惜別にて

ハナビシトモエ

第1話 僕はペンネ

 利賀純也は慣れない雪道を踏んでいた。コートを着ていても隙間から冷たい風は入ってくる。関東から東北に家庭の事情でやってきた。ふくらはぎまである雪を進むのは骨が折れた。純也はこれからここに慣れていかないといけないのかと嘆息した。


 学校から帰る途中の田園風景は曇天の憂鬱さに生命力を感じぬ雪に埋もうた田畑、いや田畑かもわからぬ。その下が広い草原だったとしても純也の心は少しも明るくならなかっただろう。雪しかない町、そこが今の居場所だった。

 

 家路を急いだ。そろそろ来るかもしれない、そんな予感があった。ほとんどは外れていたけど、今日こそはと思っていた。


 純也には早く帰宅しなければいけない理由があった。今日は来る日だ。


 純也は親の離婚の為、母の実家がある金谷町にやってきた。金谷町は人口数千の小さな町だ。東京からすれば大抵の街は小さな町であるが、中学のクラスは一クラス十八人しかないことにはさすがに驚いた。


 クラスメイトは歓迎となぜ今の時期に転校してきたのかと不審な疑問を持つ者があった。寒い中学二年の十一月のこと。転校というものは大体四月のはずだろう。しかもこんな田舎に。そういった声が聞こえてきそうでいたたまれなくなって、十二月時点で今のところ友達はいない。


 手紙を書くよ。そう言った『東京の友達』からメールはおろか電話だって、LINEだって来ない。みな忙しくしている。もういなくなった生徒のことなど気にしないのだろう。それが悲しいとは思わない。そういうものでそういったものだ。そう思う。


「ペンネ、そちらは雪が積もって大変でしょうね。本当はこちらから何か送ってあげたいけど、今の若い人は何が好きなのかしら。最中なんて食べないわよね。私だって食べないわよ、あんな口が乾くのを。ペンネ、私は元気に生きているわ」


 ソシネは静岡に住む七十歳の老婆、今は事情があって京都にいる。

出会いは母が引っ越しを決めた十月で、その時既に準備は済んでいた。父の不倫事件が一区切りつきそうだった我が家。とは言え何をケチってか、不倫をした父が家を出て行かない。


 大方、不倫相手から見放されたのだろう。朝はしっかり起きて会社に行き、夜にはコンビニ弁当と二リットルの水を買って帰ってくる。風呂は銭湯かネカフェで済ましてくるらしく、父の体から異臭はしなかった。


 母は父に食材を使うことを許さなかったが、自室を使うことは許した。ということで、会社には行くが、家の人間誰も会わないし、口を利かない。そんな家族にしたのは父に大きな責任があり、母に責任があり、奔放でろくに家に帰らぬ姉に責任があったのだろうし、無関心を決め込んだ僕にもあったかもしれない。


 そんな家庭状況に疲れた僕がした最大の反抗だった。同盟だと思っていた母への背信だったのかもしれない。東京からこだまに乗った。

 いつまで家出するにしても、金がかかるのぞみに乗ることは無理であったし、冷静に自分のこれからについて考える時間が必要だった。なので、各駅停車のこだま。客は乗っている車両席に人は座っていないのに空いているのは僕のところを含めても数か所程度だった。ほとんどの客は荷物を席に置いていた。


「すみません。私、京都で降りるのだけれど、お兄さんすごく申し訳ないのだけれど、起こしてくださらない?」


 行き先は大阪だった。大きい町に行けばどうとでもなるという目論見があった。

 軽く眠っているといきなり見も知らぬ老婆に話しかけられたことに驚いたが、初見に起こすように頼むその厚かましさに驚いた。

 それがソシネとの出会いだ。ただ不快感は覚えなかった。なぜならその老婆の身なりはきれいでシャンとして美しかった。そして何よりもシャンとしているが相反することに表情は庇護欲をそそられるほどの不安げだった。


「京都ですね」


「そう京都、それではよろしくお願いいたします」


 そう深々と頭を下げ、老婆は二列掛けの隣の席に腰かけそのうちピクリとも動かなくなった。まさか死んでいないだろうな。僕はそんな心配をした。米原辺りで起こしてそれでももうダメだったら非常ボタンを押そう。そういった覚悟で悶々としていたが、ふと思った。そうだ、京都で降りよう。


 大阪までの切符を買っていた。ちょうどいい、帰ろうと思ったらいつでも帰ることが出来そうだ。それがこの老婆の頼りなさに引かれて、京都で降りようと思った。京都の方が忙しそうだが、ビジネスホテルでも十分だ。カプセルホテルでもいい。ただ、高校二年生を泊めてくれるホテルがあればだが。高速バスの取り方は知っていたのでどうにかなるだろう。


 京都観光をして帰京かな。観光たって人だらけだろう。これならまだ大阪観光の方がゆっくり回れるだろう。まぁ、開いている観光地があるかは分からないが、ただこの老婆がなぜ小さな鞄を持って京都に新幹線で来てみたいと、言ったのか深く考えてしまう。子どもたちの家に厄介になるのか、あんな存在が不安定な人がどうするのか僕は大層気になった。


 名古屋を過ぎてものぞみやひかりに抜かれ続けた。隣の席の老婆は相変わらず起きない。これはますますまずいかもしれない。名古屋を出た辺りで老婆の肩を揺すろうとした。揺する時になんといって起こせばいいのか悩んだ。

 肩に触れることへの遠慮があった。声を掛けてみようとも、おばあさんは失礼かもしれない。お姉さんはなにか違う。こういうことになるなら名前を聞いておけば良かった。起きない。


「あの、あの」

 結局、『あの』を使うはめになった。肩を肩で揺らすと老婆はうつろに目を開けた。


「あぁ、もう京都?」


「少し前です。あまり動かないものだから心配になって」


「まどろみのつもりだったのに、ぐっすり寝てしまったわ」

 僕にはまどろみが何なのか分からなかった。


「あのお子さんの家に行かれるのですか?」

 我ながら突拍子もないことを聞いた。プライベートに踏み込んだ。まだ会って二時間しか経っていないのに。失言を自覚し、顔がゆがんだと思う。そんな反応を見せてしまい乗車時にシャンとしていた老婆はいなくなった。


「困らせたね。ごめんね」


「いえ、失礼なことを…」


「何の訳もない仕方のない話よ。それでも良ければ聞いてちょうだい」


「はい、是非」


 聞いておかねばならぬ気がした。ただの老婆の与太話を聞くのだ。それだけのはずなのにとてもドキドキした。京都になぞらえるのならばまだ見ぬ清水の舞台の縁に二本足で乗った様な。大袈裟かもしれないが、僕はそのような感覚に陥ったのだ。


「若い人に言う話じゃないかもしれないけどね。私たちには息子と娘がいたの。今から十年前に事故で死んでしまった。高速道路を走っている時にトンネル事故に巻き込まれてね。仲が良かったから、京都のありがたい寺社仏閣を参拝して、幸運を舞いこませるんだ。なんて、十月中旬に言い切って行ったの。旦那と共に、車で最終目的地の京都まで行っていたの。高速道路で止まるわけにはいかないからね。私たちは子どもたちの代わりに京都へ行っていたの。でも去年旦那が亡くなってしまって」


 僕は無言で次の言葉を待った。ここで性急に言葉を進めてはならない、でないと老婆の告白を聞かぬまま京都についてしまう。こだまはいつの間にか米原を出ていた。ところが老婆はそれ以上告白を述べなかった。顔を上げた老婆はどこか爽快な表情さえ見せた。


「学生さんは家出かしらね」

 今度はこちらの番か。


「父親が不倫して今も家にいるのですけど、家庭の空気は最悪。母は前より仕事を増やしたし、姉は家に帰らないし、父は会社から帰ったら部屋に閉じこもるし」


 なんだ。簡単な話では無いか。そう思い、おそらくそんな顔をしていたのだろう。


「言ってみると簡単なのですね」


「簡単じゃないよ。簡単じゃない。不倫したとか、家族が家にいないことは簡単じゃない」

 気持ちは違っていたので、目に温かいものが溜まった。いけないここで流したら、京都を抜けてしまう。理屈で分かっただけだったのだ。


「おばあさん、京都ご一緒してもいいですか?」


「私の事はソシネって呼んでください。お友達にもソシネさんって呼ばれているの」

 僕のことはどう呼んでもらうのが適切なのか利根さん純也くん。そういえば昨日の夕食はペンネだった。向こうがハンドルネームならこちらも応えるべきか。




「じゃ、僕はペンネで」

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