第10話

 古い本が香る。いい匂いではなかった。

 

 月鳴館の中央棟一階にある図書室は、私がこれまでに出会ってきたどの図書室よりも小さい。

 四角い部屋だ。真四角、すなわち正方形。

 床は灰色のビニルタイル。出入り口がある側を除く三方の壁に背の高い書架が並ぶ。中央には木製の机。こちらは長方形だ。二つの椅子が向かい合わせて並んだ、計四席。それで全部。カーテンのついていない小さな窓と頼りない照明。空調設備もなかった。

 それぞれの書架には地震対策と思しき突っ張り棒や、ベルト式のストッパー、さらには転落防止の目的として本を出し入れする部分にワイヤーが取り付けられている。

 総合的に、長時間の読書に耽るのに適した部屋ではない。

 

 まるで商店街の片隅にある個人経営の本屋、そこの主人が合言葉を知る客にだけ入室を許可する秘密の書庫めいた空間だった。そこでは客が本を選ぶのではなく本が客を選ぶ。そうして読者を異界へと誘うのだ。帰ってくることのできる保証はもちろんない。そんな空想を鹿目さんと共有することもなく。

 

 司書に相当する人物はいなかった。

 後になって野々井さんから聞いた話によると、年に四度、季節ごとに管理記録が更新されるのみらしい。月鳴館にやってきた一年目に彼女は夏と秋の記録簿を担当したそうだ。数冊なくなっていたが、特に何もせずに記録しただけだと言う。それでいいと指示を受けたらしい。

 その対応から判断すれば、図書室とは呼ぶのは抵抗がある。

 鹿目さんが「本の林ってのが落としどころ?」が笑う。なるほど、森ではない。かと言って並木道と言うには、収められている本は整然としていない。ジャンルやカテゴリーといった観点からするとだ。「雑木林がいいかもね」と私が提案すると「それ、採用」と応じた鹿目さんだった。


「春のうちにさ、けっこうな数を読んだの」


 書架の前に立つ私、その隣で鹿目さんが言う。

  

 八月下旬、正午過ぎ。彼女の勉強を世話し始めて四週目になって、彼女が自室以外のどこでどう過ごしているかを訊ねたら、私をここに連れてきてくれたのだった。

 とはいえ、彼女がここで長い時間を過ごした試しはなく、本を借りては返すを何度も繰り返したのだそうだった。


「百冊ぐらい?」

「ううん、その半分ほど。二カ月でそれなら多いでしょ」

「そうね。私はそんなペースで読んだ経験はないわ」


 年間で百冊以上読んだのは中学一・二年生のときだけで、後は全然だ。今となっては、当時は他に選択肢が少なかったから本を読んでいただけであって、もとより文学少女からは遠い気質なのだろう。

 

 母も、ついでに言えば多香子さんも読む本は情報取得に価値のあるものばかりで、小説や自己啓発、その他のどちらかというと知識欲を満たしにくい書物は読んでいなかった。それとも彼女たちは私の知らないところで、たとえば流行りのファンタジー小説や推理小説を読んでいたのだろうか。

 翻って、父は昔から本を読むイメージがなく、映画が好きだ。その映画好きの影響を私も受けている。でも、お互いの映画論をぶつけたことなどない。


「じゃあ、映画は?」


 傍らの少女が、あたかも私の心を読んだかのようなタイミングで、そう訊いてきた。ああ、そっか、前に趣味の話をしていたっけ。


「大学一年生の時は、一日一本を目安に視聴していたわ。今と同じで配信サイトのサブスクを使って。有名な作品からマイナーなものまで、ラインナップ自体は充実していたから」

「へー、単純計算すると三百六十五本だよね」

「実際には三百本余りだけれど」

「ねぇ、教えて。その三百本の中で今も印象に残っている本数って、ハチ先生がこれまでにしてきた恋より多い?」

「そうね、比べ物にならない」


 多香子さん曰く、零と一の隔たりは限りないのだから。


「けれど、何かの角に足の小指をぶつけた回数のほうが多いわ」


 なんとなく居たたまれなくなってそう呟いていた。


「それはなんていう映画の台詞?」

「さぁ、知らない。もしもそんな台詞があっても忘れるわよ。ところで、どんな本を読んだの?」

「九割、小説。残り一割は伝記と随筆。一番新しい本でも八年前のハードカバーなの。映画化された恋愛小説。たぶん、わたしたちじゃなくて職員の誰かが読み終わった私物を気まぐれで置いていったんじゃないかな」


 タイトルを伺うと、彼女はすぐに答え、そして訂正した。助詞が違ったが、大して変わらないと私は思った。そのタイトルには聞き覚えがある。映画こそ観ていないが、おおよそのあらすじは知っていた。そんな気がした。

 ある十代の少女が失恋直後、余命幾ばくかの好青年に出会って、そうとは知らずに恋に落ちる物語。結末にあるのは奇跡ではなく避けられない死だ。そうでなければ胸を打つには物足りないのだから。


「暑いから、戻りましょう」


 それにお腹も空いている。私たちは二人とも、昼食をとる前だった。

 私が方向転換して出入口へと一歩踏み出すと同時に、鹿目さんが腕を軽くつかんできた。ひんやりとも生温くとも感じない、私と同等の温度が彼女から伝わる。「どうしたの?」と私が言うと、ぱっと手を離してにやりとした。


「その前にどれか一冊、選んでほしいな。あ、二冊でも三冊でもいいよ。あのね、わたしが読まなさそうなのをお願い。それでほら、どれかを使って読書感想文でも書くことにするから。ね?」


 小窓から注ぐ日差しが彼女の長い黒髪を神秘的に照らす。立ち位置の加減で、ちょうど後光が射しているふうにも見えた。


「長い目で見れば、何か文章を参考に感想や意見をやはり文章としてまとめるのは、役立つわ。でも今のあなたに必要なのはもっと……」

「いいから、いいから」

「はぁ。それじゃあ、これ」


 再び書架へと視線を向けた私は、真っ先に目についた本を手に取って彼女に渡す。受け取った彼女は、パラパラとめくると苦虫を噛み潰したような面持ちとなった。


「言葉が古すぎて読みづらいよ」


 たしかに明治時代に書かれた小説というだけではなく、海外文学を原作として、疑古文に翻訳されたものとなると私だって読みたくない。中学生が教科書で『坊っちゃん』の一部を読むのとはわけが違う。


「注文通り、読まなさそうな本でしょ」

「読まないと読めないのはちがう。先生、空気読んでよ」


 うまいことを言ったつもりなのか、また表情が和らいだ。

 私はしかたなしに、彼女がずいっと突き返した本を受け取り、元に戻す。そして背表紙からすると比較的新しそうな一冊を取り出した。


「えー? これ、おどろしいよ」

「おどろおどろしい、でしょ?」


 あれ、一個でもいいんだっけ。

 新たに選んだ本、それはタイトルや表紙の絵からしてホラー小説だった。むしろ怪談と言うべきか。鹿目さんの顔色はまたしても暗くなる。その移り変わりがなんだか面白かった。私に加虐趣味なんてないのにな。


 しばし口をへの字にしていた鹿目さんは「いいよ、わかった」と本を大事そうに胸に抱えた。


「また眠れなくなったら責任とってね」

? 以前も怖くなって夜に眠れなくなったの?」

「あー……ちがう、ちがう。ここに来た頃は寝付けなかったから」

「寝具のせいだけじゃないわよね」

「うん」


 沈黙が暑さに溶けず、二人の間にゆらゆら漂う。

 やがて、くぅーと鹿目さんがお腹を鳴らす。欠伸とは違って、つられて鳴りはしない。そう思っていたのに、なぜかタイミングよく私のお腹もきゅるると鳴ったものだから「共鳴しているじゃん」って鹿目さんが笑った。




 鹿目さんとは別の場所で昼食をすませて、彼女の部屋へ戻ってくると彼女が勉強机に向かわずにソファに腰掛けていた。でもそこに丸まってもいなければ、真ん中に座ってもおらず「あ、きたきた」と言ってソファを手でぽんぽんとする。


「ほら、こっち。隣に座ってよ、ハチ先生」

「遅くても一時半には勉強再開よ」

「それは先生しだいかなー」


 私が拳二つ分空けて腰掛けると、彼女が一つ分詰め、こてんと頭を私の肩に預けてきた。すぐに拳一つ分の隙間もなくなる。


「先生は冷たい人? それとも優しい人?」

「突然なに」

「わたしからすると突然でもないんだよね、これが。先生ってば、ちーっとも聞いてこない。わたしについてさ。いくらでも聞くことあるじゃん」

「質問してほしかったの?」

「わかんない。最初は作戦なのかなって思っていた」

「作戦?」


 ぐぐっと彼女が頭を押し付けてくる。


「わたしからあれこれ話し出すのを待つ、そんな作戦だよ。だってさ、私の学力向上のためだけに外部の人を雇うだなんて変だよ。あわよくば、というよりもわたしのメンタルケアってのを最優先しての人選のはず……そんなふうに考えていた」


 彼女の長い髪が顔を覆い、それがどんな表情をなしているのか窺うことができない。声を頼りにすれば、どうも笑っていない。この話を切り出すタイミングを待っていた、そうだ、彼女のほうが待っていた気配があった。


「今はそう考えていない?」

「わかんなくなった。ハチ先生がどこまでもわたしに無関心な振る舞いしてくるから。さっきもそう。図書室で先生は聞いてくれなかった。何があったの、どうして寝付けないの。寝具のせいだけじゃないなら、どんな悩みがあったの。どの一言もなくてだんまり。薄情者だよ」


 責められているという感覚はなかった。

 内容のみを抽出するなら私は批判されている真っ只中だけれど、鹿目さんが紡いでいく言葉にはそこまでの重みはなく、かと言って風船のように軽くもなく、つまりはしっかりと地に足のついた言葉を私はありのままに耳にしていた。

 異議を唱えたくなる。消極的であったとはいえ、彼女とは勉強以外にも会話や対話と呼ぶに相応しいことは何度もしているはずだ。

 それはこの子にとって不十分だった?


「そんな顔しないで、先生。どこまでもってのは嘘。この三週間余り、先生は勉強以外でも少しはかまってくれたね。けど、ぜんぶが『あくまで勉強の息抜き』って感じ」

「自分の役割を全うするつもりで接しているからよ」

「うん。それが楽だからでしょ?」


 透明な声がその温度を低くする。

 頭を私に預けたまま、彼女の手が伸びてくる。それは私の顎先、そして頬に軽く触れ、それからだらんと下がった。


「ハチ先生はさ……。山の中にある、宗教団体がバックにいる施設で寝泊まりしている出来損ない女子を、まるで街中に暮らす、普通の女子高生のように扱っている。そうするのが楽だから。勉強の面倒を見ることに集中するのがさ」

「不満なの?」

「まあね。最初はこの距離感が最適解とも思ったよ。でも、そのままでいるにはハチ先生は美人すぎる」

「よくわからないわ」


 声色に危ういものを感じ取った私は、彼女の頭を手で押し返そうとした。なのに、彼女は待っていたと言わんばかりに、私の手をとり、指を絡めまでしてくる。


「わたしは、女の人が好きなの」


 水滴を一粒、二粒垂らすかのように、彼女が私の耳元で囁く。


「――――それってあなたの中退理由に関係ある?」

「ぷっ。いきなり、突っ込んでくるんだね。無神経な人」


 彼女が指をほどく。ソファを立ち、私を見下ろす。


「勉強を教えるだけのつもりなら、明日から来ないで。もしそんなふうな気持ちで来たら、めちゃくちゃに犯してやるんだから。……さ、勉強しよっか」


 それは嫌だなと思った。

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