第20話

「まさかと思ったよ。まさかこんな老人にボコボコにやられるとはって。あれ? オレってこんな弱かったんだって、初めてそこで気づいた。一週間なにが足りないのか考えていた」


 通りでは、子供の手を引く父親が目に飛び込んできた。日曜日は家族サービスの日なのか。きっと、この子供が大きくなった時、同じように自分の子供に施すのだろうか。


「で、答えは出たのかね?」


 老人も同じ映像を見ている。あの家族は、ここで飲んでいるといつも見る家族だ。なにか目的があってここを通るのだろう。ずっと、許されるならこうした穏やかな日々を過ごしたい。そう老人は考えていた。


「『覚悟』だ」


「覚悟?」


 老人は初めて、シシーの方に視線を向ける。彼女は変わらず前を見つめ続けている。


「あんたを『殺す』」


「へ?」


 一瞬、おぞましい単語が聞こえて、裏声で老人は返してしまった。殺す? 何を? チェスで? なにが?


 自分自身の掌を凝視し、その先にある血の滾りをシシーは感じる。


「あんたとの対局で気づいた。オレは勝ちたい。勝つことでか満たせない。リスクで遊ぶのはもうやめだ」


 ようやく目線を老人に合わせる。眼光の鋭さに狂気が孕む。


「あんたを殺す」


「……どういうこと?」


 老人の問いには答えず、シシーは財布から札束を取り出し、テーブルに乗せる。


「前回の負けの二〇〇〇ユーロだ。借りは作っておきたくない。返す。再戦だ」


 この店なら一日一〇杯飲んだって、三ヶ月弱は飲める大金だ。それをポンッ、と返却する。


 驚いた顔を作った老人だったが、すぐに鼻で笑ってお金を突っ返す。やれやれ、と言いたげだ。


「だとしても、僕は五倍でしか受けないって言ったよね? 持ってない金額を受けるほど優しくはないよ。だから再戦はーー」


 その老人の言葉を遮るように、さらに財布から分厚い札束を追加で乗せる。二〇〇ユーロを五〇枚。


「これで一万だ。数えてもいい。受けるよな?」


 怯む老人に圧力をかけながら、タガの外れた目でシシーは同意を得ようとする。


 ため息をつき、老人は苦笑いをする。


「……いよいよ、子供が持ってていい金額じゃないね。これはどうしたの?」


 テーブルで大っぴらに見せておいていい金額ではない。老人は胸ポケットから出したハンカチで隠す。このビアホールで一日一〇杯、一年間ビールを飲んでもお釣りがジャラジャラとくる額だ。


 しかし、シシーにとっては、ただの老人とチェスを指すためだけのチケットにすぎない。


「この一週間、あんたと再戦するために、オレが全てを捨てた金額だ」


 一週間前、ララの部屋のドアをノックした時から、このためだけに耐え続けてきた日々。思い出したくはない。だからこそこの一局には、並々ならぬ想いがある。


 気持ちが後ずさっていた老人だが、深くため息をつくと、またも内ポケットから金のポーンを取り出す。本気を出す時のルーティンなのか。


「正気じゃないね。でも、そこまでの覚悟を見せられたら、やるしかないよね」

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