白桃
大上 狼酔
白桃
「ねぇ、この桃食べてもいい?」
目の前の顔はぐっすりと眠ってしまい応える事がない。見舞いに来る度、いつもこうだ。日常茶飯事だったし、この光景は日々の生活に溶けこんでいた。ただ、この日常が壊れてしまうのではないかと想起してしまうと底知れぬ恐怖が襲ってくる。朧気な不安が頭から離れず、心臓を鷲掴みにする。目の前の愛しい顔に杞憂だと笑って欲しかった。
「応えないならもらっちゃうぞ~。」
窓を不意に見てみると、木枯らしが落ち葉を巻き上げている。ベッドの上に若い女がいて、その側に見舞いに来た青年が壁にもたれて座る。そんな構図が秋になるまで細々と続いているのかと実感する。
「ねぇ、ヒカル。もっと話をしたいよ。あの時みたいに思いっきり外を駆け回ってさ、下らないこと言って笑い合いたいよ。」
寝顔に向かってそっと手を伸ばしたが、触れる直前で怯んでしまい、その掌はベッドへと墜落した。代わりにシーツを握り込んで物思いに耽る。あれは10歳の時だから……、二人の出会いはもう8年前になるのか。
夏の暑さが過ぎ去り、秋の小寒さを覚えるような季節の教室での事だった。
彼女は独りで絵を描いていた。教室の窓から差し込む陽光に照らされる横顔がどうも美しかったので思わず彼は話しかけてしまった。
「ねぇ、何の絵を描いてるの?」
彼女は手を止めて彼の方を振り返った。
「……桃。」
「へー、桃! 旬だしねー。」
「……」
「いや、旬はもう少し前かー。」
「……」
衝動的な会話というものは長続きしない。沈黙から目を背けた時、自由帳の絵が視界に入る。
その桃は白桃であった。品種の話ではない。何故か普通の鉛筆を用いていたので色がないのだ。モノクロの桃から沸き出る悲壮感は彼女の世界を表現しているようにも思えた。
「……好きなんだね!」
「……うん、好き。とっても。」
「だよねー。美味しいもんね。」
「?」
「前にお婆ちゃん家で桃を食ったんだけどさ、『食べて食べて』って婆ちゃんに言われたから頑張って食べたんだよね。そしたら『何でそんな食べてるの!』ってお母さんに言われてさ。リフジンとはこの事だよね!」
彼女は笑いを堪えていた。一瞬、彼の“軽快な”トークの影響に思えたが目の色は嘲笑に近かった。彼が不思議そうにその顔を見たが、すぐに怪訝な表情を浮かべ、気迫で問いただした。
「だって、絵の話だと思ったんだもの。いきなり桃の話をされたら笑っちゃうよ。」
少年は顔を真っ赤にした。それこそ頬は白桃のように赤く照っている。しゅんと縮こまり声も出せない。
「主語がはっきりしてないとわからないよ。」
彼女は声を出して笑った。秋の季節に似つかわしくない、夏の光を跳ね返す向日葵のように。
そんな些細な事をきっかけに二人は仲良くなった。少しずつ、少しずつ。端から見たら焦れったい事この上ないのだが、本人達は満足していたようだ。
時は経ち、一年前のある日に彼女の入院が決まった。決して、気絶して運ばれたとか、吐血して卒倒したとかドラマチックな事は何一つ無かった。故に、すぐに元気になったとか、もう病気は大丈夫と医師が笑顔で告げるとかいう事も残念ながら無かった。乙女の心と体を徐々に害悪が蝕んでいくだけである。それを見ているしか出来ない現状に彼は無力さを抱えていたし、彼女もその心中を推し量っていた。
お互いが18歳となった時、彼女の手術の日程が決まった。彼女はそれを彼に伝える事を渋ってしまった。このまま手術して、成功して……、その時にごめんねーとでも言ってやり過ごせないか。頭の中で楽観的な妄想がぐるぐる回って彼女の決断を束縛する。
でも、どうしようもない。「告白」したら今度は告白してしまいそうで、そしたら死ぬのが怖くなって、そういう時ほど神様は残酷で、だったらこのまま、このまま。
毎日のように来る彼には彼女の表情がどう映っていたのか。少なくとも彼はその事を口にしなかった。母から聞いて気を使っていたのかもしれないし、本当に察しが悪かったのかもしれない。出来れば彼女は後者が良いなと思っていた。秘密を抱えたままの会話は彼女の心を締め付けた。彼もまた胸に秘めた想いを伝えてられずに歯痒い毎日を送っていた。
『あぁ、こんな事なら告白でもするんだった。』
「ねぇ、ねぇ。」
嫌というほど聞き慣れた、嫌いになれない穏やかな声。ふと目を覚ますと愛しい笑みがそこにある。
「ねぇ、この桃食べても良い?」
すでに桃にフォークを刺して目を輝かせていたが、形式上聞いてくれているらしい。
違う。そんな事はどうでも良い。
「……」
あれ?思うように声が出ない。言わなきゃいけない事はわかっているのに。自分の想いを告げるのも、告げないのも怖いのだから本当にどうしようもないな。
「あっ。」
「……あっ。」
感情が満たされた心に非ずんば、それを人は悲しみと呼ぶ。悲しみを覚えば人は涙を流す。
今の感情はその対義に当たるはずだった。
けれど、心の器の表面張力が崩れて静かに涙が溢れていた。
「何で泣いているの?」
理由が分からないのではないのだろう。直接聞きたいんだ。次は無いかもしれないと互いに知ったから。応えろ。伝えろ。今、ここで。
「ねぇ、……聞いて。」
目の前の顔が小さく頷いた。
「手術する事を聞いて、伝えなきゃとずっと思ってた。自分の言葉で自分の想いを。」
そっと瞼を閉じて、深く呼吸をし、胸を酸素と歓喜でいっぱいにする。ゆっくりと目を開けると、白黒だった世界に、恋を模した桃色が浮かびあがっていた。
「好きです。とっても。」
確かにその時、病室に漂う死の澱みを生命の息吹が吹き飛ばした。
※この物語は最初の台詞を彼のものか、彼女のものかで考えると見方が変わってきます。手術の後なのか前なのか。ヒカルはどちらなのか。白桃は一体全体誰のもの?
白桃 大上 狼酔 @usagizuki
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