白雨(はくう)~一軒家で共同生活を送る大学生のある一日
連日続く猛暑は空気を温めすぎるだけでなく、積乱雲を作って突然の雷雨を呼び寄せる。「今日も暑いなぁ」と縁側でぼんやり庭を眺めていた
(これは一雨来そうだな)
そう思っている間にサァッと振り始めた。空を見ると、遠くは真っ暗なものの家があるあたりは明るい。そのせいか、二日前はザァザァとうるさいくらいだったのに今日は空気を撫でるような雨脚だ。庭の木々に当たる雨音も柔らかく、少しだけ涼しさを感じさせる。
(
二日前、鏡也が実家に帰省するときは降っていなかった。念のため部屋の机にそっと折りたたみ傘を置いておいたけれど、ちゃんと鞄に入れただろうか。「店の誰か迎えに来るし、雨が降っても大丈夫だよ」とは前日の夜に鏡也が言った言葉で、今回は商いをしている祖母の手伝いに借り出されたらしい。
(手伝いもだけど、おばあちゃんは顔を見たかったんじゃないかなぁ)
一人暮らしの学生を心配する地方の親や祖父母は多いと聞く。近い親族がいない真尋は経験したことがないものの、なんとなく想像はできた。
鏡也は大学一年のときから四年になったいままで、正月三が日のどこか一日しか帰省していない。しかも毎回新幹線での日帰りばかりで、朝出て行ったかと思えば夕飯の頃には戻って来る。どうして真尋がそこまで詳しく知っているかというと、この家で共同生活をしているからだ。
(まさかこんなに長く一緒に暮らすことになるとは思ってなかったけど)
鏡也とは大学一年の夏休み前に初めて会った。当初は住む場所が決まるまでという話だったのが、気がつけば三年あまり経ったいまも同居を続けている。
(どっちかっていうと、僕のほうが出て行ってほしくなくなったんだよな)
鏡也と出会ったのは今日のように突然の雨に降られた日だった。真尋が学部棟の玄関前で折りたたみ傘を取り出していると、ずぶ濡れのまま歩く男が目の前を通り過ぎていく。目に入った姿があまりにも“水も滴るいい男”過ぎて、思わず「傘、入ります?」と声をかけたのがきっかけだった。
聞けば金がなくてアパートを追い出され、彼女の家に転がり込んだはいいものの浮気を疑われて追い出されたのだという。「なんだか面倒くさそうな男だな」と思いつつ、あまりの顔の良さに「一晩なら泊めてやってもいいですよ」と口にしていた。
(昔から綺麗な顔に弱いんだ)
そのせいで痛い目に遭ったことも少なくないのに、また同じ轍を踏んでしまった。そう思っていた真尋だが、鏡也との同居は居心地が良く真尋のほうが同居を続けたくなっていた。
(てっきりチャラチャラしてるのかと思ってたけど、どうもそういう感じでもなさそうだし)
アパートに住めなくなったのは実家からの援助を頑なに断っていたからだと後でわかった。どうも両親と将来のことで対立しているらしく、大学進学でも一悶着あったらしい。「だから金銭的援助は受けたくないんだよ」と眉を寄せていたのを思い出す。
そういうこともあり、入学式の前からアルバイトをしてきたのだと言っていた。ところがバイト先で女性関係のトラブルに巻き込まれることが多く長続きしないのだという。そのせいでいつも貧乏なのだと笑っていた。
「女難の相が出るくらいいい男ってわけだ」なんてつぶやきながら、雨が降る庭に向かって手を伸ばす。
(でもって、いまは男運も悪い)
こんな僕に捕まってしまうなんて可哀想に。白い腕を垂れていく雨粒を見ながら、真尋は自嘲気味にそう思った。
真尋には親兄弟がいない。物心ついたときにはこの家に住んでいて、世話をしてくれたのは母方の伯父だという人だった。その人も高校二年のときに亡くなった。手続きや何かは伯父が頼んでいたという弁護士がすべてやってくれたうえに、いまも年に一回生存確認に来てくれる。
その弁護士の手腕でこの古い一軒家と幾ばくかの預金、それにいくつかの株が手元に残った。おかげで高校を無事卒業し、こうして大学にも通えている。
衣食住には困っていないものの、真尋は満たされない心を持て余していた。伯父は言葉数の少ない人で家族らしい会話をした記憶がほとんどない。そういうこともあり、自分を懐にいれてくれる誰かをずっと求めていた。
(それで高校のとき、ちょっと火遊びしちゃったけど)
満たされない気持ちを埋めたくて年上の男と遊び歩いた。といって学校では優等生だったから真尋の裏の顔を知っている人はほとんどいない。つき合う男も厳選し、後腐れがないような相手ばかり選んだ。
真尋が男を相手にするようになったのは女性が面倒だったからだ。付き合い始めると誰もが自分を独占したがる。それが真尋には鬱陶しくて仕方がない。その点男は気が楽だった。体の関係を持ってもしつこくされない。年上なら優しくもしてくれる。
でも、ぽっかりと開いた心の穴を埋めることはできなかった。そんなとき出会ったのが鏡也だった。
(なぜかぴったりマッチしたんだよね)
真尋が鏡也に惹かれるようになったのはすぐだった。綺麗な顔には一目惚れで、おおらかで柔らかい雰囲気も心地よかった。普段はつんけんしている真尋が急に甘えても鬱陶しがらないところもいい。おまけに甘やかすのも料理も上手で、いまや真尋の胃袋と心は完全に鏡也に掴まれてしまっている。
(そういやお母さんも面食いだったって言ってたっけ)
伯父から聞いた数少ない話では母親も相当な面食いだったらしい。まさに血は争えないというやつだ。
真尋のほうはそういう気持ちだが、鏡也のほうは何を考えているのかよくわからない。男の自分を甘やかしてくれる理由もわからなければ、こうして同居を続けている理由もわからなかった。
行くところがないと言ってもあの顔だから、頼めば住まわせてくれる女の子はたくさんいるはず。それなのに出て行くどころか、時間があれば真尋のそばにいてくれるのも謎だ。
「僕なんかの我が儘につき合うなんて、変なやつ」
思わずぼそっとつぶやいてしまった。
庭に視線を向けると、風が吹いたからか霧雨がカーテンのようにサァッと揺れるのがわかった。とても涼しそうに見えた真尋は、縁側に座ったままさらに腕をぐぅんと伸ばした。
夏になってもほとんど日焼けしない白い腕を雨が撫でていく。そのまま空に手を伸ばすと腕を伝う雫がシャツを濡らした。普段なら気持ちいいなんて思わないはずなのに、じわっと濡れている感触が妙に心地いい。そう思って雨で肌を濡らしては何度も空に向かって手を伸ばす。
「なにやってんの?」
突然の声に驚いた。振り返ると、やや呆れた顔の鏡也が鞄を置くところだった。
「お、かえり」
「ただいま。で、なにやってんの?」
「別に、何もしてないけど」
濡れた手をそっと下ろしながらしどろもどろに答える。
(子どもっぽいことしてるって思ってんだろうな)
二十歳を超えたいい大人が何をやっているんだと思うと何となくばつが悪い。下ろした手が触れているチノパンが雫を吸ってじわりと濡れていく。
「大方、雨が気持ちよさそうだなぁなんて考えたんじゃないの?」
「そんなこと思わないし」
二日ぶりに顔を見るからか、いつも以上につっけんどんになってしまった。内心はすぐにでも抱きつきたいくらい寂しかったのに、どうしても素直になれない。真尋は若干口を尖らせながらふいっとそっぽを向いた。
「はいはい、寂しかったんだろ? だから急いで帰ってきたんだって」
「……」
「そうだ、お土産に牛タン買ってきたから、今夜は焼いて食べような」
「……うん」
「ずんだのお菓子もいろいろ買ってきた。この前食べたいって言ってただろ?」
「うん」
「あと、せっかくばあちゃんちまで行ったから浴衣ももらってきた」
「え……?」
ちろっと視線を向けると、鞄の横にもう一つ袋がある。そこから布に包まれたものを取り出した鏡也は「ほら、浴衣」と言ってパサッと広げて見せた。
「……浴衣だ」
「ばあちゃんち、老舗の呉服屋なんだよ。着物は手入れが大変だけど、浴衣なら俺でも何とかできるからさ。真尋のは紅色と藍色のこれで、俺のは藍色一色のこれ」
「帯は持って来たけど下駄は買わないとな」と言いながらハンガーに吊し、鴨居に付けられた金具に並べて引っかける。
伯父が生きていた頃、そこにはいつも伯父愛用のスーツとコートが掛かっていた。中学と高校の入学式前は真尋の学生服も並んだ。そこにいまは二人分の浴衣が並んでいる。
(なんだか変な感じ)
でも、悪くないと思った。まるで二人の家のような感じがして胸がきゅうっと切なくなる。
(こういうの、何だか家族っぽい)
思わずそんな言葉が浮かび、慌てて頭を振った。それを見た鏡也が「なにやってんの?」と、また同じ問いをくり返す。
「なんでもない」
「今夜はちょっと早めに夕飯にしようか」
「お腹空いた」
「また昼飯抜いたんじゃないだろうな?」
「少しは食べたよ」
真尋の返事に鏡也が「はぁ」とため息をつく。そんな反応をされても一人では食欲がわかないのだから仕方がない。
「よし、じゃあさっさと作るか。っと、その前に真尋はシャワー浴びてこいよ」
「え?」
「シャツもズボンも濡れてる」
「……あ、」
「いくら夏だからって濡れたままじゃ風邪引くだろ。あ、お湯溜めるか? たしか夏用の入浴剤があったよな?」
鞄を持った鏡也が「風呂、用意するから待ってろよ」と言いながら居間を出て行った。自室に荷物を置いて、そのまま湯を張りに行くのだろう。
(そういう甲斐甲斐しいところが誤解されるんだよ)
本人は至って普通なのかもしれないが、されたほうは絶対に好きになる。相手が女の子ならなおさらだ。真尋もすっかり鏡也に夢中になっていた。
(って、僕の場合は家族みたいなものだけどさ)
こうやって言い訳じみたことを思うたびに胸がツキンと痛んだ。理由はわかっている。
真尋は鏡也に対して家族以上の感情を抱いている。それでもこの気持ちを認めるわけにはいかない。家族ならいずれ離れ離れになる覚悟はできても、それ以上の関係なら……。
「別れるとき、しんどくなる」
つぶやいた言葉に眉が寄った。家族らしくなかった伯父の葬式のことを思い出し、それでも小さくなかった喪失感が蘇る。伯父に対してもそうだったのだから、思いを寄せている鏡也が出て行ったらどうなるだろう。
(だから、いまのままでいいんだ)
曖昧で穏やかないまのままでいい。真尋は無理やりそう思いながら立ち上がった。そうして庭に視線を向けると、いつの間にか雨が上がっていることに気がついた。
「真尋、風呂の用意できたぞ。……って、雨止んだのか」
振り向くとジーンズの裾をめくり上げたままの鏡也が立っている。
「そういえば傘は?」
「傘?」
「天気予報見ても鏡也、傘持って行かないから」
「あぁ、それは大丈夫。今回はちゃんと持って行ったから」
珍しいこともあるものだと真尋が庭から鏡也に視線を移すと、「机に折りたたみ傘、置いといてくれただろ?」と言って鏡也がニカッと笑った。
「おかげで濡れずに済んだ。俺の荷物だけならいいけど、さすがに浴衣を濡らすわけにはいかなかったから助かった」
「……別に」
「せっかく浴衣もあることだし、今年は花火大会とか夏祭りとか行きたいよなぁ。秋祭りくらいまでは着れるかな。そうだ、たしか桐のタンスがあったよな?」
「向こうの和室にあるけど」
「じゃあ、ちゃんと手入れしてそこに仕舞うようにしよう。そうすりゃ来年も一緒に着られるだろ?」
「え……?」
驚く真尋にもう一度ニカッと笑った鏡也は「風呂、入れよ」と言ってキッチンへと消えた。残された真尋は「来年もって、」とつぶやきながら、白い頬をじわりと薄紅色に変える。
「そういうこと言うから誤解されるんだよ」
そんな憎まれ口をたたく真尋の目には、雨上がりの庭がやけに眩しく見えた。
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