第16話 ある老人の死
時也が〈立浜みなとフロンティア〉で一色乙葉を行確している頃、K県警本部に一本の緊急無線が飛び込んだ。森野一裕に張り付いていた内海班の刑事からである。時刻は、午後一時三十九分。
『――湾岸区新山上一丁目十三の一にて爆破事件発生。香澄橋の上にて炎上、爆破直前に老人一名が橋の上を歩行しておりPM一名が安否を確認中。至急応援求む、どうぞ』
爆破現場は、森野のマンションから目と鼻の先にある小さな橋の上。発生場所が住宅街でかつ白昼の出来事であったために、あっという間に近隣住民が橋の周辺を取り囲みてんやわんやの大騒ぎだ。森野宅を張っていた公安課の刑事二名が野次馬整理をしている間に、消防隊とパトカーが到着。辺りは一時喧騒の渦に包まれた。
小林誠和本店前で張り込んでいた内海明日夏巡査長は、もしやと直感し慌てて爆破現場へ車を走らせた。橋上はすでに鎮火されていたものの、規制テープの内側では消防隊や警察の火災調査班が、外側では目撃者への聞き込みをする刑事が慌ただしく動き回っていて車での通り抜けは困難だ。内海は回り道をして、森野が住むマンション〈グレスコート立浜本町〉の前に警察車両を停める。女刑事の悪い予感は的中した。一二〇八号はもぬけの殻で、森野一裕の姿はどこにもなかったのだ。
マンション担当の刑事と合流し周辺を捜索するも、結果は空振り。休日出勤もしておらず、何度電話をかけても一切繋がらない。森野一裕は忽然と姿を消してしまったのである。
公安課を動揺させたのはそれだけではない。同日の夕方、東海林警部は部下たちをある場所に呼び出した――立浜市香賀町警察署の地下にある、遺体安置室だ。青白い電灯が点滅する空間で、ボスの険しい顔が四人を出迎えた。
「すでにお前たちの中でも共有されているだろうが、本件には体の一部に刺青を入れた集団が関与していると考えられる。その刺青の集団だが、いよいよ警察に対して真っ向勝負を挑んできたようだ」
安置棚にかかっていた白い布が、ゆっくり捲られる。遺体は、香澄橋での爆破により死亡した老人だった。火傷の痕が広範囲に及び、見るに堪えない有様だ。それでも、下半身は上半身に比べて比較的損傷が少なく、膝から下に至っては皺の一つ一つや微妙に変形した足の指までつぶさに観察できるほどである。
「もしかしてこの遺体、爆破物を直接身につけていたんですか?」
田端警部補の指摘に対するボスの返事は、「どうやらそうらしい」だった。
「遺体に付着していた爆弾の原料と思しき物質を分析したところ、微量の硝酸アンモニウムと軽油が検出された。硝酸アンモニウムは爆薬の主原料の一種で、海外ではテロ事件でもたびたび使用されてきた薬品だ」
「硝酸アンモニウムなら、民間人でも比較的入手しやすいですからね。国内では消費者向けの販売を段階的に制限してはいますが、裏ルートを使えば規制の網を潜ることは容易い」
腕組みをする警部補の表情は厳しい。反社会的組織によるテロの可能性がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。
「肝心の爆発物は爆破の衝撃で木っ端微塵らしく、解析は絶望的だそうだ。だが、香澄橋の下を流れる川からリモコンが発見された」
「老人がリモコンを操作して、自らを爆破したということですか」
「おそらくな。現場を見ていた刑事によれば爆破の威力は小規模だったということだから、せいぜい人間ひとりを吹き飛ばす程度のものだったのだろう」
遺体の下半身を検分していた時也は、左太腿に滲む痣のような痕を指す。
「これ、刺青ではないですか。入れてから相当の時間が経っているのか輪郭がぼやけていますが」
「射手座……の刺青ですね。この矢印に横線を加えたような形、星座のシンボルマークにあります」
捜査当初から刺青に人一倍の関心を寄せていた内海巡査長が、真っ先に反応する。白布で再び遺体を覆った時也は、
「これで、面が割れている刺青のメンバーは三人か」
「三人? 小林誠和を出入りしていたこめかみに刺青の男と、この老人だけじゃないのか」
眉根を寄せる東海林警部に、時也は時也は小さく頷く。
「実は、体の一部に刺青を入れた女子大生について情報を得ているんです。この数日、彼女を行確しているのですが……これを見てください」
時也がスマホの画面に表示させたのは、一色乙葉が喫茶〈repos〉に立ち寄ったときの様子を撮影した映像だ。再生を始めてからすぐ、内海刑事が「あっ」と短い叫び声を上げる。
「この店、森野一裕も行っていました」
「森野が?」
動画を一時停止した時也に、女刑事が「はい」と力強く頷き返す。
「間違いありません。これ、西港区のプロムナード通りにある〈repos〉って店ですよね。たしか、私が森野浩二の事故のことを調べていた日だから……十五日です。行確を代わってもらった捜査員の撮影記録に、店で過ごす森野が映っていました」
「十五日ということは、俺が彼女の行確を始める前日か」
考え込む時也に、「で、肝心の動画の中身は」とパーマ刑事が急かす。再生された動画は、三分少し経った場面で再び一時停止された。時也が指で拡大した画面に、女子大生がティーカップを口に運ぶ瞬間がアップで映し出される。
「そういえばこの店、客ごとに柄の違うコーヒーカップを出すお洒落なサービスがあるって以前テレビで話題になっていましたね」
内海のコメントに、「まさにそのコーヒーカップが問題なんだ」と指摘する。一色乙葉に出されたカップには、黄金色の麦穂がデザインされていた。バラや鮮やかな花々に彩られたカップもある中では、比較的地味な装飾かもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。
「この麦穂の柄が、どうかしましたか」
「内海に言われた星座の話が、ずっと頭にひっかかっていたんだ。小林誠和を出入りしていた男も今回の女子大生も、刺青の形はどちらかというとアルファベットで考えたほうがそれらしく見える。しかし、このコーヒーカップで確信した。あの刺青は、やはり星座をモチーフにしたものだ」
古代ギリシア語で麦の穂を意味する〈スピカ〉は、乙女座を構成する恒星の中で最も明るいα星の固有名詞である。そして、乙女座のシンボルマークはアルファベットの〈m〉と似た形だ。
「単なる偶然といってしまえばそれまでだが、俺にはあのカップのデザインがたまたまとはどうしても思えなくてな」
「ちょっと待てよ。もしコーヒーカップが意図的に出されたものだとすれば、ここのスタッフも刺青集団とグルの可能性が出てくるじゃねえか」
落合刑事の指摘に、眼鏡の警部補が「それだけではありません」と続ける。
「彼女が足繫く通う店に森野一裕が訪れていた……となると、二人が接触していた可能性も出てきます」
「この店が、組織の密会場所になっているってことか」
「確証はまだありませんが、一つの可能性としてこの店を注意しておいたほうが良いでしょうね。彼らがハムの監視にまだ気付いておらず、今後もコンタクトポイントとして利用するかもしれません」
「補佐、〈repos〉専用の監視役として捜査員を配置すべきと考えます」
田端の言葉を受けて、時也はボスに提言する。四人の刑事をまとめるリーダーは険しい顔をしながら、
「そうだな……これから本庁に戻り次第、捜査員の調整をしよう。ただし、今の話はまだ何の裏付けも取れておらずまったくの仮説にすぎない。店のスタッフにまで監視をつけるとかえって警戒心を招く虞があることから、監視は店の開店時間内のみとする」
ありがとうございます、と時也は一礼する。ボスは老人の遺体を見下ろしながら、
「対象が組織の一員か否かは、体のどこかに刻まれた刺青が判断材料だ。それを肉眼で確認できるまでは、先走った捜査で連中の思うつぼにならないよう注意しなければならない。爆破現場からは遺体の身元が判るような遺留品は見つかっていないが、この老人がどこの誰なのか既に他の捜査班が身元確認作業に当たっている。俺たちの班は今までの捜査を継続だ。ただし、どの班も刺青を入れた人物についての情報を掴んだらすぐに共有すること。少しでも疑わしい人物が浮上したら必ず報告するんだ。確証がないからといって単独で動くことのないように」
いつになく低い声で告げ、東海林警部は安置室を出た。その後に落合巡査部長、内海巡査長、田端警部補が続く。
最後に扉を閉めようとした時也は、ふとその手を止めて隙間から室内を覗きこんだ。安置室の中央にひっそりと横たわる名前さえ判らない亡骸に、呼び止められたような気がしたのだ。
「――まさか、な」
短く息を吐き、扉を閉ざす。鈍く錆びれた音が、薄暗い地下空間に不気味なほど大きく反響した。
「あの老人、知っているかもしれません」
出し抜けに発言した時也を、落合巡査部長は一瞥する。
「知っているって、何を」
「いえ、俺があの老人を知っているかもしれないという意味です」
「顔見知りなのか」
「言葉を交わしたことはありません。すれ違ったという表現が近いでしょうか」
「煮え切らねえな。単刀直入に言ってくれよ」
覆面パトカーのミラーの位置を調整しながら、熟練刑事は後輩を責付く。時也の脳裏に浮かんだのは、一色乙葉を監視していたバラ公園での光景だ。監視初日、園内のベンチで居眠りしていた老人――遺体の顔は黒焦げで人相は判別できなかったが、体形や着衣をどこかで見たことがあると引っかかっていたのだ。
「その公園で眠りこけていた老人が、自爆したあの遺体だったのか?」
「断言はできませんが、もしそうであれば俺たちはかなり不利な状況に追い込まれていますね。こちらの動向が組織側に筒抜けかもしれない」
もし居眠り老人が組織の一員だとすれば、二度目に公園を訪れたとき僅かに位置が変わっていた監視カメラも説明がつく。彼は勘付いていたのだ、時也が組織を追っている人間だと。
「迂闊でした。距離も離れていましたし、カメラを設置する瞬間は見られてないと思っていたのに」
「まあ、まだ確定したわけじゃない。ジジイの背格好なんてだいたい同じだし、公園の老人と爆破した遺体が同一人物という証拠は何もないだろう」
「ですが、それこそが犯人の狙いなのかもしれません。バラ公園の老人とあの遺体が同一であると警察に悟られないように、自爆という一見すると無茶苦茶な方法を選んだ。顔の識別さえできなくなれば、体格や服装なんて大した根拠にはなりません。老人は、森野から公安の監視の目を逸らすためのスケープゴートだったんです」
「判ったわかった、ちょっと落ち着けよ。仮にそうだったとして、解せないのはその方法だ。何だって老人はわざわざそんな危ない橋を渡ったんだ? だってそうだろ、あんな住宅街で爆発騒ぎが起きれば遺体は確実に警察が回収する。そうなれば、遺体は徹底的に調べ上げられ、刺青の存在もすぐ明らかになる。現に俺たちは既に遺体の老人が組織のメンバーではないかと疑っているからな。だが、それは組織にとっては面白くない展開だ。自分たちに繋がる証拠をみすみす警察に引き渡すことになるんだからな」
先輩刑事が突き付けた正論に、時也はぐうの音も出ない。車内に下りた沈黙を破るように、遠くでクラクションが鳴り響いた。
「まあ、お前の仮説も一理あるからな。ただ、補佐が言っていたように早とちりは禁物だぜ」
運転席から頭を小突かれる。子ども扱いされたようで一瞬だけむっとするが、先輩刑事なりの忠告なのだろう。時也は冷静になるために助手席の窓を全開にした。肌を撫でる冷たい風が、過熱した思考をクールダウンさせていく。
「ところで、俺から一つ質問させてくれ――さっきのお前の話だと、組織は森野を公安から逃がすために老人を利用したんだよな。もしその仮説が正しいとすれば、森野は刺青の組織と関係があるってことになるが」
「これはあくまで俺の想像ですが、森野一裕は刺青集団のメンバーかもしれません。まだ仮説の域を出ませんが、仮にそうだとすれば一刻も早く彼を見つけ出す必要があります」
「そりゃ、ここで森野の首根っこを掴むことができれば、組織を一気に引きずり出せるかもしれないからな」
「それ以上に懸念すべきことがあります。組織が意図的に森野を逃がしたのだとすれば、森野はすでに殺されている可能性があります」
「殺されているって、組織にってことか? そりゃまたどうして」
「俺と内海が森野のマンションに行ったとき、彼は星座の刺繍入りのコースターにコーヒーカップを乗せて出しました。あれが、組織のことを俺たちに暗示していたのだとすれば」
「それが仲間にバレて、裏切者として制裁を受けるってことか。けど、森野の部屋には監視カメラの類はなかったんだろ? 森野の行動を仲間はどうやって知ったんだよ」
「判りません。だからあくまで仮説なんです。ですが、森野が刺青集団のメンバーにしろそうでないにしろ、逃げたからには何らかの事情を知っているはずです」
二人を乗せた車が西港区丘野町に突入したとき、ふと時也の脳裏にある場所が浮かんだ。
「落合部長。今から上港区に行ってみませんか」
後輩の唐突な提案に、運転席から「急に何言い出すんだよ」と素っ頓狂な声が上がった。美濃病院跡での一件をまだ誰にも話していなかったことを、今更ながら思い出す。
「実はこの前の月曜日、上港区にある美濃病院跡地に行ったんです」
「美濃病院って、美濃佐吉が経営していたあの美濃総合病院か」
「ええ。落合部長が話していたように幽霊病院の名に相応しい外観でした……ただ、それもあながち大袈裟でもないかもしれませんよ」
訝しむ落合に、病院での一部始終を話して聞かせる。廃墟内を捜索していたとき、何者かの気配を感じたこと。一階の部屋に人が一時的に暮らしている痕跡が見受けられたこと。
「つまり、お前はこう考えているわけだ――誰も寄り付かなくなった廃病院は、犯罪集団が身を隠すには打ってつけの場所だ。実際に調理場を使っている痕跡もあった。もしかすると、刺青の組織が一時的な活動拠点にしているのではないか。そして、そこに森野一裕が転がり込んでいるのではないか、と」
「まさにその通りです」
「けどよ、単に肝試しで侵入したもの好きか廃虚マニアかもしれんぞ。ネット界隈じゃちょっとした有名スポットらしいからな」
「しかし、そうでないという証拠もない。あの病院跡に何もないことが判れば、可能性を一つ潰すことができます。それでいいじゃないですか」
食い下がる後輩刑事に、ようやく折れたらしい。落合は苦笑しながら指を三本立てると、
「判った。ただし三つ条件がある。一つ、俺らが今から美濃病院跡に乗り込むことを内海に連絡すること。あいつは森野担当班だからな。あまり言いたくはないが、刑事は手柄を取ってなんぼの世界だ。あいつの顔も立ててやらんとな。二つ、廃虚内に足を踏み込むのは内海が到着してからだ。それまでは外から様子を窺う。ただし、異常事態の際はこの限りではない。三つ、このことは東海林補佐にも報告する。香賀町署でのボスを見ただろ? これ以上好き勝手行動するとさすがのボスも雷を落とすかもだからな」
先輩の有無を言わせぬ口調に、時也はしぶしぶ条件を呑む。落合巡査部長は満足気に頷くと、アクセルペダルをぐっと踏み込んだ。加速した車はあっという間に西港区を抜ける。黄昏迫る都心の空は青と臙脂色のグラデーションに染まり、一番星がぽつんと浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます