県立第三高校
午前二時
ドーナツの穴証明理論
机に頬杖をついた女子高生が、ふと思い出したように話し始めた。
「ねえ
「どうって?」
それに答えたのは、パイプ椅子に体育座りをして『東雲シノと死にたがりの死神』というライトノベルを読んでいた男子高生。目線は本から逸らさずに、反射のように口だけ動かした。
「穴はあるでしょ? でも食べるとなくなっちゃう。ドーナツの穴って、どこに行ったんだろうねって」
「
呆れたように、片宮は言った。愛澄はむっとしたように眉根を寄せて机に突っ伏した。
「赤点とこれとは関係ないでしょー? 悪い後輩だなあ」
「本当のことじゃないですか。というか補習、行かなくていいんですか?」
「いいの、今日は
花田先生とは、数学の教師であり、愛澄の担任だ。趣味はトライアスロンで、週末に大会があると全国どこへでも行ってしまう。
「チッ」
「あ! 今舌打ちしたね? 聞こえてたよ」
「聞こえるようにしたので」
「わっるい後輩だ……」
「これが先輩の唯一の後輩です」
「はーあ、新入部員さえくればなあ」
「来るわけないじゃないですか。
「イロモノってさあ、仮にも自分が所属してる部活に……」
「俺は事実を述べたまでです。というかどうしてこんな弱小部活が潰されずに済んでいるのかのほうが謎では? ドーナツの穴より」
「失敬な、「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」は重要な哲学的命題なんだぞ」
「学校のテストよりも?」
その問いに、愛澄はうげえとそっぽを向いて、少し間をおいて頷いた。
「…………うん」
「言い切りましたね」
「事実だもん」
「もんったって可愛くないですよ」
「ひどい」
そんな愛澄の後頭部を見て、片宮は読んでいた本に栞をはさみ、机の上に置いた。
「…………ドーナツの穴って、俺たちが「ある」と思うから「ある」んですよね。だから「ある」と思えば「ある」し、「ない」と思えば「ない」んじゃないかと」
「──可愛い後輩だ……!」
愛澄はばっと身体を起こして、片宮を見た。その眼はきらきらと輝いているように見える。
「だって先輩、一度気になったらそれが解決するまでそのことしか言わなくなるじゃないですか。仕方なくですよ、仕方なく」
椅子から左脚を下ろして、右膝に顎を乗せ、片宮はそう言った。
「ノッてくれるんなら仕方なくでもいいよ。えっとね、じゃあさ、私たちはドーナツを手に取って味わえるじゃない? ということは、その味わうことができる部分は「存在する」、けどそれ以外は「存在しない」。つまり、身に対して穴の部分は「無」になるわけよね。つまりドーナツの穴はもともと「無い」のかもしれないという考え方もできる」
「つまり先輩は俺とぜんぜん違う意見なわけですね」
「そっちのが面白いでしょ?」
「議論が終わらなくなるじゃないですか」
「終わらせたくないもん」
その答えに片宮はどきりとしたが、いやでもこの哲学馬鹿、どうせ何も考えてないんだろうな、と思い直す。
「……ハァ。でも、手に取って味わえなくても、「穴」と「認識」している時点で、身の部分に対する「有」とも言えますよね」
「流石後輩、鋭いね」
「まあ、一応ここに入って一年になりますからね」
「んふー、辞めずに残ってくれて嬉しいよ先輩は」
ほらドーナツをやろう、と愛澄はどこからか個包装のミニドーナツを取り出した。砂糖がかかっているやつだ。
「いただきます」
片宮は手を伸ばしてそれを取ろうとする、のを、愛澄は腕を上にやって躱した。
「ふふ、これを食べたければ、来年も哲学研究会にいると言いなさい」
「来年……は、先輩もういないじゃないですか」
「いないよ?」
「まあ、卒業できればの話ですけど」
「失敬な! できるって」
「赤点まみれなのに?」
「赤点は理数系科目だけだろー? え、もしかして私がいないと寂しいとか? 寂しいとか?」
「二回言わないでもらえます? そんなわけないじゃないですか」
「えー? ホントかなあ。片宮くん私のこと大好きなくせに」
「気のせいですよ」
「あっ」
片宮は愛澄の手からミニドーナツを奪い取ると、さっさと開けて口の中に放り込んだ。
「甘い」
「そりゃそうだよ、ドーナツだもん」
愛澄はもう一つミニドーナツを取り出し、食べた。甘かった。
「……卒業したら、どこ行くんですか?」
「県外に出るよ。哲学科目指してる」
「哲学やるんですか」
「あったりまえじゃん。私から哲学取ったら何も残らないよ」
「自分で言いますか、それ」
片宮は少し笑って、じゃあ、と言った。
「俺も同じとこ行きます」
「片宮くんも哲学やりたいの?」
「……まあ、そんなとこです」
「やったー! 待ってる!」
「その前に卒業ですよ先輩」
「だから、できるってば!」
県立第三高校第二校舎三階の一番奥、哲学研究会の部室は、今日も騒がしい。
県立第三高校 午前二時 @ushi_mitsu
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