宙浮く彼女は転ばない
花屑かい
宙浮く彼女は転ばない
僕が初めてそれを見たのは高校初めての夏の事だった。
じわじわと追い詰めるような暑さが身体中にまとわりついて、教室を抜けた廊下ではまるで蒸し焼きにされているような気分だった。物覚えの悪い僕は休み時間ぎりぎりだからと置いてきた友人を連れてくればよかったという後悔とともに、トイレを探して走り回っていたのを覚えている。
額から吹き出る汗を拭うとワイシャツに染みを作るが、それに一瞥する暇もなく走る。やっと見つけた僕は標識も見ずに一直線に駆け込んだ。それがいい事だったのか悪い事だったのかは客観的に見れば後者だろう。
それはあまりにも強烈だった。
黒い髪をひとつに結い上げた少女が一人、壁に取り付けられた鏡の前で胡座をかいて、白く細い指先で前髪を整えている。
僕らを包み込むぬるい空気は心臓が凍てつくような衝撃とあまりにもアンバランスで、蝉の大きな鳴き声がそれを代弁してくれているような気がした。
少女は、浮いていた。
床から四十センチほど離れた宙で胡座をかき、スカートが垂さがる。
少女は僕の足音に気がついたのか、こちらを向いて固まった。
薄く赤みがかった茶色い瞳が僕を見つめる。大きく見開かれたそれはどこまでも深く僕のことを掴んで離さなかった。どれくらい見合っていたのか。きっと数秒にも満たない些細な時間が、僕には異様に長かったように思えた。
少女の足がすっとスカートから現れて、地に足を着けた。
「──あ、ちょっと!」
僕が声を出した時にはもうそこにいなくて、横を駆け抜けた時の生ぬるい風の感触だけがまだそこにあった。
「先輩」
「……なに」
「一緒に帰ってもいいですか?」
あれから一年。一つ上だと知ったあの時の少女とは、少し仲良くなった。ずっと僕が一方的に話しかけるだけだけど、目が合えば僕が手を振るまではこっちを見続けてくれるし、たまにこうして一緒に帰ることも許してくれる。今だって駄目ではないけど、と返事をくれた。
陽炎が揺らめく茹だるような暑さの中、同じ学校の制服に身を包んだ僕らは並んで駅に向かう。ぽつりぽつりと同じ制服に袖を通した生徒が周りに見えて、道を曲がってコンビニに入っていくものもいた。今日は少し寄り道しないかと誘ってみようか。
蝉のBGMが会話の隙間を埋め、そういえばと先輩が話の流れを変える。
「すごい今更だけどさ、家どの辺なの?」
「えっ、先輩が僕に興味を……!」
少し、いやだいぶ感動している。先輩から話題を振ってくれることはあまりなく、僕が常に話しまくっているので友人間では些細なそれも先輩相手となるととてつもなくうれしい。もちろん僕が話すだけでも先輩といるだけで楽しいのだが。
「そういうんじゃなくて。いつも駅まで送ってくれるのはありがたいけど、それで逆方向だったら悪いなって思っただけ」
「逆ではないですよ、だたちょーっと過ぎてるだけで……」
「どれくらい」
「ほんとにちょっとですよ!」
「それで?」
「ま、その、四駅、くらいですかね……」
先輩に嘘はつけない。僕は素直にそう言うと、わざと目を合わせようとしない僕の顔をじっと見つめてくる。
「まあ、あんたが好きでついてきてるし、私が悪く思わなくてもいいか」
「ふっあはは、先輩ってやっぱ変わってますよね」
「それって浮ける以外で?」
「自覚ないんですか?」
「ない」
先輩は宙に浮ける。初めて会った時もそうだったし、今ではバレていると割り切っているのか隠そうともしない。最初の方は、やれ勘違いだの幻覚だの言われたが諦めたらしかった。故に転ぶこともなければ、空中で眠ることもできるらしい。先輩にとってそれは息をするのと同程度の感覚で、違うのは生命維持の役目ではないということだけ。
先輩の高く結びあげた髪が風でひらひらと持ってかれる。一本一本が流れに任せて揺れるさまは先輩の周りに流されない強い意志とは真逆に思えた。
「でも周りからよく言われる。自分ではあんま納得してないんだけど」
「いいじゃないですか、なんか先輩らしくて」
「それっていい意味?」
「そうですよ! 先輩のそうゆーところ僕はす、きやきくらい好きです」
「ふっ、なにそれ」
失敗した。結局好きと言ってしまっているし、誤魔化した意味はあったのだろうか。でもまあ微笑む先輩が見れたのでよくやった自分。
もういっそのこと言ってしまおうか。
「先輩のことが好きです」って。
いや、いつか言う気ではあるがまだ早いか。流石に出会って一年しかたっていないし。いやでも二週間でスピード結婚とか――
「――え」
瞬間、先輩が視界から消えた。
消えた、というよりは倒れたのほうが近いか。
「えっ! ちょ、大丈夫ですか⁈」
「……へーき」
転んだ。先輩が。
むくりと上半身を起こし、しりもちをつく。そのまま立ち上がろうとしない様子に、僕は咄嗟にしゃがんで目線を合わせた。
「本当に大丈夫ですか? けがしてないですか? 膝とか」
合わせた瞳には水の膜が張っていて、そんなに酷いけがなのかと心がざわつく。
「絆創膏とか持ってたかな。ティッシュ、は持ってないんだった、えっと」
鞄を漁り始める僕の手の上に不意に先輩の手が重なって心臓が跳ねる。
「本当に大丈夫。ぎりぎり浮けたから」
「でも」
「ねえ、さっきのほんと?」
さっきの、とは何のことだろう。すき焼きくらい好きと言ったことだろうか。もちろん先輩のほうがすき焼きの何億倍以上も好きなので、そういう意味では嘘かもしれない。
よくよく見ると先輩の頬はほんのり紅潮していて、暑くて倒れたのかも、そのせいで立ち上がれないのかもしれないと焦る。
「先輩、日陰行きましょ」
そう言う僕の顔を見て、先輩は眉間に皺を寄せ下唇を柔く噛む。そうして若干の苛立ちを含んだ声言う。
「だから、好きって本当?」
「……すき焼きのことですか? 別に好きですけど」
「……」
「……」
なんなんだ、この間は。先輩は神妙な、呆れたような表情でため息を一つ吐いた。
「思わず口からってやつ? 初めて見たよ」
「え、僕なんか」
「言ってない、なんも」
食い気味に被せてくる先輩はゆっくりと立ち上がると、足やスカートについた小石を叩き落として振り返る。
「ごめん、行こう」
そう言う先輩の耳が真っ赤に染まっていて、僕はまた日陰の提案をしようと思い口を開いた。
宙浮く彼女は転ばない 花屑かい @hanakuzu_kai
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