第9話
オーガニックではない食器を静かに操り、私と多香子さんはオーガニックが売りの料理を口に運んでは話すを繰り返す。
皿の上からしだいに形が失われていく。ソースは飲み干すわけにはいかず、溜まったまま。さながらロールシャッハテストで使われるインクの染みにも見えてくる。
「ななみ、あの番号に電話しなかったのね」
微かに汚れた口元をナプキンで拭った多香子さんがそう言う。私は首をかしげて「かけましたよ」と応じた。
「そうなの? てっきり……。あの子、未練がましかったから」
「それって、野々井さんのことですか」
私からしても年上には思えない野々井さんを、彼女より十歳ほど年長者の多香子さんが「子」と呼ぶのは違和感がなかった。
しかし今度は多香子さんが首をかしげる番だった。
「名前はすぐ忘れることにしているの」
つまり、一夜を過ごした相手の、ということだろう。
「勘違いしないでね? そのほうがお互いにいいのよ、ほとんどの場合。ななみがあの子に電話をかけて、会ったのなら、あの子は私の連絡先を知りたがると思っていた」
「たしかに知りたがっていました」
私は野々井さん、そして月鳴館でのアルバイトのことを簡単に話した。それが終わると多香子さんは「私が知っていたのは――」と記憶を掘り返して整理する。
あの日、私の住むアパートに来た際に多香子さんが知っていたのは、野々井さんにはとある少女から聞き出したい真相があるという境遇。そして不器用な彼女の代わりにそれができる人物を探しているというものだった。
「真相?」
「あら、まだ聞いていないのね。私にも詳しく話してくれなかったわ」
野々井さんが鹿目さんから聞き出してほしいことがあるのは既知だったが、それが「真相」と呼ばれる類なのは初めて知った。事件の匂いがする、なんてのは刑事ドラマやミステリ映画の見過ぎかな。
「それで、私の連絡先は教えていないままなのね?」
話が戻る。多香子さんは食器を手から離して私を見据え、微笑みかけてきた。贅肉のついていない首にかけているネックレスは、食器にはない輝きを放っている。プラチナかな。安物には見えないし、多香子さんがプライベートで身につけるものが低級な装飾品とは思えない。
「教えて自分でかたをつけてもらおうとしました。けれど、私がその……母の話をしたら、遠慮してくれたといいますか」
「誤魔化さなくていいわ。あなたは隠し事をするのが向いていない。あの子に、私がどんなふうに姉さんを想っているかを話したんでしょう?」
目元にわずかに皺が寄ってなされた問いかけ。肯くほかなかった。
「ごめんなさい」
「いいのよ、謝らなくて。面白半分に……私がどうなってもいいと思って話したのではないのよね」
「えっと、よく考えていませんでした」
「ふふっ。素直でよろしい。幸いにも、あの子は私を脅かす存在になるタイプの人間でないわよ、きっとね」
抱いた相手のことなら、ただ一度であっても理解できるものなんだろうか。それとも経験豊富で仕事もできる多香子さんだからこそ、自信を持って言い切れるのか。わからないし、わかりたくない領域だった。
この人の脅威になり得る人はどんな化け物なんだろう。
私の動揺をよそに多香子さんは「むしろ……」と口角を一段とあげる。
「歯車の噛み合わせしだいでは、あの子がななみを好きになる未来もあり得るわ。恋愛感情としてね」
「私を?」
いったいどんなふうに歯車が軋み、壊れたらそうなるんだ。
「そんなに驚くこと?」
「それはまぁ」
「よく考えてみて。そうしたら、そんなに意外な展開ではないわ」
ちょうど私が鹿目さんに数学の問題で誤りに気づかせる時のような話しぶりで、多香子さんは私に言う。
「……多香子さんの代わりを、私に求めるってことですか」
「そうね、それがわかりやすい」
否定してくれればよかったのに、あっさりと納得された。
「あの子、自分で話していたわ。誰かと身体を重ねるのは私が初めてだって。珍しいわよ、あのなりであの年齢までって。それまで女の子を好きになったこともなかったとも話していたわね。そのはず。別の子と記憶違いしていなければ」
では多香子さんがいつ処女でなくなったのか、そんな疑問が生じ、でもすぐにどこか遠くへ追いやった。それから自分のこと。目の前にいるこの人にとっては、私もまた「珍しい」のだろうか。
「つまりね、零と一の隔たりは無限なのよ」
「はい?」
「もしかすると、あの子は私との初めてのセックス、言うまでもなく、決して生殖に至ることのない純粋な快楽目的の行為を通じて、未知の彼女を発見できたかもしれないわ。彼女が変われば見える世界も変わる」
「それから?」
「そうなると、ななみを恋愛対象としてみなすことは、風車を巨人と思い込むより何倍も簡単。そうでしょう?」
私は、笑い飛ばすつもりが顔をひきつらせただけだった。突拍子もない帰結なのに、多香子さんが言うと説得力を持つのが面妖だ。
そしてどこまでも淡々と話すものだから、テーブルマナーに則った話題なのだと錯覚すらしていた。アパートの前で別れた今日に至るまでのおよそ三週間、この人であればまた別の女性と関係を持ったに違いない。その人の名前だってもう忘れているんだと考えると、やるせなくなった。遠い異国の見知らぬ町の自然災害のニュースを見聞きしたように。
「ななみはどうかしらね」
「え?」
「その子やその少女のどちらかに何か特別を感じているかって」
「まさか。私は……」
「あのね、あまりこういう予感や予言といった物言いはしたくないけれど、聞いてくれる?」
私の答えを遮った彼女が、やや身を乗り出して言う。
「両耳を塞ぐジェスチャーでもしたら、話すのをやめます?」
「ええ、やめるわ」
「……なんです?」
聞かなかったことにもやもやするのは御免なので、聞くことにする。私は彼女とは反対に背筋を伸ばして、話に備えた。
「二十歳を迎えた夏、新しく出会った人たち」
映画の冒頭に表示されるテロップを読むみたいな調子で彼女が言う。キャッチコピーにしては弱いな。
「余程、ななみ自身が殻にこもらない限り、その人たちによってあなたに変化がある。現に、生活は変わっているのでしょう? 新たな習慣は新たな結果を生むものよ。そして新たな世界を見出す。否応なく、世界に放り込まれてしまう」
世界、という語はあまりに大きく強い。それがそのまま多香子さんの話の力を強めている。一つ間違えれば滑稽でしかないだろうに、どこまでも真摯に、そして笑顔で彼女が語るとあたかも預言や神託めいてくる。
「それで?」
「大人の助言が欲しくなったら、電話して」
「多香子さんに」
「そう、私に。深夜でもかまわないわ」
私は反射的に「嫌です」と返事しそうになって、堪えた。それから自分の心境をなるべく精緻に捉え直し、頭で言葉を紡いでいく。それらが空気を震わすまで、多香子さんは私から視線を外さずに、敵意や悪意がないのを表情で示していた。
「多香子さんは頼れる大人だと思います」
「……続けて」
「でも、私が頼りにしたくない人です」
「理由を聞いても?」
「多香子さんが、亡くなった母の代わりとして私の心や身体を求めることは未来永劫ないと信じています。ですが、安心できる人じゃないんです」
「ななみにとって、叔母である私は安心できる人ではない」
ピアノの鍵盤をゆっくりと、叩くと言うより押し込むような口調。
「あのね、ななみ。これだけは明確にしておくわね」
次はひっそりと鍵盤の蓋を閉めるように。多香子さんの声が私の周りから空気を奪っていく。
「私はあなたを恨んでいない。これはね、あなたが姉さんの死に関して今も抱き続けている罪悪感とは別。もしも私が一瞬でも、姉さんの死があなたによってもたらされたんだと考えていたら、とっくに殺している。ここまでいい?」
私は肯きながら、そんなふうに躊躇いなく母の死と私の罪悪に触れてくるからこそ安心できないのだと思った。
「ななみ、今あなたの周りにはどれだけの人がいるの? あなたを理解し、支えて励まし、信頼関係を築いている人間が。一人、二人、もっといるかしら」
多香子さんはそこで一旦区切る。肩をすぼめ、そして首を横に振った。私はただその動きを見つめていた。
「私の見立てではゼロ。そうよね? それを恥じなくてもいいの。でもね、誇ることではないわ。一人目ができるまででいい。私を忘れないで。つらくなったときは頼りなさい。これは可愛い姪への叔母としての言葉よ。いいわね?」
私は首を縦に振っていた。たぶんそう。上等な野菜や飲み物で潤っていたはずの喉は渇いて、唇も固く結ばれ、ただほんの少しの動作で同意を示す。そうしたのだと思う。多香子さんは満足げに、でもその瞳の奥には真逆の色も宿して、話を切り上げた。その後、私たちはほとんど言葉を交わすことなく食事を進めていった。それが終わりを迎える頃に、私は「でも」と口にした。そうしてから、その後にどう続けるかを考えた。当然、多香子さんは待った。待ってくれていた。
「仮に……私が知的好奇心か何かそうした探究心を掲げて、性的に抱かれるのを望んだら、多香子さんは拒まないんでしょ」
「誤解しているわ」
やっと微笑みをほどいて、多香子さんはぴしゃりと言ってのけた。
「私を欲にまみれた好色家とでも思っているんじゃないかしら。いい? 私があなたから得たいのは信頼。他に何もいらない。あなた自身が言ってくれたわよね。あなたを姉さんの代わりにだなんてしない。信じてよ、ななみ」
切実な声。彼女が私へと手を伸ばす。それが私のどこかを触れる前に、私は席を立つ。「ごちそうさまでした」と頭を下げ、上げる際には彼女を見ない。そして去る。自分の財布は持ってきた。バスを乗り継いで帰ればいい。それぐらいのことは充分にできる年齢だ。それを理解しているから、多香子さんも私の背中に声をかけてはこない。ひょっとすると彼女は動揺して、私がこれまでに目にしたことのない顔をしているかも。気になる。けれど、振り返りはしない。
空にうっすらとうろこ雲が並ぶ下、最寄りのバス停へと歩きながら私は後悔した。それは「後悔」の一語で済ませるには複雑怪奇な心情であったけれど、他に適当な語を当てはめようがなかった。
私の孤独が、恥じることでも誇ることでもないのを指摘され、そして彼女を頼るように言われた。私は感謝の意を、たとえ表面上であっても伝えればよかったのだ。それでよかったのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。図星を突かれて、黙り込んでしまうだなんて子供だ。
小さなバス停で独りぽつんと待ちながら、鹿目さんの涼し気な笑い顔を思い出していた。
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