誘拐少女と探偵 - 11

 隣のリビングから聞こえる物音に気を配りながら僕はツキノちゃんとの時間を過ごしていた。あの男が壁の向こうにいることで気の休まらない思いを抱える僕に対し、ツキノちゃんは先ほどの怯えた姿は影を潜め、今はお絵描きに夢中になっていた。耳が聞こえない彼女は、目の前にさえあの男がいなければ気づかないようだ。


 すでに紅坂さんが外へ出てから三時間以上が経過している。ホームセンターへの買い物がそんなに時間が掛かるとは思えない。きっと紅坂さんは男がマンションに戻ってきたことに気がつき、入るに入れない状態になっているのだろう。


 今の僕にできることは、紅坂さんに男の動向を伝えることくらいしかなかった。紅坂さんは対象者の場所さえわかれば思考を読むことができると言っていた。だとすれば、今も僕の思考を外から読み取り、情報を得ている可能性は十分にあるはずだ。文字通り、身動きが取れない僕は紅坂さんに頼るしか選択肢がなかった。


 男に動きがあったのは、部屋にある掛け時計の針が十七時を示したときだった。


 リビングで男が動く音がした。何をしているかまではわからなかったが、しばらくすると足音が遠ざかっていき、ドアの閉まるような音を最後に静かになった。外出したみたいだ。


 チャンスは今しかない。僕は頭の中で紅坂さんへSOSのメッセージを繰り返し唱える。男が戻ってくるまでにどれだけの猶予があるかわからない。とにかく時間がなかった。


 届いているか定かではないメッセージを送り続けること十分。玄関から物音がした。


 心臓が大きく跳ねる。足音の主が男なのか紅坂さんなのかはわからない。音が近づいて来るのを待つのは、まるで判決を待つ受刑者のような気分だった。


 部屋のふすまがスライドする。

 現れたのは紅坂さんだった。肩には大きなビニール袋を掛けている。


「待った?」


 待ち合わせに遅れてやってきた友人のように紅坂さんは言った。


「待ちくたびれましたよ」


 本当はさっきまで不安でしかたがなかったのだが、僕は精一杯の強がりで返す。もっとも紅坂さんの前で虚勢なんて意味はないのかもしれないけれど。


「記憶喪失に続いて誘拐されるなんて、真雪くんは愉快な人生を送っているね。あれ? 自分からここまでやって来たわけだし、誘拐ではないのかな。この場合はなんていうんだろう。監禁?」

「どっちでもいいです。でも安心しました。僕のメッセージは紅坂さんに届いていたんですね」


「メッセージ?」紅坂さんは不思議そうな顔をした後、一拍置いて「ああ、なるほど」と頷いた。


「あたしに状況を伝えようとしてくれてたんだ。でも残念。すぐに戻ってくるつもりだったから真雪くんのいる場所を正確に把握していなくてさ。君の思考を読むことはできなかったんだ。少しでも座標がずれていると使えなくなるのが、この能力の最大の欠陥なんだよね」

「それなら、紅坂さんは今まで何をしていたんですか?」

「言っていた通り、これを買ってきたんだよ」


 そう言って紅坂さんがビニール袋から取り出したのは、五十センチメートルはありそうな大きなニッパーだった。チェーンクリッパーと言うらしい。いかにも鎖を切断できそうなごつい見た目をしている。


「戻ってきたら、ちょうどこの部屋に入っていく男を見かけてね。頭の中を覗いたら、この部屋の主だっていうんだからびっくりしたよ。これは大変なことになったとこっそり忍び込んで様子を窺っていたんだけど、真雪くんが拘束された程度で済んでたし、ツキノちゃんに暴行の形跡もないことから、すぐに大事にはならないと考えて、君たちの救出は男がいなくなったからってことにして、別の仕事を片付けていたの」

「こっちは大変だったんですから。もっと早く来てくださいよ」

「下手にもめ事を起こせば困るのは君とその子だよ。ああ、そうだ。その子の名前の漢字も男の記憶からわかったよ。空に浮かぶ『月』に乃木坂の『乃』で『月乃』ちゃんだって。きれいな名前だよね。ちなみに父親は『大樹』だって」

「その父親が今どこにいるかは知っていますか?」

「スーパーに行ったみたい。往復で三十分は掛かるみたいだよ」

「それなら、今すぐ逃げましょう」

「それがいいね」


 紅坂さんはチェーンクリッパーをケースから取り出す。試運転のつもりか、紅坂さんが空中で三回刃を開け閉めする。鈍い金属がぶつかる音はチェーンだけどなく、人間の指や腕すらも切断しそうな気がして恐怖を感じる。


 僕は目をつぶって手錠がはめられた左腕を差し出す。


 そのとき動物が吠えたような声がして、続いて僕の身体に衝撃がやってきた。目を開けると、言葉にならない言葉を叫びながら月乃ちゃんが泣きながら僕に抱き着いていた。尋常じゃないほど取り乱している。チェーンクリッパーで乱暴されるとでも想像しているのかもしれない。


 僕は月乃ちゃんを落ち着けようと優しく彼女を抱きしめ、背中をそっと撫でる。しかしいくら宥めても、一向に収まる様子がない。


 まだ男が戻ってくるまで猶予があるとはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。ここは強引にでも連れていくしかないと腹を括ったところで「違うよ」と僕らを傍観していた紅坂さんが言った。


「その子はチェーンクリッパーを怖がっているんじゃない」

「じゃあ、なぜこんなに暴れているんですか?」

「ここから出たくないんだって」


「は?」


 意味が分からず僕は紅坂さんの顔を見つめ返す。


「どういうことですか?」

「言葉通りの意味だよ。月乃ちゃんはこの部屋にずっといたいみたい。外に出るのが怖いんだ」

「そんな……。こんな扱いを受けながら、ここに縛られるなんて間違ってます」

「あたしにそう言われてもね」


 紅坂さんは目にかかった前髪を払った。


「選択肢は三つだね。その子を説得して連れていくか、無理やり連れだすか、あるいはここに置いていくかだ」

「そんな……」


 せっかく上手くいっていたというのに、突然の窮地に言葉が出ない。


 最善手は月乃ちゃんを説得することであることは間違いない。しかし彼女には言葉が通じない。時間を掛ければ何とかなるかもしれないけれど、今はその時間がない。


 無理やり連れだすことはどうだろうか。体格差があるので可能ではある。しかしこれだけ取り乱している子を連れていては他者の目に留まることは避けられないだろう。何より、これ以上月乃ちゃんに心理的な負荷を掛けたくない。


 今日まで散々な目に遭ってきた彼女だ。せめて僕だけでも味方でいてあげたい。なら、彼女をここに一人置いていくか? 愚問だ。できるはずがない。


 助けを求めて紅坂さんを見る。しかし彼女は鼻歌交じりに部屋の中を眺めると、押し入れに近づいていき、引き出しの中を物色しだした。選択を僕に託したということなのだろう。


 腕の中で呻く月乃ちゃんと目が合う。その目は何かを必死に訴えかけている。僕は少女の小さな手を握る。小さな手は雪の体温より冷たく弱弱しかった。触れた瞬間、自分がすべきことがわかった気がした。


「決めました」


 覚悟をもって僕が言うと、紅坂さんは挑発的な笑みを浮かべた。


「真雪くんの選択を聞かせてよ」

「月乃ちゃんはここに置いてきます」


 紅坂さんは口笛を吹く真似をする。音はなっていなかった。


「意外な答えだね。でも悪くないと思うよ。選択肢が限られているときは、無理をせずに引くことも大事だからね。あたしの好みではないけどさ」

「いいえ。月乃ちゃんだけを置いては行きません」

「どういうこと?」

「僕もここに残ります」

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