魔法使いの同居人 - 15

 昨夜降った雨のせいで校庭はぬかるんでいた。歩くたびに靴の底に泥が貼りつく嫌な感触がする。倉庫前を待ち合わせ場所に選んだのは失敗だったかもしれない。呼び出した相手に申し訳ない気持ちになるが、今さら場所を変更するわけにもいかない。


 しばらくすると校舎の方からこちらに向かってくる待ち人の姿が見えてきた。ゆっくりと余裕を感じさせる足取りでやって来る。


「一ノ瀬からサボりの誘いなんて、珍しいね。雪でも降るんじゃない?」


 涼川さんはぶっきらぼうに言った。


「やめてよ。雪は嫌いなんだ」

「どうして?」

「特に理由はないけど」

「私は好きだよ。冬眠してしまう動物もいるけど、逆に冬にだけ姿を見せる動物がいて、他の季節とは違った楽しさがある」


 涼川さんは目を閉じると薄く笑った。

 瞼の裏に動物が見ているのかもしれない。


 再び目を開いたとき、涼川さんの表情から笑みは消えていた。気だるそうないつもの彼女に戻っていた。


「それで、ここに呼び出した目的は何なの?」

「あれ? 紗月さんから聞かなかった?」

「紗月って? あの透明人間のこと?」


 どうやら紗月さんは何も説明しなかったらしい。自分の名前すらも。自ら伝言役を買って出たくせに、ずさんな仕事ぶりだ。


 僕は紗月さんについて簡単に説明する。催眠術を使えること。そして人形遣いを見つけるために学校へ忍び込んでいること。


 彼女が泥棒であることと、僕の家に仕事で侵入していることはややこしいので伏せておいた。こればっかりは僕と紗月さんの問題であって、涼川さんには関係のないことだ。


 説明を聞いた涼川さんは一言「なるほどね」と言った。


 話を疑うこともなく、すんなりと飲み込んでくれる。きっと僕と同じように、彼女の能力を目の当たりしてしまった以上、信じるしかないといった心境なのだろう。


 あるいは、自身も特別な力を持っていることで、免疫があるのかもしれない。


「それで」と涼川さんは切り出す。


「一ノ瀬はその友達を紹介するためにここへ来たの?」

「もちろん違うよ。でも、本題に入る前に紗月さんを紹介する必要があったんだ」

「それなら、そろそろ本題に入りましょう」


 涼川さんの目はまっすぐに僕を見つめている。その目の奥に寂しさが混じっているように思えた。涼川さんはきっと呼び出された理由に勘付いているのだろう。


「人形遣いの正体は涼川さん、君なんだね」


 僕は単刀直入に言った。

 彼女から視線をそらさず正面から見つめ合う。


 涼川さんに動じている様子はなかった。いつもの落ち着いた表情のままだ。


 二人とも黙ったまま時間だけが過ぎる。気まずさはあったが、辛抱して彼女の言葉を待つ。


「一応、そう思った理由を聞いてもいい」


 僕はズボンのポケットから、用意していた一枚の写真を取り出した。それは雨森さんの手帳に挟まれていた校庭の写真だった。今朝、雨森さんに頭を下げて拝借したのだ。


 写真を涼川さんへ差し出す。


「先日二人でこれを見たのは覚えているよね」

「ええ。覚えてるわ」

「そこに何が写っているか教えてくれる?」


 涼川さんは写真に目を落とすと「私たちが今いる校庭の写真でしょ。植えられた桜の木とフェンスの向こうには家がある」と見たものを一つ一つ説明してくれる。


「それから小学生が二人いるわね」

「ほかには?」


 僕の問いに涼川さんは首を傾げる。


「ほかには何もいないけど」

「そうだよね。僕も涼川さんが言ってくれた以外のものは見えない。つまり僕と涼川さんには、その写真が同じように見えているんだ」

「当り前じゃない。一ノ瀬は何が言いたいわけ?」

「実は写真には、ほかにも写されているものがあるんだよ」


 僕は涼川さんの手から写真を受け取る。そしてその中に写る、自分には見えていないあるものの姿を想像する。


「この写真にはね、猫がいるんだよ」

「猫?」


 僕は頷く。写真の中には猫がいる。それは会長と雨森さんと紗月さん、三人から証言を得た情報だ。僕にはそれが見えない。


 なぜ三人に見えて、僕には見えないのか。

 言うまでもない、紗月さんの催眠術のせいだ。


「僕は募金活動のあった日に、募金箱をこの倉庫へ取りに行った。そのときに倉庫の中で紗月さんに催眠術を掛けてもらったんだ。その催眠術っていうのが、窓の外にいた猫を見えないようにするものだった」


 あの日のやり取りを思い出す。


 紗月さんの言葉と同時に、窓の外にいた猫が一瞬にして姿を消した。あの瞬間、催眠術によって、僕は三毛猫を認識することができなくなった。だから写真の中にいるはずの猫が僕には見えないのだ。


 それでは涼川さんはどうだろう。

 どうして僕と同じく、彼女にも猫が認識できないのか。


 答えは一つしかない。

 涼川さんも僕と同じタイミングで、紗月さんに催眠術に掛けられていたのだ。


「あのとき涼川さんも倉庫の中にいたんだ。僕らより先に倉庫に入っていた涼川さんは、おそらくドアの前で僕と用務員のおじさんが会話しているのを聞いて、物陰に隠れた。そして紗月さんが僕に掛けた催眠術に、君も掛かってしまったんだ」


 倉庫で隠れているとき、涼川さんには紗月さんの声は聞こえていなかったはずだ。僕が独り言を言っているように聞こえただろう。


 しかし紗月さんは言っていた。認識できなくなっただけで、紗月さんの声は催眠術を掛けられた人にも聞こえるのだと。

 涼川さんは気づかないうちに、僕と同じく猫が見えなくなっていたのだ。


 涼川さんは無言だった。無駄な口を挟まずに、まずは僕にすべてを話させようとしている。彼女の望み通り話を続ける。


「会長の事件が起きたとき、倉庫は密室になっていた。ドアノブの取り換え作業が行われていて、僕が部屋を出てから事件が終わるまで、誰も室内に入れない状態だった。それなのに僕が倉庫で見たライン引きが犯行に使われていた。密室となっていた倉庫から何者かに持ち出されていたんだ。でも犯人が密室になる前から室内にいたと考えれば、何も不思議なことはない。僕がいなくなった後に、室内から窓を使って外に出ればいいだけの話だ。倉庫の窓は室内からは開閉が可能で、外に出た後に窓を閉めればロックがかかる仕組みになっていた。手の込んだトリックも特殊能力も必要なかったんだ」


 僕は間を置くと、もう一度確認の言葉を口にする。


「涼川さんが人形遣いだったんだね」


 気づかなかったことにすることもできた。素知らぬ顔でこれまでと同じように付き合い続けることも可能だった。それでも僕は彼女と対峙することを選んだのだ。


 涼川さんの顔に柔らかな色が差した。


「うん」どこか晴れやかな表情で涼川さんは首を縦に振った。


「私が人形遣いよ」


 喉の奥にツンとした痛みが走る。胸に穴が開いたような気分だ。

 間違いであってほしかった、というのが本心だった。

 これだけカッコつけておいて「間違ってました」では、晩年まで忘れられない大恥をかくことになった。それでもこんな気持ちを味わうくらいなら、恥をかいた方がずっとよかった。


「なんだか一ノ瀬、名探偵みたいだったよ」

「買いかぶりすぎだよ。だって涼川さんがどうしてこんなことをしたのか、僕にはまるでわからないんだ」


 急に強い風が吹いた。

 涼川さんは乱れた前髪をかき上げながら、伏し目がちに語りだした。


「生徒会は文化祭の日程を延ばそうとしていたでしょ。それをどうしても食い止めたかったの」


 予想外の回答に面食らってしまう。

 確かに涼川さんは文化祭を楽しむタイプの人間ではないとは思うが、こんなことをしでかすほど嫌だったというのか。


「そんな理由で?」という言葉が出かけたが、思い直した。涼川さんが利己的な理由でこんなにことを仕出かすはずがない。僕には彼女の本心はわからないけれど、これだけは確信を持って言える。


「中庭の鳥小屋にいる子達ね、ケイスケとケイコっていうの」


 急に話が変わった。意味するところがわからないので、黙って次の台詞を待つ。


「文化祭の期間中、中庭は模擬店とかで騒がしいから、あの子たちは用務員室に預けられることになってるの」

「知ってるよ。生徒会で手続きをしたからね」

「一ノ瀬は行ったことないかもしれないけど、用務員室って凄く埃っぽくて、湿度が高いの。人間にはわからないかもしれないけど、あの子たちに取ってはひどい環境なのよ。だから期間中、私が引き取ることを先生に提案してみた。でも学校で飼っている動物を生徒個人に預けることはできないって断られちゃった。だからせめて文化祭の開催日数だけでも短くしてあげたかったの。生徒会役員が不祥事で退任すれば、先生たちと交渉する人はいなくなるでしょ」


 涼川さんが弱弱しく微笑んだ。見たことのない表情だった。


「それだけのためにあんな大事を起こしたなんて、一ノ瀬には理解できないでしょ?」


 涼川さんが問いかけてくる。

 正直に言えば理解できなかった。


 彼女が動物を大事にしていることは知っているし、誰に頼まれたわけでもないのに献身的に世話を焼いているのを何度となく目撃したことがある。それでも僕には鶏のためにそこまでする彼女の気持ちがわからなかった。誤解を恐れずに言ってしまえば、たかが動物じゃないかと思ってしまう。


 しかし涼川さんにとっては「たかが」ではないのだろう。人に迷惑をかけることを良しとしない彼女が僕らに牙を剥くほどに重要なことなのだ。


 その気持ちを否定してはいけないことくらいわかる。理解はできなくても許容したいと思った。方法は間違っているかもしれない。だけどそれを許すことができるのは友達の特権だ。


 一方で、僕が悔しくてしかたないのは、涼川さんに相談されなかったことだ。彼女は誰にも悩みを打ち明けることなく、不器用な計画を一人で実行した。誰よりも近い場所にいたはずなのに、大事なときに頼りにされなかった自分自身が情けない。


「気づいてあげられなくてごめん」


 言えることはそれだけだった。

 力になれなくてごめん。


「ううん」涼川さんははっきりと否定する。


「本当はもっといい方法があるはずなのに、もうこれしかないって盲目になってた。誰にも言えずに一人で殻にこもっていたの。一ノ瀬にまで手をだそうとするなんて、本当にどうかしてる。数少ない、私の友人なのに」

「いいんだ。それよりさ、僕にも鶏の件を手伝わせてほしい。今すぐに良い案は出ないけれど、会長にも相談してみるよ」


 涼川さんは悲しんでいるとも、喜んでいるともつかない表情で笑った。目が潤んでいるように見えるのは、僕の勘違いだろうか。


「ありがとう。でも一ノ瀬にだけやらせるつもりはないよ。私も一緒に考えさせて。だからさ、仲直りさせてもらえないかな。虫がいいのはわかってるけど、これからも友達でいさせて欲しい」

「仲直りはできないよ」


 涼川さんの顔が歪む。彼女のこんな表情は初めてだ。

 僕は続けて言う。


「だって僕たち、始めから喧嘩なんてしてないんだからさ」

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