とうめいの終着点

水神鈴衣菜

本文

 ある朝。月白つきしろゆいはいつも通り学校に来た。下駄箱を開けると、一枚の小さなメモが置いてあった。こんな時代に下駄箱の手紙など、逆に新鮮だなと思いながら、唯はそれを取り出して開いてみた。

此世このよの終点で会おう』

 不思議な文言が並んでいた。思っていたようなラブレターとか、そういうものには全く思えない──これを見てラブレターに思える方がおかしいかと彼女は少し笑った。

 此世の終点、と唯は小さく口にしてみる。初めて聞く場所だった。テレビとかでも聞いたことはない、はず。小さい時に流行っていて、その時に聞いたことがあるとか、そんな可能性も捨てきれないので「聞いたことがない」とはっきり言い切れるわけではなかった。

 じっとその手書きの文字を見ていると、その字体に見覚えがあることに気づいた。何度も見た字だ──なぜ気づかなかったのだろう。

「……成実なるみくん?」

 鳩羽はとば成実。唯の好いている人である。彼とは小学校からの数年来の友人だが、それだから逆に思いを伝えるのが怖いと感じているのだ。だからずっと、ふたりは平行なままでいた。

 唯は思い返す。昨日も一緒に帰ったが、それほど不思議な素振りを見せるようなこともなかった。普通の成実だった。だが朝来てみればこれである。いたずらなのだとしたら、なんの意味があるものなのだろうか。唯はぶんぶんと頭を振った。長い髪がふわふわとなる。ひとまず、これを下駄箱に入れられたということは自分よりも早くに学校に来ているということ、教室に向かおうと彼女は思った。恐怖もろとも、メモをくしゃりと握りしめた。


 教室に着いた。もうすぐ朝のホームルームの時間であるため、既にクラスメイトはほとんどが集まっていた。

「あ、唯ちゃんおはよー」

「うん、おはよう」

 席に着く。ぐるりと教室を見渡すと、成実の席は空席だった。荷物すら掛かっていない。いない? 唯は不安に襲われた。メモは確かに成実の字で書かれているのだ。いないのであれば、わざわざこれを置くためだけに学校まで来て、別の場所に今はいるということ。家にUターンすることはなかなか考えられない。であれば──家出? 誘拐? いや、誘拐であればあんな書き置きなどできないはずだ。やはり自分からどこかへ行ってしまったのだろう。では仮に家出だとして、なぜあの書き置きだったのだろうか。わざわざ行く場所を書き記すなど、ふらっと行先も伝えずに単独行動してしまうような彼がするようには思えない。けれどあのメモに書かれた字は確かに、確かに成実のものであったのだ。唯は眉をひそめた。


 ホームルームが終わった。成実の話は出なかった。連絡が無く遅刻と思われているのかもしれなかったが、それにしてもおかしい。クラスメイトも、彼の話を全くしない。まるで彼の存在が、この世からふっとシャットアウトされたような、唯にはそんなふうに思われた。彼は、どこへ消えたのだろう。

「ねえ、唯ちゃん」

「……ん、なに?」

 ぼんやりと考え事をしながら授業の準備を進めていた彼女は、クラスメイトの女子に話しかけられ手を止めた。

「知ってる? あそこへの行き方」

「え……っと、あそこってどこ?」

「『此世の終点』だよ!」

 えっ。

 彼女は、驚きすぎて逆に声が小さくなってしまった。頭が疑問符に埋め尽くされる。メモを見たさっきの、今だ。都合が良すぎやしないだろうか?

「し、知らない」

「そっかぁ、よーし教えてあげよう。まずね、廃線になって使われてない駅に行くの。そしたら『行きたい』って強く願いながら待って、そこで電車の音を聞くと『終点』に着いてるの」

「えっ違うよ! 踏切が開いてるうちに、七回線路を行ったり来たりするんだよ」

「二人とも何言ってるの? 廃線になった線路を、指をさしながら終点に向かって歩いてくんだよ」

「えぇー?」

 その後も、クラスメイトたちは自分があっているだのお前は間違っているだのと言い合っていた。だが唯にだけは、どれが正解なのかも分からなかった。全てが初めての情報だった。

「唯ちゃんは正解がどれか分かる?」

「えっ」

 話を振られると思っていなかった彼女は、頭をはてなでいっぱいにしながら必死で返事を探した。

「えー、うーん……たぶんだけど、踏切のやつ、かな……」

「そうだよねぇ!」

「う、うん」

 適当をほざいたつもりだったが、なんとなく唯にはそれが正解であると思えたのであった。


 とりあえず家に帰ってから、唯は『此世の終点』について調べてみることにした。検索フォームに「此世の終点」とだけ打ち込んで、検索をかける。すぐにヒットした。

「……五百七件、意外と多いな」

 唯はひとまず、一番上のリンクをタップした。『此世の終点とは!』みたいなタイトルのページだ。だが開くことができたはいいものの、文字化けがひどくとても読めたものではなかった。ところどころ読める文字を拾っても、文にすらならなかった。ページを閉じて、次のリンクをタップする。こちらは比較的読むことができるものだった。

「『此世の終点』とは、どこかにある記憶の辿り着く場所です。それがどこにあるかは分かりません。場所が移動してしまうとか、この世界のどこかの終点に本当に存在するとか、色々なことがまことしやかに噂されています。」

 だが結局そのページを最後まで読んでも、どうやったら行けるのかだけは全く分からなかった。

 次に、成実に連絡を入れてみることにした。さすがに家出だとしてもスマホくらいは持っているだろう、電話をかけてその場で出なかったとしても、すぐに折り返しで連絡が返ってくるはずだと彼女は思って──というよりは願って──成実に電話をかけた。陽気な呼出音が鳴る。何度も聞くうちに、その音すら唯には恐ろしいものに思えてきた。不安が煽られる。何度聞いたか分からなくなった頃、ふつりと音が消えた。成実は電話に出なかった。そして、待てど、夜になれど、全く連絡は返ってこなかった。きっと充電を持たせるために電源を切っているのだろうと彼女は自分を納得させた。


 * * *


 次の日。その日は土曜日であったが、部活があるので彼女は登校した。成実とも同じ部活なのだが、朝のミーティングでは見かけることはなかった。

「おはよう唯」

「ん、うん。おはよ……」

「どうしたの? なんか心ここに在らずって感じだね」

「いや……あの、成実くん知らない?」

「なるみ? 分かんないな。てか

「……え?」

「ん?」

「なん、で、いや分かるでしょ? 私たちと同級で、私のクラスメイトで、私の、──好きな人、で」

「ごめん、ゲームとかそういう話?」

「クラスメイトだって言ってるじゃん」

「まじで分かんないわ、ごめん」

 同級生は変なものを見たような顔をして、踵を返した。そしてそんな顔を向けられた唯は、会話の中で感じた絶望をよりいっそう大きく感じることになった。誰、それ。同級生の声が、彼女の頭に反響する。何度も何度も反響して、その言葉の響きは彼女の脳から思考回路を完全に奪い去ってしまった。脳の機能停止と共にその場に立ちすくんだ唯は、先輩に声をかけられたことで再起動したのだった。


 部活にもイマイチ身が入らなかった。やはり時折、同級生の言葉が頭に響いてくるのだ。その度に彼女は怖くなって、震えた息を零すのだった。

「集中が肝心なのに……」

 唯は呟いて、引いていた弓を下ろした。集中して練習ができないのなら帰ろう、彼女はそう思った。

「月白」

 突然かけられた声に、唯は肩をびくつかせた。

「せ、先輩」

「大丈夫か? 朝もぼうっとしてたみたいだけど」

 唯は、成実のことを聞くかどうか迷ったが、再びあの同級生のようなことを言われたらと考えて、やめておこうと思った。

「ちょっと、心配事が」

「……そうか」

 話しづらそうな雰囲気を察してくれたのか、先輩は何も言わずにただ頷いただけだった。

「あんまり無理するなよ」

「あ……はい。ありがとうございます」

 先輩は頷き、踵を返す。このままここにいても仕方がないので、彼女はやはり帰ることにした。


 * * *


 それから数日が経ち、夏休みになった。強い日差しは唯の白い肌をいじめる。そんな中、唯はある計画を遂行しようとしていた。それは『此世の終点』に向かうこと。色々と調べた中で発見した方法を、全て試してみようと彼女は考えていた。


 一、廃線になり使われていない駅に行く。そして『行きたい』と強く願いながら待ち、そこで電車の音を聞く。

 二、踏切を七度行き来する。

 三、廃線になった線路を、終点に向かって指をさしながら歩いていく。

 四、どこかの線路の終点で「はゆま様」と八回言い、それから「いざあいぐしたまえ」と言う。

 五、踏切に向かって二礼二拍手一礼し、「失礼します」と言いながら踏切に入る。


 以上五つが、唯が見つけることができた方法だった。この中に一つでも正解があれば良いと思い、一つずつやってみることにしたのだ。

 まず、近くの線路と踏切、廃線になった線路を調べた。案外近くにあることが分かったが、それでも自転車で二十五分程度かかる距離だったので、計画の遂行は明日からにしようと彼女は決めた。意外にも、唯はわくわくしていた。

 そして明くる日。だるような暑さの中、帽子と、水筒とスマホと財布の入ったショルダーバッグを引き連れて、彼女は自転車に飛び乗った。いってきまーすと大声で言って、ぐんぐんとペダルを漕いだ。

 目的地に到着した。ひとまず難易度が高そうで時間がかかりそうなものから片付けようと唯は決めていたので、最初に廃線になった駅を訪れた。最近廃線になったばかりなのか、案外駅は綺麗なままだった。唯は駅に入り、金も取らない改札を抜け、プラットフォームに移動した。外気の熱が唯の肌を刺した。これはまあ当たり前だが、駅の冷房も全て止められているため、いくら日陰とはいえどうしようもなく暑かった。唯は少し周りを見回す。未だ小綺麗な駅舎は、人だけが忽然と消えたように思われた──成実がそうであるように。唯は目をぎゅっと瞑り頭を振り、椅子に座った。水筒の麦茶を一口飲み、息をつく。行く方法は、「行きたい」と強く願うこと。唯は目を瞑った。

 成実くんに、会いたい──『此世の終点』に行きたい。


 ふと目を開く。いつの間にか、寝ていたようだった。暑さにやられて、体力が落ちていたのだろうと唯は見当をつけた。目の前の景色は、眠る前から何も変わっていなかった。電車の音も聞けた気がしなかった。

「……よし、次っ」

 そのまま、立ち上がった彼女は線路に降りた。なんだかいけないことをしているようで、唯の心臓はどきどきと大きな音を立てた。

「……終点は、どっちだっけ」

 小さく呟いて、彼女は地図のアプリを開く。現在地の駅から伸びる線路を辿っていき、案外すぐに終点が見つかった。この駅はこの路線の終着駅だったようだ。彼女は気合いを入れて、線路の上を終点の方を向いて、指を真っ直ぐ前にさしながら歩き始めた。なんとなく歩みを止めてはいけないような気がして、彼女は汗が落ちるのも、暑さに頭が焼けてしまいそうなのも、伸ばした腕が日に焼けるのも気にせずに、じっと我慢して歩き続けた。

 そうして、線路がふつりと途切れる場所が見えた。小さな木が、線路が終わる場所に置いてある。だが、それは普通の、彼女が知る終点だった。それ以外には何も無いし、何もいない。彼女は疲れと残念さを押し流すようにふう、と息をついた。

 そして最後に、「はゆま様」と言う方法を試すことにした。これで今日の分は最後だ。

「はゆま様」

 目を瞑って、繰り返す。指で数えながら。はゆま様。はゆま様。はゆま様。はゆま様。何度も言っていくにつれて、なんとなく、怖くなってきた。ちょうどあの、成実に電話をかけた時のような。──もし、このまま『終点』に行けたとして、戻ってこれなかったらどうしようか。ふとそんなことが思われて、唯は恐ろしくなった。あと三回。

「はゆま様」

 言うと決めた口は、止まらなかった。はゆま様。はゆま様。

「いざあいぐしたまえ」

 そう言って締め括る。唯は目を開く。だが結局、目を閉じる前と景色は変わっていなかった。唯は少しだけほっとした。暑さに頭がくらりとした彼女は、麦茶をくっくっと飲み干して、帰ろうと踵を返したのだった。


 次の日。その日も唯は自転車を転がし、最寄りの沿線へと向かった。ジリジリと太陽が照りつける日だった。今日で残り二つをやり終えてしまおうと唯は考えていた。

「七回、だったよね」

 踏切の前に立ち、ふうと息を吐く。踏切の向こうは蜃気楼でぼやけていて、この踏切の向こうこそが『終点』なのかもしれないと唯は少し怖く思った。開いているうちに、やらねば。

 唯は足を踏み入れる。二歩、三歩、四歩。五歩という案外少ない歩数で線路の向こう側へ行くことができてしまった。暑さ故か、それとも恐怖からか、唯の頬を汗が伝った。引き返す。進む。引き返す。進む。引き返す。最後の一回。未だに、踏切の向こうに横たわる線路のその向こうは蜃気楼でぼやけている。一、二、三、四、五歩。景色は変わらなかったし、振り返ってもそこには踏切があるだけだった。

 唯は息を吐いて、再び踏切に向き合った。これで最後。もし、失敗してしまったら。もし、成功してしまったら。成実に、本当に会えるのだろうか? 会って、帰ってくることができるのだろうか? 様々なことが頭をぎる。唯はぶんぶんと頭を振った。会わなければいけない、連れて帰らなければいけないのだ。彼が消えたことに気づいている私の、私に課された使命。そんな全力の形容をしなければ、唯は心が折れてしまいそうだった。

 目を瞑って、二礼、二拍手、一礼。

「失礼、します」

 踏切内へ入る。その時、カーンカーンとけたたましい警告音が鳴って、ゆっくりと黒と黄色が唯を世界から遮断した。引き返せない。足が地面に縫い付けられたように動かせなかった。このままでは、電車が。唯が危惧したように、ガタゴトという音が近づいていた。まずい、──。

 次の瞬間、すっと音が引いた。警告音、電車の音が、唯からふっと離れたように。ちりんと鈴が鳴った。その音には、なぜか聞き覚えがあった。

「いらっしゃい」

 唯の瞳の奥で、記憶のかけらが揺らめいた。


 * * *


 はっと目を開くと、そこはもう踏切ではなく、透明がきらめく終点だった。クリスタルが無数に積み重なり、突き出ている。まるでクリスタルの壁に囲まれたように思われた。よく見るとクリスタルの中には様々な映像が流れている。『記憶の辿り着く場所』という文言が、唯の頭にふと思い出された。線路が途切れたところに木があって、線路を目で追うとその先は暗闇に消えている。その先に何があるかなど、唯には到底分かりそうにもなかった。

「あ、唯ちゃん。起きたんだ」

 ふと声が聞こえた。それは何度も聞いた、大好きな声だった。

「な、るみ……くん?」

「うん、成実だよ。来てくれたんだね」

 にっこりと笑う成実の表情に、唯は薄ら寒さを覚えた。違和感に塗れている。

「辿り着けて良かった」

「……うん、頑張った」

「ありがとう、僕のために」

 こひゅ、と喉が鳴った。目の前の存在を、唯は受け付けていなかった。これは、自分の知る成実ではない、と。

「ねえ、どうしてそんな遠いところにいるの? こっちに来てよ」

 困ったように笑いながら、成実は──否、成実の顔をした何かは、唯に少し近づく。

「嫌!」

 ふと出た大きな声は、クリスタルに反射して、広がる。体が、目の前の存在を拒否した。

「──違う」

「何が?」

「あなたは、成実くんじゃない」

「どうして?」

「成実くんは、私のことは唯って呼ぶし、自分のことは『俺』って呼ぶし、そんなに優しい物言いはしないし、それに──それに、そんな冷たい笑い方はしないの!」

 唯は言い放った。成実の顔をした何かは、苦笑いをした。乾いた笑いが漏れる。

「はは、あーあ……バレちゃったか」

 ゆら、と成実が揺れて、倒れた。唯が息を飲んでいる間に、成実からゆらりと白っぽいような、きらめくもやが立ち上る。それは唯の方へとゆっくり近づく。拒否の意味を込めて目を瞑ったが、それは全く意味を成さなかった。


 目を開く。景色はガラリと変わっていた。けれどどこか懐かしい──ふと思い当たったのは、昔よく行っていた、山奥にある知り合いの家だった。何度も行った、懐かしい景色。

「ゆっちゃん!」

 幼い声が聞こえた。ずっと昔に聞いた、聞き馴染みのある声。けれど今となってはもう聞けない声。

「なるちゃん、待ってよお」

 間延びした、幼い声。ずっとずっと昔に、いつも聞いていた声。

「ゆっちゃんは足が遅いね」

「なるちゃんが早いだけだよお……」

「あはは、ごめんごめん」

 そして『なるちゃん』は『ゆっちゃん』の手を取って、もう片方の手で『ゆっちゃん』の頭を撫でて、それからゆっくりと引っ張ってあげた。

 景色が変わる。

 次は住宅街だった。唯が住む家もある所だ。

「ゆっちゃん」

 少しだけ落ち着いた声が聞こえた。いつの記憶だろうか。──唯は気づいていた。これが、ずっと昔の唯自身の記憶であることに。それを現在の唯が、ビデオを見るように振り返っているのだと。

「なるちゃん! 待っててくれたの?」

 ローズピンクのランドセルが見えた。背の伸びた少女には、少しばかり小さめに見える。

「帰ろ」

「うん、帰ろ!」

 景色が変わる。

 学校の昇降口。久しぶりに見たそれは、中学校のものだ。

「くっついてくるなよ」

 唯の心臓が跳ねた。先程の声の持ち主は、成実だ。今よりもまだ、少しだけ高い声。嫌な記憶に、胸や気管が詰まる。

「なんで、なるちゃ……」

「その呼び方もやめろ、鬱陶しいんだよ」

 あの日、もう愛想を尽かされたと思っていた。だから必死で、仲の良くないふりをして。

「……ごめん、成実くん」

 記憶の中の唯は、傷ついた笑顔を浮かべてきびすを返した。

 景色が変わる。

「帰ろう」

 夕暮れの教室。大好きな優しい声が聞こえた。

「成実くん……?」

「帰ろう、一緒に」

「え……、うん。いいよ」

 中学校のあの日から、もう彼とは親しく話すこともできないと思っていたのだ。だから唯は混乱した。けれど都合の良い頭は、昔の記憶をふとかき消した。今の唯が彼を「成実くん」と呼ぶようになった理由を。

 景色が変わる。

 踏切だった。先程のものかもしれないと思ったが、蜃気楼は見えず、代わりにちらつく雪が見えた。こんな記憶、頭の引き出しのどこに隠れていたのだろうか。カーンカーンと警告音が鳴り響く。唯は──幼い唯は、線路に取り残されていた。電車が近づく。そしてふっと、音が止んだ。

 記憶が重なる。鈴が鳴る、ささやかに鳴る。視界が消える、黒に染まる。そして次には、視界がきらめきに染まる。──唯は過去にも、『終点』に来たことがあったのだ。『終点』に迷い込んだ幼い唯は、しばらく戸惑った後うろうろと『終点』を歩き、クリスタルの一つに手を伸ばした。

「いたっ」

 小さな声が聞こえた。よく見ると、幼い唯はじっと指先を見ていた。いた、というのは痛、という意味だったことに唯は気づく。

「なーんだ」

 脳に声が響いた。目の前では、未だに一度目の訪問の様子が繰り広げられている。

「来たこと、あったんだ」

 男とも女とも分からない、子どものような声が響く。あなた誰。唯は自由にならない体の代わりに頭の中で返事する。

「ぼくは『終点』にいる生き物だよ。どうしてこんなことしたのかって? 聞きたい? それはね、君の記憶だけが、ぼくのところに来なかったからだよ。あの男の子が見た君はいるのに、君から見たあの男の子は全然いなかったんだ。なんでかよく分かったよ、君はむかーしにぼくのところに来たことがあって、その時に『記憶の結晶』に触れちゃったから、記憶がやってくる時の何かがおかしくなっちゃったんだと思うよ。これで分かったかな? 唯ちゃん」

 え、うん、大体は分かったはずだけど。でもそれが確認したかったのなら、私を直接呼び出せば良かったんじゃないの?

「それが出来れば苦労してないよー、記憶を食べたことがある人しか操ったりできなくてね、だからいろんな人を使って君を呼び出したってわけ」

 成実くんは元に戻るの?

「戻るよ、君のところにもちゃーんと戻す。怖いことしてごめんね、許して?」

 うん、別に、許すよ。

「ふふ、よかったあ。じゃ……戻ろうか」

 ──ちりん。脳に小さく、鈴の音が響いた。


 次に唯が目を開くと、再びクリスタルに囲まれた『終点』に戻っていた。成実は未だくずおれたままでいる。

「成実くん!」

 唯は駆け寄る。成実は規則正しい寝息を立てていた。温かい。

「良かった……」

「はは、死んじゃったかと思った?」

 と、脳内に再び子供の声が響いた。

「やめてよ、縁起でもない」

「大丈夫、ここは向こうとは隔離されているからさ。餓死だってしないし安心してよ」

「……分かった」

「さ、戻してあげよう。何もかもをね」

 鈴が鳴る。しゃらしゃらといくつも鳴る。それと一緒に、クリスタルも輝く。恐ろしいほどに美しい景色だった。

「またおいで、君の記憶も食べさせてよ」

「ねえ、名前!」

「名前? 一応『はゆま』って呼ばれてるよ。ここに来てしまった人間からはね」

「はゆま……」

「うん。じゃあ、またね」

 声が止み、鈴の音も止む。そして唯の視界はまた黒に染められ、色が戻った時にはもう、元の踏切に戻っていた。全ては元に戻ったのだ。


 * * *


 それからしばらく経った。成実は何事も無かったようにケロッと元の生活に戻っており、部活のメンバーもクラスメイトも、皆成実のことをきちんと思い出していた。成実のことを忘れさせることに何の意味があったかが唯にはさっぱり分からなかったが、その方が緊急性が増すからかもしれないと結論づけた。元の日常に戻り、唯は心底安心したのだった。


 ここからは後日譚である。唯と成実は部活終わりに二人並んで歩いていた。

「成実くん」

「ん、なに」

「…… 、暑いね」

「? ああ、そうだな」

「あ、えーと……アイス食べに行く?」

「いいな、行くか」

「……うー、えと……」

「なんだよ、歯切れ悪いな」

 唯は息を吸って、成実をすっと見据えた。

「成実くん、……なるちゃん」

「なんだ、久々にその呼び名」

「その、えっと……好き、なの」

「何が」

「な、なるちゃん、が!」

「……俺が?」

「そう、うん……そうなの、好きなの」

「へえ、俺も好きだよ」

「……、へ?」

「聞こえなかった?」

「いや……聞こえた、聞こえたけど」

「嘘に聞こえた?」

「ううん……」

 唯は成実の顔を見る。成実はいつもの、優しい笑顔を浮かべていた。

「ゆっちゃん」

 ふと、記憶のかけらが唯の瞳で揺らめいた。

 その記憶は、幼い二人。学校からの帰り道。なるちゃんが好きと幼いながらに伝えたあの日。同じように自分も好きだと返して、優しく笑ってくれた成実。優しくゆっちゃんと笑ってくれたあの日。ああ、あの時から、きっと何も変わっていなかったのだ。呼び方が変わったって、口調が変わったって、声が変わったって、身長差が変わったって──二人は何も変わっていなかった。ずっと一緒だったのだ。

「……ありがと」

「なんだよ改まって」

 成実はふっと笑って、唯の頭にぽんと手を置いた。

「ふふ……変わらないね、なるちゃん」

「お前もな」

「これからも、一緒にいていい?」

「もちろん」

 優しい成実の表情に、唯は照れ臭くなり、頬がぼっと赤くなった。唯は俯く。

「お、どうした」

「あ、暑いなー! アイス食べよ!」

「おう、そうするか」

 自分の頬の熱いのは、絶対に暑さのせいだと彼女は決めつけて、近くのコンビニへの道をすたすたと歩いていくのだった。

 日常は元に戻り、そして進展したのだった。

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とうめいの終着点 水神鈴衣菜 @riina

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