第4話 二人の探偵


 時也はもともと単独行動を好む性分だが、内海巡査長が公安三課に配属されてからは毎回のように彼女とコンビで作業に当たっている。配属から一年が経ったとき、東海林警部に「俺一人で作業させてください」と幾度か掛け合ったが、普段は部下の我儘も柔軟に受け入れる警部がこの頼みだけは頑として首を縦に振らないのだ。理由は定かではないが、作業時間のうち一、二時間は必ず別行動を設けているのは時也のせめてもの抵抗であった。

 車を内海に預け、大通りを左折したところまで見送ってから足早に地下鉄へ向かう。JR線で隣町まで移動し、駅から徒歩十分の場所に目的先があった。灰色のビルの二階、スライド式の窓には〈ニノマエ探偵事務所〉のゴシック体が並んでいる。階段を上がり、左手にある扉をノックもせず開けた。

「いらっしゃいま――あ、時也さんじゃないですか」

 入ってすぐ左手のカウンターから、両耳にピアスをつけた若い男が顔をのぞかせる。軽くパーマをかけた前髪の下で小動物を連想させる丸っこい目が瞬いた。

「ホヅミくん。ニノマエはいるか?」

「所長は来客対応中です。あと十分ほどで終わりそうなんですけど」

 八月一日と書いてホヅミという希少な苗字の彼は、一年前からニノマエ探偵事務所で働き始めた事務員だ。時也は事務所の常連で、いつの間にか「時也さん」と呼ばれるほど慕われるようになっていた。

「じゃあ、下の店で待っていると伝えてくれないか」

「〈プチ・ルポ〉ですね。了解っす」

 右手で敬礼の仕草をし、にこっと笑う。時也はそのまま出入口の扉を閉めかけたが、ふと回れ右をしてカウンターに向き直った。

「ホヅミくん。ここの事務所を管轄している不動産会社、わかるかな」

「契約書を見ればわかると思いますよ。ちょっと待ってくださいね」

 子犬系事務員は、カウンター上でノートパソコンを開く。最近では、不動産契約や就職の採用書類などあらゆる文書の電子化が急速に進んでいて、紙媒体でのデータ保管はめっきり減っているのだ。

「ええと……ああ、ありました。K区富屋町にある小林誠和不動産ですね。契約したのは三年前。担当者は友枝さんという男性です」

 八月一日青年は、友枝雅樹の事件をまだ知らないようだった。時也は「ありがとう」と短く礼を言って事務所を出ると、階段を降りてそのまま一階の喫茶店に入る。白髪と髭の似合うロマンスグレーを絵に描いたような店主がカウンタ―から顔を上げ、時也を一目見るなり店の奥を指差した。「いつもの席が空いていますよ」というサインだ。

 サンドウィッチのプレートを注文し、先に運ばれたコーヒーで一息つく。店主自ら海外の豆を取り寄せ、じっくり時間をかけて焙煎するというこだわりの逸品だ。この一杯ほしさに足を運ぶ常連客も多いという。かく言う時也も、その常連の一人だったりする。

 至福の味を二、三分ほど堪能していると、ドアベルの音が派手に鳴り響いた。急いた足音の主は、時也の席までやってくると断りもなく向かいのソファにどっかり腰かける。

「いい加減に直せよ、アポ取らずに来るクセ」

「緊急の用件だ、宥せ」

「今度からアポなし料取るからな――ああマスター、コーヒーを」

 うなじで結っていた髪を解き、一礼司にのまえれいじは肩まで伸びた前髪を無造作に掻き上げる。

「悪いがこっちも今は山のように仕事抱えているんだ。優先順位はきっちりつけるぜ」

「探偵が目も回る忙しさとは、世も末だな」

「お前みたいなサツがいるからこちとら稼げてんだよ」

 小さく笑い、時也はテーブルに一枚のメモを置く。外部で機密情報のやり取りをするとき、時也はできるだけ口伝を避けていた。たとえ通いなれた店であっても、盗聴や傍受をつい警戒してしまうのは仕事柄だ。

「その特徴を持つ人物や団体について、できる限りの情報がほしい」

 取り上げたメモを見ながら、探偵の男はホルストの〈木星〉を口笛で吹いている。考えを巡らせるときの彼の癖みたいなものだ。

「残念ながら、今の俺から提供できる情報はないな。お前が追っているヤマと関係しているのか」

「まだ何とも。捜査は始まったばかりだ。今はとにかく情報がほしい」

 探偵はメモを時也に返しながら、淹れたてのコーヒーを啜る。

「ちょうどこの前、助手を一人雇ったところなんだ。以前に他の探偵の許で修業していたんだが、雇い主が不運の事故で急逝してな。なかなか筋が良い奴だから彼に調査させよう」

 ニノマエ探偵事務所では、事務員と助手で仕事内容が異なる。去年の夏に八月一日青年を雇う以前は、五年以上も事務所のメンバーは一礼司だけだったのだ。

「お前が助手を取るのは随分久しいな」

「言っただろ。今は仕事が山のようにあるって。猫の手でも借りたいほどなんだよ。ああ、心配は無用だぜ。猫よりずっと役に立つから」

 猫に失礼だなと思いつつも、反論はせず伝票を手に席を立つ。「おい、サンドウィッチ」と背中に投げられた声に、

「朝食がサンドウィッチだったのを忘れてた」

 振り向きもせず会計を済ませ、店を出る。その足で、喫茶店から少し離れたところにある中華料理屋に入った。ちょうど昼休憩の時間帯だからだろう、店内はカウンターの一席をのぞいて満員御礼だ。スーツ姿の客が目立つが、中には土方の格好をした男や事務員らしき女性もちらほら目に留まる。

 手洗い場に近い端の席を確保し、カウンター越しにエビチリを注文した。料理ができるまでの間に午前中に集めた情報を整理しようと、手帳を開いたときだ。左肩を指でトントンと突かれて、ちらと隣に目を向ける。

「大迫?」

「よお、奇遇だな。昼飯時に会うなんて珍しいじゃねえか」

 切れ長の目が人懐っこく垂れさがり、笑った口元から犬歯がちらりとのぞく。目の前に置かれた中華そばの丼はすでに空の状態だ。

「大迫も近くで作業か」

 時也と同じK県警で組織犯罪対策本部に所属している大迫雄大は、「相変わらず慣れねえな、ハムの言葉は」と苦笑いする。

「もしかして小林誠和不動産の事件か」

「ああ。といっても、本店には行っていない。俺は別のところで聞き込みさ――お前も同じヤマなのか」

 時也は「いや」と曖昧に濁す。公安部の捜査法は他部署とは一線を画していて、とにかく秘密主義を徹底している。マスコミや部外者に漏れることは以ての外、のみならず警察内の他部署や極端には警備部内の捜査員同士でさえ、現在誰がどのような捜査をしているのか知らないこともザラだ。理由は公安警察の特殊な捜査内容に起因していて、たとえ細微な情報でさえ手の内から零れてしまえばそれまで積み上げた捜査が水の泡になってしまう、という危険を孕んでいるためであった。

「そうか。こっちはまだ始まったばかりだが、なんかめんどくせえ事件になる予感があるんだよな」

 ふと真顔になった大迫に、時也はにやりと笑う。

「うちに同じことを言っている人がいるよ」

「もしかして寛さん?」

 落合巡査部長は組対時代の大迫の上司であり、時間を見つけては飲み屋を何軒もはしごするほどの酒飲み仲間でもある。

「そうだ。大迫に一つ訊きたいことがあるんだ……この特徴をもつ連中に心当たりはないか」

 先ほど探偵に見せたメモを大迫に渡す。組対部の若きエースはメモを睨みながら、

「マル暴関係か」

「まだ何とも。新手の組織かもしれないが、今は目撃情報の一つとしか言えない。うちのヤマに関わっているかさえ不透明の状態だ」

「ふうん。少なくとも俺は把握していない情報だな」

 時也にメモを突き返し、スーツの尻ポケットをまさぐる。

「ま、どうせ午後には一度本部に戻るからついでに調べてみるわ」

「助かるよ。何かわかったら連絡をくれ」

 気の良い同僚は財布を手に立ち上がり、レジに向かう。同じタイミングで「へい、おまち」という一声とともにエビチリの皿が時也の目の前に置かれた。



 中華店を出ると、再びJRに乗って移動する。海沿いから離れ、立浜市の中心部に近づいたところで下車し徒歩に切り替えた。

 サツは足で稼げ――入庁前は、ドラマや映画の中だけの台詞だと思っていた。警官になってからは耳にタコができるほど聞かされ、それならばと一時期は万歩計で毎日のように努力の足跡を記録していた。だが、どんなに歩数を稼いでも事件を解決し手柄を得なければまさに無駄足。その事実に気付いてからは、日に日に増える万歩計の数字が虚しくなりそのうち辞めてしまった。警察ほど実力と成果主義の業界はない。

 そんなことを考えているうち、伊勢朱雀山神宮あたりまでやってきた。K県のお伊勢さまとも呼ばれ市民に親しまれているこの神社には、別名〈鳳神宮〉の呼称もある。

 その昔、大火災で本殿が燃えたとき、その火災の様子を見ていた住民たちが「朱雀が暴れまわっている」と口々にした。朱雀とは中国の伝説にある神獣で、火の象徴でもある。本殿が焼け落ちた後、朱雀の怒りを鎮めるためにと新たに建設されたのが今の伊勢朱雀山神宮だ。朱雀の外見が翼を広げた鳳凰という説があることから、鳳神宮の通り名がついたのである。ちなみに伊勢朱雀山神宮の神紋は桐紋で、中国では桐は鳳凰が止まる木として知られている。

 ただ、時也は事件解決の祈願に訪れたのではない。伊勢朱雀山神宮を通り過ぎ少し歩いたところで、ようやく目的地である平屋のこぢんまりとした事務所が現れた。〈足立興信所〉の看板がかかった扉をゆっくり押し開けると、右手のカウンターで受付らしい女性がぱっと顔を上げる。

「いらっしゃいませ。ご予約は?」

「先ほどアポを取った新宮だが」

 緩いみつあみを背中に垂らした女性は愛想のよい笑顔を浮かべ、パーテーションの奥を手のひらで示す。出入口からは来客スペースが見えないようになっていた。

 パーテーションで区切られた空間には、大理石のテーブルが一つとテーブルを挟むように本革製のソファが二つ設えている。そのうちの一つ、窓側の一人掛け用ソファに男が坐っていた。テーブルの上で開いているノートパソコンは、先月発売されたばかりの最新モデルだ。

「珍しいな、時也が事前にアポを入れるなんて」

 パソコンの画面から顔を上げ、事務所の主である足立衛は柔和に微笑んだ。つぶらな瞳と垂れた目元、薄く艶のある唇が三十代とは思えぬ若々しい印象を与える。彼に会う度、「こいつは高校生のときから歳をとっていないんじゃないのか」と疑念に思うほどだ。

「アポを取らないと次から金をとる、って釘を刺されたばかりなんだ」

「そりゃいいや。徴収できる人からはがっぽり頂かないと」

 満面の笑みを浮かべる高校来の友人に軽く舌打ちをし、二人がけのソファに腰を下ろす。

「国の治安維持に尽力している功労者から金をむしり取るなんて、野蛮な奴だ。まるでシャイロックだな」

「誰だってお金は欲しいだろ。それに、僕は高利貸しなんてやってないし。まあ、仮にやっていたとしても学生来の付き合いだからって友人割はしないけどね」

「お前からは絶対借りてやらねえよ……無駄口はこれくらいにして、ある企業の信用調査をしてほしい。K区富屋町にある小林誠和不動産だ」

「もしかして、不動産の社員殺しの事件?」

「知っているのか」

「新聞に載っていたしテレビのニュースでもやっていたよ。あまり大々的な報道ではなかったけれど。小林誠和不動産といえば企業向けの物件が多いだろ? 実は一度内見したことがあるんだ」

「小林誠和の物件をか」

「うん。でも僕の好みじゃなくってね。どちらかといえば貸ビルとか貸倉庫を豊富にそろえている」

「店を持ちたい客にも物件を勧めていると聞いたが」

「あれはほんの一部だ。あそこは金持ちの客に優しくて貧乏者には冷たいのさ。一人で店を出そうっていう人間はまず相手にしていないよ。賃料だけじゃない、敷金や礼金もべらぼうに高いんだ。まさにシャイロックだよ」

 他人に対して良くも悪くも正直で容赦のない評価を下す、そんな性格も昔のままだ。

「小林誠和に興信所の調査が入ったことはないのか」

「僕のところではないけど、同業者にも訊いてみようか」

「よろしく頼む」

「ほかに知りたいことは?」

「ない。とりあえず、小林誠和に関する全面的な信用調査を頼む。反社勢力とのつながり、従業員の経歴、取引先との関係、できることをすべてだ」

「随分と注文をつけてくれたね。さっきも言ったけど友人割引はしないから」

「ケチな友人だ」

 冗談を飛ばし、席を立つ。二時の集合まで時間が押していたため、旧友との雑談に花を咲かせる余裕はない。礼もそこそこに事務所を出て、立浜駅で内海と合流したのは約束の時間ギリギリだった。

 

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