第30話
「そこ違う。ナイトf5」
「あ? ナイト?」
一六手目。均衡を保っていたが、シシーがナイトでg2のビショップをテイクしたところで、マスターが指摘する。高速で自分の手を処理しつつ、相手側の視点からも見ることができている。その言葉通り、そこからみるみる形勢が白に傾き、二七手目にしてチェックメイト。一瞬で持っていかれた。
「ちっ……!リザインだ」
舌打ちをしつつ、シシーが負けを認める。彼女のルールだったら、ここで死が確定していた。しかし、現実には生かされている。負けたこともそうだが、『生き延びてしまった恥ずかしさ』もあり、自分自身に腹が立つ。
「……なにがダメだった」
脳内で思い出してみるが、もう一度同じ流れになったら、同じ取り方をしてしまうだろうとシシーは判断した。やはり、先日は勝ったとはいえ、実力では遠く及んでいないことを悟る。
その悔しそうなシシーの姿を見て、満足そうにマスターはアイアシェッケを注文する。
「強くなるために、潔く相手にアドバイスを求める。そういうのいいね」
「いいから。一六手目だったな。戻すぞ」
ひと睨みし、ひとつの間違いもなく、問題の箇所までシシーは置き直す。が、やはりここはビショップをテイクすることが最善に思えてしまう。
マスターはビショップとルークを手に持ち、解説する。
「ビショップをテイクするか、d1のルークを取るかで悩んだね。でも正解はどちらでもなく、ナイトf5。なんでだと思う?」
どちらかをテイクできれば、相手の機動力を一気に下げることができる。両取りになるように仕向けることまではできたが、正解は、どちらも取らずナイトf5。盤面をもう一度凝視するシシーが、ある駒に気づく。
「……d2のクイーンか」
ナイトが攻めに転じることで、縦横斜め、万能に動き回る相手クイーンの自由度が上がってしまっている。最強の駒、クイーン。一番野放しにしてはいけない女王。
「そういうこと。一気にクイーンが動きやすくなってしまう。逆にh3のビショップにピンがかかって、自陣深くまで一気に噛みつかれちゃうね。今回はあえてその攻め方はしなかったけど、ナイトの動き一つで、他にも隙ができちゃう」
つまり、マスターがその気だったら、h3のビショップを攻めていたらもっと早く勝負はついていた、ということになる。まるっきり指導用のチェスだ。相手になっていない。
冷静さを欠いていたわけでもない、ただ単純に自分の実力不足での敗北。チェスにおいて『たまたま』や、『頑張ればいける』は存在しない。その瞬間、たしかに相手の方が強かったから負ける、というシンプルなものだ。先手後手の差以外にはなにもない。シシーもそのことはわかっていた。
新しく並べ直しながら、マスターは説いていく。
「ビーネちゃんは、相手より上に立とうとする性格が、良くも悪くもチェスにあらわれているね。相手を世界最強だと思い込むこと。もちろん真剣師は、盤外戦術もバンバンしてくるからね。その時に平常心を保てるか」
聞きつつ、シシーはアプフェルショーレをひと口飲む。マスターの言いたいことはわかるが、それでも解せないことはある。口元を拭い、ソファーに深く体を預ける。
「……だとしても、あんたに勝てるビジョンが見えない。上手く流れを把握できたと思っても、その上をいかれる。どうしたらいい」
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