第31話
叔母が姪を誘拐した。
身代金やその他の要求らしい要求はなく、一か所に留まってもいなかったから、それは誘拐というより連れ回しと表現したほうが適切だろうか。
私が十歳になったばかりの頃だ。
夏の午後四時過ぎ、私は小学校の校門を出てすぐのところで多香子さんに会った。ピカピカの新車を道の脇に止め、私に声をかけてきて手招く彼女の姿は綺麗だった。当時は二十四、五歳だったはずだ。「おばさん」ではなく「お姉さん」と呼びたくなる容貌。芸能人顔負けの美人。大きな会社に勤めていて、若くして成果を出しているらしい、自慢の叔母。
私は無警戒だった。実際、連れ回された二日間のなかで私が彼女を怖いと感じたのはほんの一瞬だけだ。
早い段階で、多香子さんは私の母へと電話をして、私の身柄をあずかっているのを明かした。でも最後まで私の両親が警察に相談することはなかった。それは知っている。
私からすれば大半が、美人の叔母との小旅行といった具合で進んでいた。「二、三日だけだから」と話した多香子さんの言葉を信じていたから、両親に会えない時間をそれほど寂しく感じなかった。彼らは十歳の私を留守番にしておくことも少なくなかったので、離れていることには慣れていた。
まず夕焼け色に染まる海へと行った。
今でも記憶の中で鮮明な光景だ。夏の海と言われたら、太陽が燦燦と照りつける白い砂浜に透明な海、そんなイメージだけではなく、そのときに目に焼き付けた黄昏の海辺も思い起こす私だ。
水平線へと沈む太陽、薄暗い海の色。それをしばらく眺めた私と多香子さん。それから私の知らない街へと車は進み、賑やかなハンバーグレストランで夕食を済ませた。多香子さんが何が食べたいか訊いてきて、それでハンバーグと答えたのだと思う。子供っぽさを大人の彼女の前で出すのは恥ずかしかっただろうから「ハンバーグでいい?」と訊かれでもしたのだろうか。
その夜は二人でホテルに泊まった。
十年後の今、朝食を共にしているホテルと比べると高級感はなかったはずだが、子供の私には充分に広くて煌びやかな場所だったと記憶に残っている。ツインルームだった。とっくに母に添い寝してもらう年齢じゃなくなっていた私は、それを当然なものだと受け入れた。あの時の純真無垢に近い私だったらたとえダブルベッドでも、当時の多香子さん相手には嫌だと駄々をこねることはなかったと思う。
それから……。
思い返せば思い返すほどに、土日に親戚と遊びに出かけた思い出と大差ないことがわかる。だが、事前に両親の許可をとっておらず、逐一、報告もしていない。両親からしたら、本当に帰してくれるか定かでない。だから誘拐もどき。
ああ、でもやっぱり―――もう一つ、加えるべき要素がある。多香子さんが私を連れ回した目的。それはたとえば、彼女が一番大切に想い続けている姉(私の母)の気を惹くため。二人が子供だった頃に、妹である多香子さんが同じ目的であれこれとしたのと同じように。あるいは、恨みからくる突発的な行動。つまり私に父に対する、最愛の人を奪った男への報復めいたもの。あるいは、姉と血のつながりを持つ私を攫って、理想の女の子、そして女性へと育て上げようとした、そんな狂気。
これらどれもが部分的には正解で、しかし核心でないのを私は知っている。
私はその誘拐もどきの終盤に、彼女自身から姉(私の母)への並々ならぬ想いを告白され、そして言われたのだ。
「ななみ、私といっしょに死んでくれる?」
初めて彼女を恐れた瞬間だった。
※ ※ ※
「私はまだ小学生だったので、あなたの言っていることはわかるようでわからない、いいえ、わかりたくない内容でした。忘れていないですよね? 二日目の夜に、熱を出した私に枕元であなたが話したことです。まるで懺悔するみたいに」
「忘れるわけないでしょう?」
あの頃と比べて年をとった彼女が溜息まじりで言う。
「もしもあの時……私が『いいよ』と言っていたら、本当に二人で死んでいましたか? 諦めたいって、そう話していましたよね。この恋を捨て去りたいの、永遠にって。だから私の母から一番大切なものを奪い、取り返しのつかない罪を背負って、死ぬ以外の選択肢をなくすつもりなんだって。この気持ちの締めくくり方としては最悪で最上なんだって」
「どうして熱に浮かされていたのに、そこまで覚えているの?」
心底不思議そうに、多香子さんが訊く。私がここは夢の中ですよとでも言ったら、頬をつねりそうな雰囲気だ。
「それほどに衝撃的だったからだと思います。今でこそ私はフィクションの中で、それに現実でも、多種多様、千差万別な愛の形を知っています。けれど当時は違いました。想像してみてくださいよ。すごい美人の叔母が急に、血の繋がっている姉であり私の母である女性への秘めた想いを告白してきて、さらにはいっしょに死のうって言われた十歳の姪の心境」
多香子さんは黙って首を横に小さく振る。そして決心をした表情となった。
「教えて、ななみ。どうして姉さんに言わなかったの? それとも言ったの? この十年間、ずっと怖くて聞けなかったことなのよ。聞けずに、姉さんは逝ってしまった。……姉さんは私があなたにしようとしたことを知っていたの?」
「さっき言ったじゃないですか。母は、誘拐の後であっても多香子さんを嫌うことはなかったって」
「じゃあ……」
「どうしてわからないんですか」
私はオレンジジュースを飲み干す。喉から胃へと流し込んで言う。
「あなたの気持ちを全部、母に伝えられるのはあなただけに決まっているじゃないですか。あなたが母に何もかもを曝け出すのを信じて、何も言わなかったんです。三日目の朝、あなたは私を家に戻しました。私は母に『楽しかった!』って満面の笑みで報告しました。まだ熱が少しあって、ふらついていましたが、それでも精一杯、私はあなたが悪いことを何もしていないと伝えました。その場にいましたよね?」
肯く彼女。
私は、母のその時の顔を思い出す。笑っていなかった。私を心配していたから? それとも、と今になって考える。
母はその妹である多香子さん、すなわち私の目の前で今、瞳に涙を浮かべている女性からの特別な好意にとうの昔に気づいていたのではないか。その重さを誰よりも理解していたのでは? 誘拐もどきが終わりを告げたあの朝、私の「嘘」を母は見破っていたのではないか。そのうえで、姉として妹を受け入れようとしていたのでは――――。
「あの一件以来、お土産を全然贈ってくれなくなりましたよね。そのくせ、私や母の誕生日には何かプレゼントをよこしてくる。多香子さん、私は……」
ついに涙を伝わせた彼女に私は言葉を飲み込む。こうじゃない、私は彼女を責めたいんじゃない。私は深呼吸を一つしてから、一人の少女を想う。会ったことのない少女を。
「奇遇にも、最近になって多香子さん側の心境、それに似たものを考える機会があったんです。愛と死を結ぼうとし、ある意味で成し遂げてしまった女の子。最愛の人を遺して死んだ子について、知ったんです」
「それって……」
「これもまた時間がある時に話します。時間、作ってくれますよね? 絶対の約束はできませんが、私は多香子さんを置いていくつもりはないですからね。あなたも勝手にいなくならないでください。また会って、ちゃんと話しましょうよ」
私は毅然と席を立つ。
月鳴館へと行くためのバスに乗るにはもう時間の余裕がない。まずは最寄り駅まで行かないといけない。
目元を拭い、私を仰ぎ見ながら言葉を探す多香子さん。こんなふうな関係になるなんて、十歳の私に言っても信じてくれないだろうな。ううん、今年の夏の私だって。
「就職の件は決まったら連絡します」
「ななみ」
「はい」
「……ありがとう。何にどう感謝しているか自分でもよくわからないの。でもね、伝えておきたかったから」
彼女のぎこちない微笑みが、思い出と重なる。母と手をつなぎ彼女を見送ったあの朝、私が「またね、多香子叔母さん」と言った時も、彼女はそうやってなんとか微笑んでいた。
私はその場を後にする。祀梨に会いに行くんだ。
部屋に入った瞬間に、ソファから勢いよく起き上がった彼女が、どたどたどたと私へと駆けてきて「ななみさん!」と笑顔で抱き着いてきたものだから、合格したのだと確信した。
果たして彼女が通知と証明書類を私に嬉々と見せてくれる。
「ご両親には連絡したの?」
「クリスマス前には、新しい部屋で過ごせそう!」
「えっと、したってこと?」
「拗ねないでね? 私だってななみさんに一番にしたかったんだけどさ、職員の人がしてくださいって言うから、しかたなく。まぁ、こうやって直に報告したのはななみさんが最初みたいなものだから拗ねないで」
「そんなに言われなくても、拗ねないわよ」
「ねぇ、美容院の予約入れてくれる? ななみさんがいつも行っているところがいいな。ね? いいでしょ?」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ。ちゃんと、おめでとうって言わせて」
「一理あるね。キスでもしてくれる?」
しないわよ、と言ってしまえばそれでよかったのに、私は固まってしまった。それによって、私にくっついて祀梨が「ん?」と訝しがって離れた。
「うわ、めっちゃ照れてる」
「照れてないから。ほら、とりあえず座りましょうよ」
彼女を私がソファに誘って、座らせるのは初めてな気がした。そのソファはほとんど常に彼女のテリトリーとも呼べる場所で、これまで彼女が招き、私が応じて、を繰り返してきた。
「そういえば、この子はどうしようかな」
祀梨がソファの手すりを愛しそうに撫でて言う。
「よく考えたら、このソファの謂れを聞かずじまいだったわね。家からわざわざ持ってきたとまでは聞いたきりだわ」
「謂れってほどでもないよ。ななみさんなら、わかるんじゃない? 名探偵じゃなくなって、わたしがこのソファを大切な思い出としてここに持ってきた事実を手掛かりにしたらさ」
「……かつては、隣に遠野さんが座っていたのね」
「イグザクトリー」
カタカナ発音で言って、笑う祀梨。ほんの少しだけチクリと痛む私の心。
「そして今はななみさんがいる」
「でも、きっとあなたたち二人は人には言えないようなことをこのソファでしてきたんじゃないの?」
「聞きたい?」
「いいえ、まったく。今のは失言だったわ」
「実を言うと、そんなに二人で座ることはなかったんだよね。二人でお金を出しあって、お母さんたちに内緒で買ったの。で、内緒で運び入れてわたしの部屋で存在感を放つ家具となったわけ。それが高一の、秋の終わりのことだったから」
手すりを撫でるのを止めた祀梨が静かな声でそう話すのを私は眺めていた。伸びきった髪、そこからのぞく横顔が今日は一段と私を魅惑する。
「どうする気なの? 実家に移すか、引っ越し先に移すか」
「処分するか、寄付するか、売り払うか。いろんな選択肢があるね。ねぇ、ななみさん。考えてみて、未来のこと。わたしがさ、あなたの隣の部屋に引っ越して、そして遊びにおいでよって招待する。そしてななみさんをこのソファに座らせる。わたしも隣に座る。それで……これまでみたいに、楽しくお話する」
「勉強をするには向かない場所ね」
「まぁ、そうだね。じゃあ、勉強用のテーブルを買わないと。って、そうじゃなくてさ、それでななみさんはいい?」
「どういう意味よ」
「思い出から次の思い出へ、このソファをそんなふうに、方舟にわたしがするのをななみさんは受け入れてくれる?」
「もちろん。それを祀梨が望むなら。そうすべきだとも思うわ」
「そっか」
くすりと笑う彼女。
私は彼女が今欲しかったのは、単なる肯定でないのかもしれないと気づく。でも、それはあまりに自分にとって都合のいい解釈だった。
野々井さんの言葉を思い出す。自然に。それが浮かんできた。まさか自分がそれを口にすることになろうとは予想だにしていなかったが、しかしつい呟いていた。すぐ傍にいる彼女に。その頬にキスするみたいに呟いていたのだ。
「でも……少し妬けるわ」
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