いたちごっこの、モグラ叩き

森本 晃次

第1話 死者の概要

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年八月時点のものです。それ以降は未来のお話です。またしても、世相、政府がどこかで聴いたようなお話になるかも知れませんが、皆さんのストレス解消にでも役立てていただければいいと思います。当然(あくまでも)フィクションです(笑)。


 世の中には、大好きな人を失うと、そのまま生きる気を失ってしまって、後追いをする人もいる。あるいは、その人の分まで、自分が生きるという気持ちをあらわにして、自分を押し殺してでも、まわりのために生きようという健気な人もいる。逆に、やる気をなくしたまま、世の中に流されて、決して表に出ないように、石ころのごとき、気配を消してひっそりと生きている人間もいるだろう?

 毎日のように、人がたくさん亡くなっている。

「果たして、一年間で、生まれる人と、亡くなる人とではどちらが多いのだろう?」

 と思っている人も少なくはないだろう。

 以前から言われていることとして、

「少子高齢化」

 という言葉が叫ばれている。

 つまりは、

「生まれる人も少なく、死ぬ人も少ない」

 ということではないかと考えるが、そんな単純なことではないような気がする。

 確かに、どちらも少ないのでれば、総人口の増減が急激にどちらかに傾くことはないだろう。

 しかし、高齢化と言われるのは、あくまでも、

「年寄りが死ななくなった」

 ということを示していることになる。

 医学の進歩によって、今まで不治の病と呼ばれていたものも、助かるようになってきたのが一番の理由であろう。

 確かに、結核のように、戦前は罹ってしまうと、ほぼ助からないと言われていた病気でも、戦後すぐの医学の発展により、ストレプトマイシンなどのような特効薬の出現で、死亡率が急激に低くなっていった。

 結核というのは、細菌である、

「結核菌」

 による伝染病である。

 伝染病というだけに、自分が人に移すことで、蔓延する可能性があるのだ。

 昔でいえば、サナトリウムと呼ばれる結核専用病棟があったりして、完全隔離で、後は死ぬのを待つだけという悲惨な末路だったのだが、今では、薬で抑えることのできる病気として、決して死ぬ病ではなくなったのだ。

 そういう意味で、不治の病であっても、早期発見によって、かなりの延命ができるようになっていった。

 平均寿命が延びているのも必然と言ってもいいだろう。

 そういう意味もあってか、定年と呼ばれる制度も次第に遅くなってきている。

 昭和の頃までは、一般的な定年は五十五歳がいいところであった。六十歳までは、定年後の雇用ということで、認められていたが、現在は定年が六十歳、定年後の雇用が六十五歳にまでなっている。

 そして、年金が六十五歳からしかもらえないのだから、六十五歳まで働かないと、まったく収入がないことになる。それは悲惨なことだろう。

 しかも、今から、十五年くらい前になるだろうか。当時の政府の厚生労働省のずさんな管理が浮き彫りになり、

「消えた年金問題」

 が大きな社会問題になった。

 他にも原因はあったのだろうが、それまで、五十年以上続いていた与党が、ついに下野する結果になったのも、ちょうどこの時であった。

 さすがに国民も、

「今の政府には任さ手おけない」

 ということになったのだろう。

 それでも、それまで政府経験のない政党にいきなり任せても、うまくいくはずはなかった。ここは、明治政府との違いだったのかも知れない。

 幕末の大政奉還の歴史を知っている人はピンと来たかも知れない。

 つまり、当時の幕府の十五代将軍、徳川慶喜が大勢放火を行ったのは、無用な薩長軍との戦争を避けたかったということがあるだろう。下手に逆らうと、朝廷を後ろ盾にしている薩長軍に対して、幕府追討の勅令を発すれば、幕府方は朝敵になってしまう。そうなると、幕府方は総崩れになるのは分かり切ったことであった。

 それを避けたかったのだが、それとは別に、もう一つ大きな目的があったのだ。

「薩摩、長州藩や、朝廷には、政治を行えるだけの力がない」

 という見込みであった。

 要するに、

「朝廷に、政治の権力を返納すれば、きっと、付け焼刃の政府では、行政を行うことはできないだろう。そうなると、きっと幕府の要人を新政府に招き入れるに違いない」

 という思惑があったのだ。

 さすがに幕府が無傷というわけにはいかないだろうが、幕府を討伐しない限り、そうなると、徳川慶喜は考えていたことだろう。

 しかし、朝廷や薩長は、政治についてもしっかり勉強していて、さらに、諸外国からも勉強していた。そのことで、朝廷にも政治力があり、幕府側の目論見は外れたのだった。

 だが、現代は違った。新たに与党となった政府は、口では立派なことを言っていたが、結局何もできなかった。世の中をメチャクチャにしておいて、結局、政権を数年で、元の与党に返すことになり、野党が分裂していくことで、さらにひどくなり、どんなに与党が世間から揶揄されようが、

「今の野党にくらべれば、マシだ」

 と言われてしまうことになる。

 そうなると、国民の政治離れがひどくなり、選挙にいかなくなる。

 結局、投票率が下がると、自動的に与党が政権に就くという構図がそのまま受け継がれることになる。

 投票率が下がると、与党の組織票だけが確率をあげるので、野党の勝ち目はないのだ。

 となれば、与党は好き放題、

「カネと政治」

 と言われる、利権に塗れた政治観がのさぼるようになるのだ。

 そうなってしまyうと。世間はさらに政治離れとなってしまう。

 国家の非常事態であり、政府が当てにならないということが分かり切っていても、

「野党が、それ以上にクズだから、どうしようもない」

 ということになるのだ。

 今から数年前の日本がそうだった。世界的なパンデミックを思い出してみてもらえば、分かることだった。

「政府にとっての世の中は、決して、世の中にとっての政府ではないのだ。政府というものは、自分たちの私利私欲以外は、見てみぬふりをしている」

 という世論が一般的になり、SNSなどで、どれほど政府を貶していたか、記憶に新しいところである。

 国の非常事態において、

「この期に及んでも、政府の中の大臣と呼ばれる連中は、保身に走るもの」

 だったのである。

「肝心なことは何も言わない。いくら最低とはいえ、マスゴミの質問には、まともに答えようとしない」

 もっとも、マスゴミの質問は最低なものが多いのだが、それにしても、政府も国民が知りたいことをまったく説明しようとしない。

「説明責任を果たしていない」

 というのは、前政権から言われていたことであるが、国家が非常事態においても同じことだった。

 しかも、自分たちだけが知っていて、それを国民に共有しようとしないというのは、完全に国民を見殺しにしているのと同じではないか。

 そんな政府と比較され、

「現政府の方がましだ」

 と言われている野党も、相当なものだ。

 こんなことでは、政権が変わることもない。要するに政府に危機感がないから、こんな政府が生き残る形になるのだった。

 今の政府は、

「国民に選ばれた」

 というわけではない。

「国民が政治を当てにしなくなったことによる、ある意味独裁と言ってもいいくらいの状態になっているのだろう」

 日本は、憲法で守られているので、独裁国家になっていないだけだ。非常時の日本は、独裁国家よりもひどいかも知れない。国民を守ろうという気概が一切ないからだ。

 そんな世の中で、人が死ぬ可能性として、まずは老衰などの、大往生と呼ばれる、寿命をまっとうした場合、さらには、病気などによるもの、さらに何かの事件に巻き込まれて、殺されてしまったりする場合、そして、突発的な事故によるものが、そのほとんどではないだろうか。

 普段は死というものを意識しないであろうから、あまり考えることもないだろう。だが、年を取ってきたりすると、一番考えるのは、

「苦しまずに死に対」

 という感情なのではないだろうか。

 そういう意味では、苦しむような病気に罹ることを一番に考えるものなのかも知れない。

 だが、あまり普段から考えない若者が、何かのきっかけで死というものを考えるとどうだろう?

 普段は気にしなくても、自分の祖父母などの肉親が亡くなって、その葬儀などに出席すると、その場の粛々とした雰囲気から、今まで意識することのなかった「死」というものを嫌でも意識してしまうかも知れない。

 普段考えていないと、たぶん、頭の中で考えるとすると、

「もし、自分が死ぬとすれば」

 という意識になるに違いない。

 そうなると、自分の年齢よりも一回り上の年齢を想像することはあまりないだろう。なぜなら、想像することが困難な未来を考えなければいけないからだ。

 若者であれば、自分の年齢かも、三つ、四つくらい上までしか想像ができない。そうなると、考えたとしても。三十代までになってしまう。

 そんな時、以前までは成人病と呼ばれていた、今でいう、生活習慣病と呼ばれるものによる死について考えることはあまりないと思われる。

 もちろん、若い人もかかる可能性はあるが、普通は考えない。しかも、それらのほとんどは、苦しみを伴うものなどが多いため、さらに考えることを嫌うだろう。

 何と言っても、まだまだ先に希望を残している若者が、そんなネガティブなことを考えても、ロクなことにはならないからだ。

 つまり、若者であれば、考えることとすれば、

「まず、ありえないのは老衰。最初から寿命が三十代などということはありえないと思っているからだ。それ以外はすべてに可能性があるわけで、そうなると、結局は年を取ってから考えることとあまり変わらないだろう。

 ということは、

「苦しまずに死にたい」

 と感じることだった。

 祖父母の葬式において、老衰であれば、葬儀の参列の人から声を掛けられるのは、棺の中の顔を見て。

「本当に安らかなお顔だ。苦しまずに死ねたことは、よかったんだろうな」

 と言っていることだった。

 葬式で、

「よかった」

 などという言葉を言われて、

「葬儀の席で、何と言う」

 とは誰も思わないだろう。

 誰もが望んでいることである。、

「苦しまずに死ねた」

 ということが、その人にとっての幸せだということであろう。

 そういう意味では災害や事故などにおいて死んだ場合でも、

「即死」

 ということであれば、苦しまずに死ねたという意味では幸せなのかも知れない。

 ただ、事故や災害に遭わなければ、もっと生き続けられたであろうが、死というものがその人の運命として逃れられないものであるとすれば、苦しまなかったことは、本当の幸いだったと言えるのではないだろうか。

 そういう意味で、事故で悲惨な状態で発見された方が、実は即死だったりする場合がある。人によっては、その死体の具合の悲惨さよりも、

「この人、苦しまずに逝けたのだろうか?」

 と感じる方が多いかも知れない。

 だが実際に、交通事故を目撃すると、その悲惨さや、飛び散った鮮血などを見ることで、

「交通事故にだけは遭いたくない」

 と思うだろう。

 この場合は、自分のこと以外のことを考える。

 交通事故に限らず、災害であったとしても、突然に命を奪われたことで、

「これから、もっと幸せな人生が歩めただろうに」

 と言われてみたり、

「残された家族がお気の毒で」

 ということになるだろう。

 家族という意味では、一番の最悪は、

「死にきれなかった場合」

 もあるのではないだろうか。

 事故の後遺症が残ったり、下手をすれば、植物人間になりかねない場合だってある。

 生きている以上、身内の事情で、植物人間を殺すわけにはいかない。

「家族といえども、生殺与奪の権利はないのだ」

 ということである。

 ということは、どんなに生命維持にお金が掛かろうとも、生命維持のために、家族がその費用を負担しなければいけない。

「借金をしてでも、殺すわけにはいかないのだから、仕方のないことだ」

 と、言い切れるのであろうか?

 日本では、安楽死というのは認められていない。裁判でも、その時の事情で、判例も別れているので、殺人罪にならないと言い切れるわけでもない。そうなると、植物人間のために、その家族は人生を棒に振ることになるのだ。

 これは、ひょっとすると、植物人間になった人も、意識さえあって相手にその意志を伝えられれば、

「どうせ、元に戻ることはないんだったら、このまま殺してほしい」

 と思っているかも知れない。

 生前に、遺言として、

「植物人間のように、自分の意志が働かず、家族に迷惑をかけることになれば、そのまま安楽死を望む」

 という、安楽死ということに対して本人の意志があったとしても、絶対に安楽死を行った人間は、無罪だとは限らないだろう。

 この問題は、かなりデリケートな部分が潜んでいるので、解釈が難しいが、少なくとも意識不明になって、、意識が戻る可能性がほとんどなく。元に戻るのが、常識的に無理であり、家族の負担が著しい場合は、一律に安楽死を認めてもいいのではないかと思うのは、危険なことなのであろうか?

 道徳的にはそう思えるのだが、宗教的に、キリスト教の十戒にあるような、

「人を殺めてはならない」

 という教えが古来から脈々と受け継がれてきているのであるから、なかなか、今の自制では全国民を納得させるのは難しいだろう。

 ただ、安楽死の問題は、世の中で、

「避けては通れない問題」

 であり、倫理、宗教、道徳、などを鑑みたうえで、リアルなその時々の情勢を、いかに組み合わせていくかが問題なのであろう。

 しかし、交通事故というものの中には、特に最近問題にされている、

「飲酒運転」

 という問題がある。

 これこそ、少し注意をすればなくなるはずなのに、なぜかなくなることはない。事故ってしまって、相手を殺してしまうと、今では殺人罪も適用される時代だ。

 殺人というと、よほどの事情がないと普通は犯さない。よほどの恨み、自分が生きるためにのっぴきならない事情が存在する場合。ごくまれに殺人を楽しむという猟奇殺人もあるが、人生を掛けてでも行う人殺しは、本当に一か八かということが多いだろう。

 当然ながら、

「交通事故による殺人というのは、凶器としての手段として車を使った」

 ということでもない限り、

「殺すつもりはなかった」

 ということであろう、

 しかし、普通殺人でも、復讐であったり、のっぴきならない場合は多少なりとも同情の余地はあるが、交通事故、しかも、飲酒による致死であれば、世間的に同情の余地はまったくないと言ってもいい。

 なぜなら、

「少し注意すれば、防げたことであり、この場合は注意という以前の問題で、その人の神経が疑われるレベル」

 ということになるだろう。

 つまり、

「精神異常か、アルコール依存症じゃないのか?」

 と言われるほどのものだと言ってもいいだろう。

 犯罪というものは、

「容疑者が、判断できない状況にあって、犯行を行った場合、精神的にやむ負えない場合など、罪に問われなかったりするが、基本的に、予見できた場合には、罪になる場合が多い」

 と言えるのではないだろうか。

 刑法では、

「心神喪失者の行為は罰しないということであり、心身耗弱者の行為は、その罪を減刑する」

 と、第三十九条に書かれている。

 だが、これはあくまでも心神喪失者だけが無罪となるもので、薬物やアルコールを飲んで運転した場合などは、そうではない。

 自分の意志でアルコールや薬物を摂取したのだろうし、摂取した時には、普通に運転できるのが分かっていたことだろう。

 そうなると、

「危険運転致死罪が適用され、有罪となると、殺人罪並みの判決になったりするのではないか」

 というのが、今の一般的な考えである。

 それなのに、一向に、飲酒運転が減ることがない。

 実際には減っているのかも知れないが、刑が重くなっている割には減っていないということがある。

「自分はアルコールに強いので、事故なんか起こさない」

 あるいは、

「ちょっとそこまでなので、警察に捕まることはないだろう」

 あるいは、自分の感覚で、

「すでに酒が抜けているだろう」

 などという自己分析の甘さから起きた事故が、意外とそのほとんどなのではないだろうか。

 事故を起こしてから悔やんでも遅いのだ。これだけ、世間から飲酒運転が悪いことだというキャンペーンがあるのに、一向に減らない。これは交通事故が全体的に減らないのと同じ理由なのであろう。

 ただ、

「いくら健常な状態であっても、いつ自分も事故を起こすか分からない」

 という意識があれば、怖くてアルコールなど飲めないはずだ。

 それだけ酒を甘く見ているのか、それとも運転を甘く見ているのかである。

 たぶん、どんなに法律を重くしても、撲滅はありえないだろう。ある意見として聴いた話であるが。実現化が可能かどうかは別にして言われていることとしてなのだが、

「運転する前、アルコール濃度を車が判定し、酒気帯び以上の状態であれば、キーが回らないようにするというような車を開発することができれば、猶予期間をある程度取って、そういう車でなければ、犯版、およに、走行してはいけない」

 という形にできないかという発想である。

 そうでもしないと、どんどん罪を重くしたとしても、運転する人は運転する。

 そもそも、酒気帯び、飲酒運転が悪いことだという認識のある人は、罪に問われようがどうしようが、最初からアルコールを摂取して車を運転するようなことはしないのだ。

 だから、罪の重さに関係なく、運転する人は運転する。

 以前、CMで麻薬撲滅のキャッチコピーに、

「クスリやめあすか、それとも人間やめますか?」

 というのがあったが、飲酒運転も同じで、

「飲酒運転やめますか、それとも人間やめますか?」

 と同じことだろう。

 飲酒運転をする人間は、頭の構造が、薬物に浸食された人間と同じだと言ってもいいのだと、断言する。

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