第17話 暗転


 時也と落合巡査部長が美濃病院跡地に到着してからきっかり三十分後、内海巡査長が二人と合流した。三人分の小型懐中電灯を持参する気配りも忘れていない。

「思ったより早かったな」

「そこそこ渋滞していましたが、サイレンを鳴らしたパトカーが通れば皆さん親切に譲ってくれますので」

 涼しい声で答えた内海に、落合刑事は「お前なあ」とため息交じりに返す。

「そんなことより、ここが十五年前の闇献金事件に関与した病院ですか」

「ああ、といってもとっくに廃院しちまって今はこの有様だよ」

 懐中電灯の光で外観をなぞりながら、女刑事は「まさしく幽霊病院ですね」と呟く。時也が美濃病院を訪れるのは二度目だが、ほとんど真っ暗な視界の中に建物のシルエットがぼんやりと浮かび上がり、昼間よりもさらに不気味さが増しているようだ。時折吹く風が木々を揺らし気味の悪い音を立てる。鳥の群れがやけに飛び交っているのは、裏手にある森が彼らの寝屋になっているからかもしれない。

「私が到着するまでに、何か変わった様子はありましたか」

 尋ねる内海に、時也も落合も「いいや」と首を横に振る。

「鳥は五月蠅く飛び回っているが、建物の周辺には人っ子一人いねえ。好き者が廃虚探検にでも来てねえかと期待したんだけどな」

「そうですか。ところで私、ここに来る途中でこんなものを見つけたのですが」

 証拠品保管用のビニル袋を取り出す内海。そこに入っていたのは、一本の煙草の吸殻だった。

「煙草なんて、昼間にここらを散歩でもしていた誰かが吸ってたんだろうよ」

 吸殻にライトを当てていた時也は、「そうでもないみたいですよ」と先輩刑事を振り返る。

「よく見てください。この吸殻は吸ってからまだあまり時間が経っていないようです。おそらく、今日の夕方以降に捨てられたものだ。それに吸い口の部分に僅かですが口紅が付着している……内海、どこでこれを」

「小杖城跡の駐車場からこの病院まで続く坂道の途中です。足元を懐中電灯で照らしながら歩いていたので見つけやすかったのでしょう」

「日が暮れてから女が歩き回るような場所じゃねえよな、ここらは」

 ぼりぼりとパーマ頭を掻きながら、落合刑事は時也に目くばせする。内海は証拠品をスーツのポケットに仕舞いながら、

「これが坂道の途中に投棄されていたということは、この吸殻の主は廃虚までやって来た可能性がありますね。もしかすると、今も建物内に潜んでいるかも」

「鬼が出るか蛇が出るか、楽しみだぜ」

 組対部上がりの巡査部長を先頭に、内海、時也の三人は美濃病院の中に足を踏み入れた。三本の懐中電灯の光が、建物内部のあちこちを照らし出す。時也が最初に来たときと違わず、足元にはゴミや枯れ木やバケツやらのあらゆる物が散乱していて文字通り荒れ放題だ。逆に言えば、木を隠すなら森の中――犯罪の物証を紛れ込ませるにはおあつらえ向きである。

 落合刑事は、足元に転がったあらゆる障害をものともせず軽快な足取りで先へ先と進む。その後を、女刑事が慎重に脚を動かしながらついていき、しんがりの時也は床に散らばる廃棄物の中に犯罪の証拠がないか目を光らせる。

 やがて一行は、一階の最も奥まった場所にある調理場に辿り着いた。落合刑事は真っ先に台所の流しへ行くと、手袋をはめた手で蛇口を捻る。勢いは弱いもののきれいな水が流れ出て、ちょっとした洗い物や料理をするには充分だ。

「たしかに、廃虚のわりには妙に小奇麗だな。水も通っているし、こりゃ臭うな」

「埃もきれいに拭かれていますね」

 調理場の中央に据え置かれたテーブルを、内海が指でなぞる。時也は冷蔵庫を開けて、

「さすがに電気は通っていないようです。でも、廃虚化した病院が水道契約を続ける理由なんてない」

「普通なら、な。何かしら訳があるはずだぜ――とりあえず、一階から順に見て回るか」

「落合部長、ここに院内の地図があります」

 捜査二課の重松刑事に頼んで、院内地図を密かに入手していたのだ。とっくに病院としての機能を失った廃虚内には、部屋の名前を表示したプレートもなければ案内板もない。地図なしではどこが何の部屋か区別がつかないだろう。

「ええと、入口から見て右手が東棟、左手が西棟か。よし、新宮は内海と一緒に東棟を調べてくれ。俺は西棟をちょっくら調べてくる。十五分後に受付で合流しよう」

 二人の返事も聞かぬまま、落合は暗闇の中へ姿を消した。内海刑事が「大丈夫でしょうか」と心配そうに囁くが、時也はさほど不安視していない。何しろ、二十人規模の暴力団員が集うアジトにたった一人で乗り込んで、組織を壊滅に追い込んだという武勇伝を持つ男なのだ。

 院内地図によると、二人が見回る東棟には外科や内科、眼科、産婦人科など一通りの診療科室が並んでいる。入口から入って右側の廊下から反時計回りに進むと、東棟と西棟の境界になる部屋――地図には〈北棟〉と書かれている――には循環器科が設置されていた。落合巡査部長が向かった西棟は、先ほど偵察した調理場のほかにリハビリテーション室やCT、MRIなどを行う検査室、緊急外来棟へつながる通路などがあるようだ。

「この前、先輩が音を聞いたというのは一階でしたよね」

「ああ。といっても、俺が一階にいるときに上の階から音が聞こえたんだ。すっかり伽藍洞の建物だからちょっとした音でもほかの階に響くんだろう」

「地図によれば、二階は手術室があるフロアですね」

「まさか、幽霊が手術を受けているわけもないだろうが」

 時也なりに場の空気を和らげようとしたつもりだったが、女刑事は「そうですね」と素っ気ない。二人は黙り込んだまま各診察室を次々と検める。しかし、どの部屋にも人が潜んでいる様子はなく、また犯罪の痕跡も発見されなかった。

「落合部長、まだ来ていませんね」

 約束の十五分後に受付カウンターへ戻ると、そこにパーマ刑事の姿はなかった。周囲は完全な闇に覆われ、二人分の懐中電灯のライトではいささか頼りない。遠くで聞こえる人の悲鳴めいた音は、割れた窓から隙間風でも吹き込んでいるのだろう。

「連絡してみますか」

 西棟へ続く廊下にライトを当てる内海。時也は一瞬だけ思案してから、

「いや、もう少し待ってみよう。あの人のことだ、捜索に集中していて時間を確認し忘れているだけかもしれない」

 言った瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。暗がりの中で時也はにやりと笑い、

「噂をすれば影だよ……西棟のリハビリテーション室に来いだとさ」

 リハビリテーション室は、西側へ伸びる廊下のどん詰まりに位置していた。二人はなるべく足音を響かせないように、地図に従って指示された部屋へ向かう。やがて進行方向を照らすライトが、突き当りのドアの前で立ち尽くすひょろ長い影を捉えた。

「落合部長」

 時也の声に、パーマ頭が振り返った。先ほどまでの威勢はどこへ消し飛んだのか、青白い顔に能面のような表情を浮かべている。すぐに異変を察した時也は、先輩刑事を押しのけるようにしてリハビリ室に飛び込んだ。真っ先に目に入ったのは、部屋の中央に据え置かれた平行棒。足の不自由な患者が歩行訓練をするために使う器具である。

 平行棒には、二本の人間の脚が紐のようなもので固定されている。いわゆる逆さづりの姿勢だ。上半身は床に向かってだらりと伸び、胸あたりに広がったどす黒い染みはすでに凝固しつつある。とうに生気を失った男の顔を、時也はよく知っていた。

 逃走中の森野一裕は、変わり果てた姿で発見された。



「こんな時間に廃虚化した病院で他殺体を見つけるとは……三人そろって肝試しでもしていたのか」

 室内を照らす大型ライトに、スーツ姿の男は顔を顰める。K県警刑事部捜査一課の伍代克之警部補だ。K県警きっての腕利きで、彼が刑事部に異動してから殺人犯の検挙率が倍に増えたというのは本部内でも有名な話である。

「いやあ、俺らもびっくり仰天ですよ。驚きすぎて腰抜かしましたから」

 猛禽類を思わせる眼でギロリと睨みつける伍代刑事に、落合巡査部長は飄々と言ってのける。

「腰を抜かした、か。たしかに異様な形の遺体ではあるな」

 平行棒には、森野一裕がまだ吊られたままだ。臨場した鑑識課の検視官と立ち合いの医師が、遺体を入念に調べている。その会話を聞く限り、森野の死亡推定時刻は今日の午後二時から五時の間。死因は胸部を刃物のようなもので刺されたことによる失血死で、凶器は持ち去られ現場からは見つかっていない。遺体は脚だけでなく両手も体の後ろに回されロープで縛られていたため、自力での脱出はほぼ不可能。さらに、声を上げて救助を呼べないようにするためか遺体は口をガムテープで塞がれていた。そんな状態で、とどめを刺すように胸に刃物を突き立てられ――今際の森野の心情は、想像を絶すると言うほかない。

 現場のリハビリ室には、森野や警察関係者以外の人物と思しき足跡が複数残されていた。だが、長らく心霊スポット化した建物ならば、肝試し目的の輩が侵入していたとしても不思議ではなく、足跡から犯人を特定する方法は合理的ではない。しかしながら、足跡以外の目ぼしい痕跡は今のところ発見されておらず、この状況では刑事課も早々に現場を引き上げるだろうと時也は睨んでいた。

「なんだかまるで……〈吊るされた男〉みたいですね」

 森野の遺体をじっと眺めていた内海が、ぼそりとこぼす。その言葉を聞き逃さなかった伍代刑事が、元々近い眉と目の距離を一層縮めた。

「なんだ、その〈吊るされた男〉って」

「タロットカードにあるカードの名前です。タロットカードは大アルカナと小アルカナという二種類のカードにわかれていて、二十二枚の大アルカナにはそれぞれ名前がつけられているんです」

「その中に、〈吊るされた男〉というカードがあるのか。まったく、女は星座やらタロットカードやらの占いに妙に詳しいな」

 侮蔑的な笑みをつくる伍代に、内海はむっとした表情をするも言い返すことはしない。時也はすかさずフォローに回り、

「ですが、彼女の指摘は案外いい線を突いているかもしれませんよ。そもそも、単純な怨恨や物取りの犯行ならこんな辺鄙な場所を選びませんし、誰かが遺体を見つけると確信していなければあんな意味ありげな見せ方はしないはずです。あの遺体の形は、犯人からのメッセージなのかもしれません」

 落合刑事が渋い顔で、時也を肘で突く。刑事部相手にあまりベラベラ喋るな――そう言っているのだ。時也は一度思考の沼に嵌ると、後先考えず口から言葉が飛び出してしまうことがある。はっとして伍代刑事を見ると、唇を指でなぞりながら考えに耽っているようだった。

「まあ、ここは殺人課の刑事さんたちの舞台でしょうから、我々が口出しすることじゃない。神聖な現場を荒らす前に俺らは退散するとしよう。な」

 パーマ刑事が時也と内海の肩を叩き、退却を促す。遺体発見までの経緯は、初動捜査を担当した別の刑事に一通り話していた。もちろん、公安課が現在進行で進めているオペレーション内容、そして十五年前のことや美濃病院の過去など彼らが掌握している情報は伏せたままで、だ。

「そうだな。ハムの連中にいつまでも居座ってもらっては捜査の邪魔だ。どうせそちらはそちらで追っている案件があるのだろう。さっさと立ち去れ」

 伍代は時也らに手の甲を見せて蠅を追い払うような仕草をする。後ろ髪を引かれる思いで現場を後にした三人は、東海林警部に一報を入れてから湾岸区に向けて車を走らせた。運転席の落合も後部座席の内海も口を閉ざし、車内は重い沈黙に包まれる。

 三人が県警本部に戻ると、田端警部補が小会議室で待機していた。森野の件はすでに耳に入っているのだろう、「お疲れさまです」の一言にはすべてを察したニュアンスが滲んでいる。

「この一週間で、立て続けに三人か……さすがに俺たちも立つ瀬がないな」

 小会議室のパイプ椅子にどかっと腰を下ろし、落合巡査部長は低く唸る。眼鏡の警部補は自販機で調達した缶コーヒーを配り歩きながら、

「まあ、二人目の犠牲者である老人については僕らでは防ぎようがありませんでしたが」

「いや。刺青の組織が森野の逃亡計画を企てるより前に彼を保護していれば、老人の自爆による誘導作戦も実行しなかったはずです。俺らの読みが浅かったことは否定できません」

 辛辣な評価を下す時也に、田端刑事は珍しく「そうでしょうか」と言葉を返す。

「そもそも、森野が星座の刺繍入りコースターを二人に見せたというだけで彼と組織を関連付けるのは無理な話です。仮に森野が組織の一員で味方の情報を公安に売ったとして、組織はどうやってその事実を把握したのでしょう。森野自ら口を滑らせたとは考えにくいですし」

「でも、森野の遺体はタロットカードの〈吊るされた男〉そっくりに逆さづりにされていました。〈吊るされた男〉は、キリストを裏切ったユダに例えられます。もし、森野の遺体が〈吊るされた男〉を真似ているのだとすれば」

 内海巡査長の推測を、冷静沈着な警部補はやんわりと遮る。

「仮にそうだとしても、僕たちの手持ちのカードから森野を組織の裏切者と割り出すことは困難ですよ。それに、もし我々が先回りして森野を拘束したとしましょう。それを組織が知ったとすれば、彼らはさらに過激的な行動に出る恐れもある。文字通り自爆行為さえ厭わない連中です。下手をすれば森野の身柄がある留置所を爆破する……なんて凶行に出ないとも限らない」

 言葉を詰まらせる女刑事に、眼鏡の警部補は缶コーヒーを手渡す。

「我々の詰めが甘かった部分もあるかもしれません。ですが、今さらそれをとやかく言ったところで仕方がないですよ」

「田端の言う通りだ。過ぎたことをごちゃごちゃ混ぜっ返しても何にも始まらない。とりあえず、今は刑事部からの情報を待つのみだ」

 落合刑事が勢いよく椅子から立ち上がったのと同時に、会議室の扉が静かに開く。集まった四人の姿を認めた東海林警部は、

「まったく、とんだ一日だったな」

 珍しくネクタイの結び目を緩めながら、大股で部屋に入る。すかさず缶コーヒーを差し出した警部補に「ありがとう」と短く礼を言ってから、プルタブを開け一気に缶を呷った。

「単刀直入に言おう。森野の遺体から、星座のシンボルマークと思われる刺青が見つかった」

 内海がはっと息を呑む。「ほんとかよ補佐」と、落合刑事が大声を上げた。

「ああ。右足の裏側、ふくらはぎの少し下あたりにな。波線を二本並べたような形なんだが」

「水瓶座のマークですね」

 間髪入れず指摘した時也に、警部は無言で頷く。田端警部補は腕組みをして、

「これで、刺青の意味が判っているのは四人ですね。牡羊座の大男、乙女座の女子大生、射手座の老人、そして水瓶座の森野一裕」

「まだ半分以上も残っているのかよ」パーマ刑事がうんざりした声で吐き捨てる。「全員の刺青が判る前にみんな自爆しちまうんじゃねえのか」

「縁起でもないことを言わないでください」と、眉根を寄せる女刑事。空になった缶をテーブルに置いたボスは、

「今回の件で、森野一裕が刺青の組織の一員であると判明した意味は大きい。友枝が森野と頻繁に接触していたことから、友枝殺害に組織が一枚噛んでいる可能性が出てきた。それから、小林誠和不動産内部に森野以外の組織メンバーが潜んでいる可能性もだ」

 険しい顔で顎髭を撫でる東海林警部に、内海が「あの」と声を上げる。

「森野一裕の部屋、私に調べさせてください。組織に繋がる手がかりがあるかもしれません」

「それは構わんが……捜一がすでに捜索に入っているだろうから、大した物は残っていないかもしれんぞ」

「承知の上です。でも、自分の目で確かめておきたいんです。森野がああなってしまったことの責任の一端は、私にもありますから」

 唇を噛みしめる内海に、ボスは静かに頷く。

「捜一には話を通しておこう。明日にでも森野のマンションに向かってくれ」

「了解です」

「それから内海、森野の遺体が発見された美濃病院だが叩けば出る埃がありそうだ。十五年前の事件も含めて徹底的に洗いなおしてみてくれないか」

「判りました」

「三人は今までの作業を継続だ。新宮は小林誠和での情報収集、田端は詐欺事件の捜査、落合は堂珍仁および周辺人物の鑑取りを頼む――組織のメンバーを含めて、これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない。言うまでもなかろうが、気を引き締めて作業にあたってくれ」

 ネクタイを締めなおすボスに、四人は力強く頷き返した。

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