俺とあの人の関係~あの人との出会いは雨宿りだった

 ――あの人とは雨宿りした喫茶店の前で出会った。


 突然降り出した雨に、傘を持っていなかった俺は喫茶店の軒先で雨宿りすることにした。少しするとサラリーマンが一人と女子高生が二人、それにあの人が軒先にやって来た。


「すっごい降ってる」

「やっば。前見えないじゃん」


 女子高生たちの小さいながらも賑やかな声を聞きながら、なぜかその人に視線が留まった。最初に抱いたのは「綺麗な人だな」という感想だ。男性に対して綺麗という表現が適切かはわからないが、そう言いたくなるような横顔をしていた。

 ふと、頬を伝う雫が目に入った。柔らかそうな淡い茶色の髪はしっとり濡れていて、少し長めの髪からは雫が垂れている。それが頬を伝い、首筋を濡らし、白いシャツの襟の内側にすべり落ちていった。

 それを見た瞬間、なぜかドキッとした。見てはいけないものを見たような気がして鼓動が早くなる。慌てて視線を逸らし、それからは目の前の通りと激しく降り続ける空だけを見た。


 その人と再会したのは偶然だった。たまたま雨宿りした喫茶店の前を通りかかったところで、カランコロンとドアベルを鳴らしながら出てきたのがあの人だった。柔らかそうな髪はふわりと整えられ、頬は濡れていない。それなのに白いシャツはなぜか左側だけ濡れていた。

 濡れた肩のあたりがうっすら透けている。それがやけに色っぽく見えてドキッとした。慌てて視線を外したところで「あれ?」という声が聞こえた。


「この前、ここで雨宿りしてた人だ」


「え?」と視線を向けると、あの人が俺を見ている。そのとき初めて足を止めていたことに気がついた。慌てて立ち去ろうとした俺を、あの人が「お兄さん、暇?」と呼び止めた。


「え……?」

「じつは振られちゃってね。まさかコップの水をかけられるとは思わなかったなぁ。このまま家に帰っても気が滅入りそうだから、ちょっとつき合ってくれると嬉しいなと思って。ほら、袖振り合うも他生の縁っていうでしょ?」

「……そういうことなら」


 なぜかそう返事をしていた。

 それから俺とあの人は、たまに会うようになった。喫茶店でコーヒーを飲むこともあれば近くの居酒屋で酒を酌み交わすこともある。たわいもない話を肴にしつつ、かといってお互いに自分自身のことは深く語らない。

 それが俺には心地よかった。きっとあの人もそうなのだろう。メッセージアプリの連絡先は交換したものの、会うとき以外にメッセージを送り合うこともなかった。


(何も知らないからこそ気軽に会えるということもある)


 人生相談なんかがいい例だ。街角の占い師に思わず愚痴をこぼすのもそれに似ている。昔からの友人ではなく会社の同僚でもない、不思議な関係。でも、俺たちにはそれがちょうどよかった。気が合うというより一緒にいると落ち着くのがいい。

 その日はたまたま前もって約束をしていた日だった。そういう日は滅多になく、大抵は当日になって「今夜どう?」とやり取りをする。ところが今日は珍しくあの人から「この日、空いてる?」と尋ねられた日だった。


「空いてますよ」

「じゃあ、ちょっとつき合って」

「どこにです?」

「場所っていうか、時間かな」


 珍しいなと思いながら時間と場所を決めた。ところがそういう日に限って仕事でトラブルが起きる。滅多にないトラブルで、当事者ではない俺まで借り出された。急いであれこれ済ませたものの、待ち合わせにギリギリ間に合うかどうかという時間になってしまった。


(しかも雨なんてな)


 今朝見た天気予報では天気が崩れるなんて話は出ていなかった。折りたたみ傘を持ち歩く習慣がない俺は、雨に降られながら急いで待ち合わせの場所に向かった。

 ところがあの人の姿がない。急に雨に降られ、近くのカフェにでも入ったのだろうか。そう思い、メッセージを送るためスマホを取り出そうとした手が止まった。


(あの喫茶店だ)


 なぜかそう思った。ここから少し歩くが、そう遠くはない。幸い、雨脚も穏やかになってきた。「それにもう濡れてしまったしな」と思いながら、あの人を初めて見たあの喫茶店へと向かった。


(いた)


 軒先にあの人が立っていた。ずぶ濡れの俺を見てあの人が小さく笑う。


「これじゃ店には入れないね」

「そうですね」

「さて、どうしようか」

「どうしますか」


「そうだなぁ」と空を見上げるあの人の横顔を見る。俺ほどではないものの、どうやら雨に降られたのは同じだったらしい。いつもはふわりと整えられた髪が少しだけしっとりしている。

 何気なく見ていると、前髪から雫が落ちるのが目に入った。それが頬を伝い、首筋を濡らし、Tシャツの襟ぐりに吸い込まれていく。続けてまた頬を雫が流れた。それがなぜか涙のように見え、突然喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。


(この人はどんなふうに泣くんだろうか)


 なぜかそんなこと思ってしまった。理由はわからない。


「そうだ、俺の部屋に来る?」

「え?」

「ほら、雨も上がったことだし」


 見るとたしかに雨は上がっていた。空はまだどんよりしているものの、しばらくはもちそうにも見える。


「どうする?」

「そうですね……」


 迷うような返事をしながら、結局俺は頷いていた。いや、最初からあの人の提案を断るつもりなんてなかった。

 友人ではなく同僚でもない人。どういう関係かと問われれば「知り合い」と答えるしかない相手。飲み友達、たまに会う知人、しかしどれもしっくりこない。


(俺はこの人とどういう関係になりたいんだろう)


 わからない。だが、その関係がこれから少しだけ変わるような気がした。

 目の前がほんの少し明るくなった。空を見上げると雲の切れ目から太陽の光が差している。雨上がりの独特な匂いに、なぜか心が躍るような気がした。


(一体何に期待しているんだろうな)


 わからない。それでも何かがきっと変わる。そう思いながら、あの人に続いて濡れた道へと一歩踏み出した。

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