第30話

 噂をすれば影が差すとは言うが、野々井さんと電話したその一時間後に、多香子さんから連絡があったのにはびっくりした。

 できれば会って話したいことがあるそうだ。

 多香子さんにしては非常に珍しく、酔っていた。そう自己申告してきた。今夜すぐに会うつもりはないとも言った。酔っている自分を見せたくないそうで「もっと言うとね、何か間違いを起こしてしまうかもしれないから」と口にした。しっかりとした呂律で。

 私は彼女が言う「間違い」について追究せず、いつまで近くにいるのかを訊ねた。明日や明後日にランチでも、という話であれば断りたかった。なぜなら私の理想としては、祀梨の合格発表を月鳴館でいっしょに知り、それを祝福したうえで、自分の気持ちを伝えたかったからだ。そのことで頭がいっぱいだったのだ。 

 

 話を聞くに、多香子さんは明日の夕方にはこの町を発つ予定だった。私が午前九時以降は先約があると言うと、多香子さんは彼女が泊っているホテルへと早朝に来るよう頼んできた。「いっしょに朝食ってのも悪くないでしょう?」と。ちなみにそのホテルの経営会社と多香子さんの勤め先とは深い関係にあるらしい。


「そこまでラグジュアリーホテルって雰囲気ではないの。ここら一帯だと比較的立派ってだけ。特別におめかししてこなくていいからね。外は寒いだろうから、暖かい恰好をしてこないとだわ。ああ、そうだ。ほら、あれはどう? 着てきてほしいな、白いウールコート。贈ったのに、着てくれた写真、まだ一枚も貰っていない」

「それってお母さんの……」


 私はそこまで言ってから、空いている手で口を抑えた。半信半疑だった、多香子さんが酔っているかどうか。でも、酔っているのだ。そうでなければ、どうしてここで電話相手を勘違いする?

 

 件の白色のウールコートは、多香子さんから私の母へと贈られたものだ。記憶が確かなら四十か四十一の誕生日に。母がそれを着て出かけた姿を私は見ていない。

白すぎるわね――そう苦笑していた母の顔が思い出された。

 コートの現物は今なお実家にあるはずだ。父がクローゼットの奥を覗き、その白さがどれほど移ろっているかを確かめはしないだろう。


 私が急に黙ったことで多香子さんも失態に気づき、話を変える。何事もなかったかのように。


「明日、七時か八時にまた電話するわ。……それじゃ、遅いか。えっと、そうね……七時半ぴったりに来れそう?」

「場所を教えてくれたら」

「教えてなかったのね、私」


 自嘲気味に。

 多香子さんはホテルの名称とおおよその場所を説明した。大きな駅近くにある大きなホテル。その程度の認識なら私にもある、いかにも高級そうなホテルだった。


「朝食って予約は……あっ」


 電話が切られた。

 

 明日の朝、家を出る前にこちらから電話しよう。酔っている時の記憶が飛ぶタイプの人だったのなら、困るのは私だから。

 到着時刻、乗るべき電車の時間から逆算すると七時前には出発しないといけず、そしてそのためには起きるのが六時ぐらいになりそうだ。……冬の朝にはつらいな。




 地上九階、大きな窓ガラスから街並みを一望できる席で私と多香子さんは向かい合わせで座った。パーティー会場のような大部屋。円卓にテーブルクロス。当然、私たち二人以外にもたくさんの人がその空間にいる。けれど彼らの意識に私たちはなく、そして私たちにとっても彼らは背景でしかなかった。

 

 私は勝手に、豪勢なビュッフェスタイルを想像していたがそうではなく、パンとオムレツ、それにベーコンとサラダ、そして飲み物のついたセットメニューだった。多香子さん曰く、アメリカンブレックファーストとのこと。ようするにアメリカ式の朝食? 言われてみればそれっぽい。

 映画の中で印象に残っている食事はあまりに豪華な饗宴かその逆にひどく質素なものだ。今、食べようとしているのはどちらでもない。小奇麗にまとまった、私の日常にとっては贅沢感のある朝食が目の前にある。


「少しがっかりした? ななみって、朝からカレーでもカツ丼でも食べる子だったっけ。だとしたら、悪かったわ」

「むしろ大学生になってから食べない日もあります」

「それはいけないわ。悠斗さんから仕送りは充分にもらっているわよね。それにアルバイトのお金は? もうやめたの?」

「お金の問題じゃなくて気力の問題ですから。えっと、バイトは……場所を変えて続けることになりそうです、もうすぐしたら」

「そう。生活習慣には気をつけなさい。見たところ、元気そうだし、肌も荒れていないから安心したわ。メイクやファッションの相談ならいつでも乗るわよ。ちなみにそういった方面で頼れる人とは出逢えた?」


 私は自分のグラスに注がれているオレンジジュースを一口飲む。まるで搾りたてのような自然の濃さ、新鮮な味わい。冬の朝とは思えない。目の前にいる多香子さんの服装も、全館で空調が利いているからだろう、涼しい初秋のオフィス街を歩いているOLのようなものだった。

 上着を脱いでもなお、厚着している私にしてみると、この部屋はこんなにも広いのに暖まり過ぎている。だからこそオレンジジュースが美味しい。


「会って話したかったことは別にあるんじゃないですか」


 先の問いかけを無視してそう訊いた私に「せっかちね」と多香子さんは肩を竦め、そして湯気の立つコーヒーをブラックのままで啜った。


「話しづらいことですか? 昨夜の酩酊に関係するような」

「酩酊だなんて、そんな。軽く酔っただけよ。酔いたいときに酔えるのが、私の才能の一つ……なんてね。昨夜は悪かったわね、変なことも言っちゃって」


 ふと多香子さんが彼女自身の左手首を少し捻って見た。一瞬、虫刺されでもあるのかなと考えたが、腕時計で時間を確認したかったのだと思い至った。確認するつもりだったと。そこに時計はない。つけずにこの場にいる。それを彼女は忘れていた。

 こんなのは誰にでもありふれた小さな失敗なのに、多香子さんがそれをするのが私には大きなサインのように思えた。そうだ、その笑顔はいつもより理想的ではない。何か、心をかき乱す出来事があったのでは?


 夏頃の、祀梨と日々を重ねる前の私であれば、自分から訊くことはなかった。でも今の私は多香子さんに自分の思っていることをそのまま伝えた。手短に。つまり、様子がおかしいですが、何があったんですか、遠慮なく話してください、と。


「そうね、ななみがそう言ってくれるなら話すことにするわ。大切なことと、そうでもない二つがあるの。どちらからがいい?」

「じゃあ、『そうでもない』ことを先に。大切なほうを聞いてからだと、聞く気にならないから」

「なるほど。……私、フラれたのよ」


 朝食前だけあって化粧っ気のない多香子さんを私はまじまじと見つめた。三十代半ばにしては若々しく、美しさを保つ努力の成果であるその顔を。

 いくら見つめていても彼女は「冗談よ」と笑って撤回してくれはしなかった。むしろ笑みが失せる。


「信じてくれないかもしれないけれど、こんな私にも何年かに一度ぐらいは恋をする時期があるの」

「実の姉以外に」

「そういうこと。そしてななみが知っているように、私は各地を渡り歩いては女の人と寝ている。この事実を知ってなお、付き合ってくれる人と恋をするのよ。そう心掛けている。で、これまで全員フッてきた。私から」

「でも、昨夜はフラれた?」


 多香子さんが苦そうなコーヒーをまた啜る。


「厳密には一昨日のお昼。しばらく実感がなかったのよ。それで昨日の夕方、気づいた。あの子は、私にはもったいない子だったって。こんな年増のレズに引っかかっているんじゃ不幸になるだけねって。いいえ、これも誤魔化しよね。あの子は言ったのよ。『私を真剣に見てくれないのは我慢できました。でも、あなたがいつだって一人を、届きそうにない遠くにいる誰か一人を想い続けているのがわかったんです。わかっちゃったんです。それは、我慢できませんでした』って」


 絵に描いたような見事なオムレツの表面を多香子さんがフォークでつつく。そのまま刺して形を崩しもせず、ただつつく。


「言っていないのよ。姉さんのことを私は、これまで抱いてきた誰にも言っていないの。本当よ。たしかに、これまでにも似たような話をされた覚えはあるわ。本命が別にいるんでしょう、って。その時々で私の答えは違ったわ。私をフッたあの子はね、ずっと聞かずにいてくれた。いてくれたのよ」


 フォークを皿に置き、また一口、コーヒーを啜って、苦い顔をする彼女。


「それで、柄にもなく傷ついて、お酒の力を借りた。どこにでもある話よね。一つ目はこれでおしまい」


 彼女が両手を合わせて、ぱんっと軽い音がする。そして微笑みが戻ってきた。


「質問してもいいですか。あ、その人についてじゃないです」

「なに?」

「今の話、私以外にもする機会……というか、する相手を多香子さんはどれだけ持っているのかなって。またすぐに、誰かと一夜限りの――――」

「やめなさい。当分、誰とも寝ない。べつにななみを前に誓いを立てるつもりもないけれどね。ななみ……少し変わったわね。この夏と秋で」


 質問に半分しか答えてもらっていないが、これ以上の詮索はよしておいた。私が「そうですか?」と訊ねると「ええ、きっと」と彼女が言う。


「夏に出会った、例の二人の影響かしら」

「……そうです」

「詳しく聞いてもいい?」

「またいつか時間がある時に。今は二つ目の話をお願いしていいですか」


 私が年下の女の子に告白しようとしているだなんて、この人に話したくなかった。この叔母の影響を受けて、自分が同性を好きになったのだと、そんなふうに一ミリでも考えたくなかった。


「二つ目は、大切だけれどシンプルよ」

「つまり?」

「私といっしょに働かない?」

「えっ」

「あなたが大学四年生になったとき、まだ就職先が決まっていなくて、将来のビジョンが定まっていなかったらでいいから」

「冗談ですよね?」

「本気よ。あなたの能力を過大評価しているわけではないわ。いきなり無茶な仕事を振りはしない。まずは私の秘書のような立場でいてほしいのよ」

「ひ、秘書? 多香子さん、もしかして近々昇進して、かなり上の人になるんですか?」

「中らずと雖も遠からず。うちの会社、二年後の春に新事業を本格的に始動する気で……」


 そこから数分間、多香子さんは経緯を噛み砕いて説明してくれた。それはより短くまとめてしまうと、新事業の部署には可能性があるフレッシュな人材を多数必要としているということらしかった。そしてその人事に多香子さんは大きな裁量権を与えられている立場となるそうだ。

 

 別の面からまとめるなら、コネ入社のお誘いだった。


「繰り返すわ。ななみがやりたいことを見つけているなら、それを応援する」


 そんなふうに言っただろうか。


「でも、検討してみてほしいの。もし早くに覚悟を決めてくれたなら、そうね、なんだったら今日からでも私が、あなたに在学中に勉強してほしいこととその方法に関して指示するわ。どう?」

「すぐにはお答えできかねます」

「そうよね、慎重になるべきだわ。あなたの未来がかかっているのだから」


 さっきまでの暗さが嘘のように、生き生きと多香子さんが言う。仕事が、彼女を魅力的な人間にする。

 結局のところ、彼女はありふれた恋愛には向いていない女性なのかもしれない。それは私の母、すなわち彼女の実の姉に消せない想いを抱いてしまったその時から。

 愛が人を縛るのを私はあの手紙で思い知っているのだった。


「多香子さんは……私を手元に置いておきたいんですか?」

「その言葉選びだと、どうにも下心があるニュアンスが出ているわ」

「そうではないと?」

「はっきり訊くわね。私も端的に答えるわ。ノーよ。夏にも言ったとおり、あなたを姉さんの代わりにする気はない。あえて強い言い方をしましょう。あなたには姉さんの心も身体を好き放題にした男の血が半分流れている。そんな子を愛せない」


 かつてないほど容赦ない言い方だった。微笑みの裏側、私はそれを覗き込まずに「本心が聞けてよかったです」とだけ返した。


「ななみ、あなたも本心を聞かせて。姉さんは私のことを嫌っていたと思う?」


 また戻った。フラれた話をしているときの多香子さんに。そして今の質問は彼女にとって重要なものであった。私の答えによっては、彼女は深く傷つく。もしその傷を癒せる誰か、その傷に寄り添える誰かがこの人にいないのなら、私はできることなら優しい嘘の一つでもつきたくなった。

 でも、そうしたら彼女は許さないだろう。未来永劫、許さない。


 私は答える。知っている限りの真実を。


「嫌ってはいませんでした。あなたが十歳の私を誘拐した後でさえ」

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