意を決して、写真を見ている最中だったお嬢様に声をかけた。頭を下げて提案する。「私と依頼人の方の2人だけで少し話したいことがあるので、ちょっと隣の部屋に行ってもよろしいでしょうか?」


「え?ええ…いいですよ」

戸惑いと驚きがまじった声で、お嬢様は頷いた。


私は「ありがとうございます。では少しの間失礼します」と元気よく頭を下げ、その勢いのまま依頼人の手を引き、事件現場の写真も持って応接室から連れ出した。

これにはさすがに、落ち着いた雰囲気の依頼人も面食らったらしい。


「おい。メイドの君がワシに何を話すというんだね?」

彼は恐怖すら感じているようだった。


だから私は単刀直入に頼んだ。

「お願いですから、この殺人事件の犯人として自首してください」と。


「は?」老人は目を見開いた。口を大きく開いて反論する。「何を根拠に、私が妻を殺したと言うんだ?」


「瞬きの長さです。あなたを見る時、お嬢様の瞬きの長さが0.05秒普段より長くなります。それはお嬢様が父親について話すときに見せた癖であり、邪悪に対する嫌悪感からくるものなんですよ」


「…は?いや、何意味不明な根拠でワシを犯人にしてるんだよ。そもそもワシが旅行から帰ってきて妻が毒殺されてるのを見つけたのに」と声を荒げて、私に詰め寄ってきた。


「それは、トリックを使ったのだとお嬢様は見抜いています」


「トリック?見抜いている?」


「お嬢様はコーヒーをひいきにしていると言いましたが、普段そういう言葉遣いはしません。ひいきという言葉がヒントなんですよ。ヒイキの文字を並び替えてイヒとしてその上にキを横に倒した草冠を置けば、花という漢字になります。有名な暗号です」

説明を続けながら、事件現場の写真を指さした。

「その言葉を念頭に写真をみると…ほら、ここに花が写っています。でもよく見比べるとこの花の茎は花瓶に対して長すぎますね。これじゃあ花瓶が倒れてしまうでしょう。つまりあなたが旅行に出た時はもう少し短かった、違いますか?」


つまり時限装置だ。

家を出る時に妻を睡眠薬で眠らせて、花瓶をセットする。家にいない間に花が成長してバランスを崩し花瓶が落下する。それをトリガーにして毒ガスが発生するようにしていたのだろう。花瓶だけが割れていては不自然だから、絵やアクセサリーも壊して目立たなくした。そんなところか。


トリックが見抜かれて観念したのだろう。依頼人の老人はがくりと肩を落とし「わかりました。自首してきますよ」と言い、「最後に教えてくれ。なんであの探偵は自分で犯人を指摘しなかったんだ?」ときいてきた。


もちろん私に、答える義理はない。

「お嬢様の所に戻る必要はないので、そのまま自首してくださいね」と言って突っぱねて、事件解決となった。


屋敷を出て自首しに警察へ向かう老人の背中を見送りながら、私も気になってきた。

――なぜお嬢様は、犯人を直接指摘したがらなかったのか。


それは、きっと、お嬢様は誰も傷つけたくないからだ。

お嬢様の言う「誰も」には、文字通り全ての人が含まれる。ユニセフ募金で助かる難民の子どもも、私も、そして殺人犯も。


犯人を指摘するという正義を実行することは、犯人の心を傷つける。だから、お嬢様は犯人について直接言及する気になれず、暗号で犯人を仄めかしたのだ。


お嬢様は、狂気的なまでに、全ての人に優しくあろうとしている。その姿はとても気高く美しいが、決して「私に」優しいわけじゃない。


私がお嬢様を愛していることは、関係ないのだ。


今日の一件はその事実を残酷に、ハッキリと浮き彫りにしてしまった。


でも、私が犯人を指摘することで、お嬢様は犯人を傷つけなくて済んだのは間違いない。なら、これは喜ばしいことだ。愛するお嬢様の役に立てたのだから。


私は自分に言い聞かせながら、応接間で待つお嬢様の所へ戻って行った。

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