◇6「追憶の果て、あるいは」



 がっこん、ざっく、ざっく、ざくんざくん、


 ざくんざくん──ざく──ざくん────電車が動き出し、窓から景色がひとつずつ遠ざかっていく。電信柱、稲穂を揺らす田んぼ、ぽつんと立つ民家、コンクリートのひびわれた道。私の住む町の一番端の、未開発の田舎らしい風景。

 私は窓の外を見つめる。初めて遠くから見た自分の住む町は、随分小さな世界に見えた。


 ──「私」とは、私であり、井ノ原潮でもある。


 そのための儀式だったことを、私はまず「あなた」に説明しておく。その必要があるように思われるからだ。それでもあなたが混乱したままこの小説を読み終えることは、大いに有り得るだろう。私はそれを罪に思う。やはり罪に思ってしまうのだ。


 私はこの小説あるいは儀式を、一つの目的を果たすために書いた。それはこれから分かることだ。その前にいくつかのことを説明する。説明出来ることのみの話だ。私が考え私が終えた儀式と、小説について、私は全てを明かせない。それが儀式の重要な手順のひとつだからだ。また、私についてあなたが知るべきことも決して多くない。これは私のための儀式からだ。

 まず、私は井ノ原潮ではない。それは先述した通りだ。

 私は一部の特徴において、井ノ原潮と重なっている。だが、多くの部分で井ノ原潮と重なっていない。その必要があったからだ。

 儀式において、まず目的であったのは、井ノ原潮という人物を形成することだった。

 その人物は、ある一つの選択に迫られたとき、間違いに抗うだけの力を持っている必要があった。そのため、小説にはいくつかのドラマが必要とされた。また、井ノ原潮と私はある一つの属性において、明確に異なっている必要があった。それは、これから起こることに対する安全装置のようなものだ。

 私は、この小説において既に一つのことを成し遂げている。実在した「Mitsuki.U」の記録から、小説を形成した。この世界に現存する「Mitsuki.U」の記録を利用して、場面を繋ぎ、小説を書いた。


 私はそれに、二つの罪の意識を感じている。一つはあなたに対してだ。あるいは、それは一つの罪の意識かもしれない。あなたが、誰であるかにそれは依る。

 

 電車の中で、スマホに通知が届く。それは私の記憶の中だけにある。


『引きこもり同士がこうやって外で集まるのも、ちょっと面白いね』


 ユウさんからのメッセージだった。私は、その記憶について多くを語り得ない。


『僕はあなたとは違う』


 私はそう返した。あなたはそれを深く読み解くべきではない。

 これから私は、そのような法律逃れのような苦しい方法で、いくつかの記憶を語る。その必要は無いが、そうすることにした。

 重ねて言うが、あなたはそれを深く読み解くべきではない。私は井ノ原潮であり、井ノ原潮では無いからだ。


『引きこもりだから死のうかなと思っています。どうしたら良いでしょうか』


 私が初めてユウさんに告げた言葉は、正しくはこのような言葉だった。

 二〇一五年の六月。私は十八歳のただの引きこもりだった。

 あなたは、ある日家を出ようとしたとき、その足がはたと止まった日は無かっただろうか。ただ小石に躓いたような感じで。私にはあった。私はそれが、小石では無く、なにかもっと大きくて恐ろしいものだったことに気付かなかった。私はその日、はじめて学校を理由なく休んだ。次の日も同じことが起こった。一日、二日、一週間、一カ月とそれが続いた。私はある日、自分がこのままずっと、学校に行けないだろうということを悟った。

 私は、それがどれだけの年月続いたかをあなたに明かそうと思わない。それがただ、悠久の波の中を航海するような、そういう時間だった事だけをあなたに告げておく。そして、その航海を自らの手で終わらせようと思ったことが一度や二度で無かったことも。


『女の子ですか』


 私が自死を選ぼうと思ってる、という問いに対して、ユウさんはどうしてか初め、それを聞いた。


『男子高生です』


『じゃあ分かりません』


『男子高生じゃ分からないんですか?』


『分かりません』


 私はそのやりとりに、はじめ憤慨した。その無責任で、断絶を感じさせる言い草に失望した。

 私がユウさんに話しかけたのは、なんとなくよく聴いていた曲の作者が、自分と同類の引きこもりだと気付いたからだ。不定の時間のツイートや、少女終末症候群以前の曲を聞けば一発で分かった。「陰り」「部屋の中の孤独」「花瓶と教室」。それらの暗く、陰惨で救いのない曲を聴けば、ユウさんが恐らくイジメを受けて、学校に行けなくなった人間だということは簡単に分かった。

 そして、あなたが引きこもっていた理由が……あるいはそのイジメが。性別に起因していたのだと今の私は察する。あなたが「男子高校生」と「女子高生」の間に、なにか壁のような物を感じていたことが理解できる。ジェンダーという概念もまだあまり世間に浸透していなくて、性差というものが、今よりもう少し強い偏見で見られていた時代だった。あなたはきっと、そのために苦しみ、それに囚われていたのだと思う。あの頃の私が分からないことだった。


『じゃあ僕が死ぬか生きるか、選んでください』


『生きてください』


 ただ、あなたは私に生きて欲しいと言った。私はあなたがくれたこれらの言葉を改変して、儀式の中で意味の通じないやり取りに変えてしまったことに、深い罪の意識を感じている。


『やっぱり死のうと思います』


『死ぬな!』


 私が今書いたことを、あなたはいま、忘れる。これは必要のない説明だったからだ。


 電車がある駅で止まる。私はその駅で降りて、次の電車に乗る。

 私の居た町……福井の小さな田舎町から大阪駅までは、一回の乗り換えをして、二時間半電車に揺られる必要があった。

 私は、私の記憶の中で救えなかったものを救おうとしている。あるいは、ユウさんと初めて会えることに、どこか興奮している。

 私はいくつかの経験を経て、あなたに言いたいことや、言えることがあった。私があの頃と違う人間になったと、私にはそう言うことが出来た。

 私がいま、誰なのかを私自身もよく理解していない。それは今、曖昧に不可分に混ざり合っている。それを儀式が成し遂げられていることの、一つの証明とする。

 私はこれから、Mitsuki.Uと出会う。あるいは、そうでなかったことを嘘にしようとしている。あなたは今の文章を読んですぐに忘れる。

 

『あんたなんか嫌いだ。引きこもりのクセに偉そうなこと言うな』


 私は、そのようなことをユウさんに言ったことがある気がする。それは気のせいである。あるいは忘れたい事実である。

 私はユウさんに対して、楽しく話してる時と嫌悪感を持って接してるときがいくつかの割合で分かれていた。それらの割合が1対1をせめて割っていなかったことを祈る。

 ユウさんは私より年上の女性だった。それは、推論から成るほとんど確定した情報だった。私はその推論の一部を□1で語っている。あなたはそれを読み返す必要が無い。それに対して、私は若く、余りに不安定で、自分を取り巻く世界全てを敵のように思っていた。だからユウさんが私に対して何か、必要で、希望的なことを言ったとしても。私は跳ねのけた。その希望的なこととは、例えば、


『いくらでもやり直しぐらい効くよ。高校生だし』


 であるとかだ。これは私がいま適当に考えた、ユウさんの言いそうなことだ。ユウさんは優しく、私のことをよく気にかけてくれた人だった。それをこの小説で十分に描写できず、ユウさんのただ偏屈でユーモラスな側面だけを書いたことに、私は罪の意識を感じている。

 私はこの小説を書くにあたって、いくつかの罪を犯すことを分かっていた。ユウさんの人格を歪めること。私の記憶にある鮮明な死の記憶をただの小説の道具にすること。あなたをこの身勝手な儀式に付き合わせること。私はそれを無視することに決めていた。私はそれを最後まで貫けない程度には、卑怯なまま今の私になった。

 私はもう、これくらいで不必要なことを語るのをやめようと思った。だから、あなたも不必要な情報を切り分けて捨てて欲しい。私がこの小説を書くにあたってそうしたように。


「次は高槻。高槻。高槻を出ますと、新大阪。その次は大阪に停まります」


 私は電車のアナウンスを聞いて、心が凍り付くように閉じていくのを感じる。あるいは、何かの決心を固める。

 その日、ユウさんは大阪駅で待っていると言った。それがどういった経緯でそうなったか。私はそれを語らないことに決めた。私たちは、ただ自分たちの存在を確かめ合いたかった。あるいは、私とユウさんが違う人間であることを証明したかった。

 私は周囲を見渡す。そこに見える景色が、真っ白で色の無いものであることに気付く。私の記憶から、それらの色彩は零れ落ちていた。私はそれに驚く、あるいは驚かない。私はただ、吐き気を堪えるように下を向いていて、周囲を見渡す余裕などなかったからだ。

 私は、ユウさんに会わなければならなかった。それが約束だった。私はどうして自分がいま、ここに居るのかを考えないようにする。


「新大阪。新大阪」


 人の波が、電車に入りこんでくる。私はそれらに意識を向けない。ただ、自分のことだけを考える。あるいは、空を見上げる。この空のすぐ向こうに、ユウさんが居ることを意識する。

 私はユウさんのことが好きだった。あるいは、好きではなかった。だから会いたかった。あるいは会いたくなかった。

 

「大阪」


 私は、席から立ち上がって、電車を降りようとする。そして、何かが気になってふと振り返る。私は乗客の中の、席にうずくまる一人の男の子に気付く。私はそこに一瞬目を遣ったあと、駅のホームに降り立つ。

 私は、空白のような真白い大阪駅のホームに立った。

 そこには誰も居なかった。私はキョロキョロと見渡して、標識を頼りに改札へと向かう。誰ともすれ違わない。誰も居ないホームを私は歩く。カツ、カツ、カツ、と。私の履くローファーの音だけが響いている。

 私は、一瞬、自分が誰だか分からないような錯覚に襲われる。私は、その感覚を気のせいだと振り切る。階段を下りる。降りていく。

 階段を下りた先には、中央北口の改札がある。そこではユウさんが待っている。私はそれを知っている。私はそれが恐ろしくなる。私はそれが恐ろしくなる。私はそれが恐ろしくなる。私は、それが恐ろしい。

 階段を最後まで降りる。辺りを見回す。中央北口の改札を見つける。私は行きの切符をポケットから取り出す。私はそれを改札に入れる。改札を出る。私は、そこに、ユウさんの姿を見つける。

 ユウさんは。大人の女性で。私はユウさんについて描写する術を持たない。だが、それでよかった。私は、あなたと会って、ただ伝えたかった。


「私は」


 私は、あなたに伝えたいことを考える。


 考える。


 考える。



 

































































 考える。私は、ただ、

 後悔している。あの日、大阪駅を通り過ぎて、

 どこまでも遠くへ向かっていく電車の中で座っていた、あの時の私と、

 今の私が同じ自分であることを。



「私は、時々」


 私はただ、あなたに思うことを伝えることにした。


「あなたがあの後、死んでしまったんじゃないかと思う日があります」


「あなたは優しくて、でも偏屈で」


「でも少しナイーブで。不安定で」


「だからあなたが、」


 




 私は、何も言えなくなる。

 

 私は、自分が井ノ原潮であることを、ふと思い出す。十六歳で、多くを経験した、賢くて、優しくなった、少女であることを思い出す。

 私は自分があなたに多くのことを言えるような気がしてくる。私の町の綺麗な海の写真とか、ねこのお尻の写真とか。そういうものをあなたに見せてあげたいという気がしてくる。


 私は、言う。







「あなたに居なくなってほしくなかった」







 私は、ここでこの小説を終えようと思う。

  

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