中途半端な作品

森本 晃次

第1話 懐かしの大学時代

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年七月時点のものです。それ以降は未来のお話です。



 時代は昭和の終わり頃のこと、笠原修二は、地元の私立大学であるK大学の法学部に入学した。高校時代は男子校だったこともあって、彼女もおらず、大学受験に猛進していた。

 と言っても、入学試打K大学というと、別に名門というわけでもなく、地元の人たちには知名度はあるが、ちょっと県を跨げば、

「そんな大学聞いたことないわ」

 と言われるほどのところであった。

 K大学があるH県は、海に面した南部に居住権が集中していて、海から程遠くないところに山脈が横たわっていることもあって、山脈の裏側までは、なかなか発展する様子もなかった。

 ただ、昭和も五十年代くらいから、山脈の裏側にもトンネルが開通したり、地下鉄の工事をしていたりと、近代化が進みつつあった。都心部には団地やマンションが溢れていて、住みにくくなったという発想から、

「少々通勤に時間が掛かっても、田舎であっても、一軒家を持ちたい」

 というサラリーマンが増えてきて、郊外が開けてきたのだった。

 それまでは、海を中心に開けてきた。埋め立てによる人工島の建設により、工場や流通センターの拠点がそちらに移ったりしていたのだが、船での輸送であれば、港でもいいのだが、近郊の都市に配達などというと、高速道路のインターチェンジなどが近くにないと、不便であった。

 高速道路は、太平洋側と日本海側を結ぶ中盤くらいに位置しているので、港からではとてもではないが、配送が行きつかない。しかも、高速道路に行くまでに、市内の混むところを通行しなければならず、ラッシュ時などは、とてもではないが、配送ができるはずもなかった。

 山間部に配送センターを設けるというのは、柳津関係の企業の悲願でもあった。

 そのためには、山間部に住宅を整備し、街に通勤するよりも、センター通勤の方がいいという人を増やすことが急務でもあった。

 配送センター建設と同時に、分譲住宅の整備を行うことで、都会から人を呼ぶという計画なのだ。

 マンションができて配送センターができるとなると、当然、学校、郵便、警察、役所などと様々な施設が集まってくる。

 そこに大型商業施設が入れば、立派な街として成立するのだろうが、当時はまだ大型商業施設という考えは少数派であった。

 三階建てくらいのスーパーでもできれば、

「大型スーパー」

 と言われた時代、スーパーの中に、ブティックやレストラン、雑貨店などの専門店が入るというのは実に画期的なことで、当時の大型スーパーとして台頭してきたところでもなければ、そんな大型商業施設を作るだけの余力はなかった。

 だが、時代はちょうど、バブルの時代。事業拡大が正義であり、今でいうブラック企業も当時は当たり前だった。

 しかし、毎日終電で帰るというほどの残業をしても、当時は残業手当をそのままもらえた時代、基本給よりも、残業代の方が遥かに多いというような生活をしていれば、少々無理をしても、体力的に問題なければ、大丈夫だったのだ。

 そんな時代を今の人たちは知らない。

「毎日終電なんて、そんなのコンプライアンス違反で、上司がさせているのであれば、パワハラだ」

 と言われることであろう。

 当時はハラスメントなどという言葉もなく、流行語に、

「二十四時間戦えますか?」

 というのがあったくらいである。

 そんな時代の大学生というと、大学をまるでレジャーセンターのような気持ちになってしまうことが往々にしてあった。

「あれだけ、入学前は、人に流されることなく、勉強に勤しもう」

 と思っていたにも関わらず、大学に入ってしまうと、当然のごとくできた友達に引っ張られるように、遊びやサークルに没頭するようになった。

 もちろん、友達を言い訳にしているだけなので、何を言っても説得力はないのだが、い意味でも悪い意味でも、何かに集中することができて、そしてそれを自分で楽しいと思える時期だったこともあって、遊びであってもサークルであっても、バイトさえも、楽しいと思っていたのだ。

 さすがにバイトにはきついものもあり、特に夏の炎天下での肉体労働や、販売応援などのバイトは身体をかなり酷使したものであったが、それでも相対的には楽しかったと思っている。

 サークルも、充実していた。

 最初からどのサークルに入るかということを決めていなかったので、キャンバス内の通路に所せましと並べられた簡易ブースを通り抜ける中での勧誘が結構激しかった。

 ここでどのサークルにするか、皆悩みどころであったが、まさか、ここで自分の将来が決まってしまうなどと思ってもいなかった選択をすることになったのが、笠原だったのだ。

 最初に入ろうと思った理由は、正直褒められるものではなかった。先輩の女性に、気になる人がいたからで、一目惚れだったと言ってもいいだろう。

 高校時代は男子校だったので、女性と付き合うということは、知り合うということがない時点で、諦めるしかなかった。二年生も中盤に差し掛かると、受験勉強を始めなければいけなくなり、そうなると、彼女は大学生になるまでお預けということになるのだった。

 大学に入ると、皆眩しく見えてくる。だが、声を掛ける勇気もなければ、声をかけてみようという相手もいないような気がした。笠原が高校時代に気になっていた女の子は、毎日の通勤電車で見かける子で、いつも一人で吊革に手をかけて、片方の手で本を読んでいた。三つ編みにしたその髪型が昭和の終わりという時代であっても、少し古い感覚を思わせたが、それが却って新鮮に見えたのだ。しかも、セーラー服。ドキドキ感が止まらなかった。

 大学に入って診る、女性のカラフルな私服も悪くはないが、高校時代にできなかった恋愛というものへの思いが、そのままセーラー服に代表される学生服に、多大なる思いを抱かせていた。

「コスプレで、女学生の制服が大好きになる人の気持ちが分かる気がする」

 と思っていた。

 他人事のように聞こえるが、実際にはコスプレというものは嫌いだった。

 コスプレの制服の中には、アニメや特撮での衣装もあったりする。笠原は、そういう制服は嫌いだった。

「表だけ女学生でも、中身は成熟した女性であったり、逆に小学生という、本当のロリコンであったりするのは、正統派制服好きにとっては、邪道に感じる」

 と思っていたのだ。

 ロリコンと呼ばれるのは、笠原にとって嫌ではなかったが、特撮ヒロインやアニメキャラのような制服をきた小学生という、まだ女として開花していない女の子を自分の制服が好きな制服を着せる対象としては、見ることができないのであった。

 いわゆる「ヲタク」と呼ばれる人種なのだろうが、昭和末期のその頃は、まだヲタクなる言葉は浸透していなかった。いや、実際には自分が知らないだけで、一部秋葉原などの地域で呼ばれていたのだが、首都圏から離れていると、なかなか聞くこともなかったのだ。

 大学時代当時は、ディスコブームであり、学園祭だけではなく、その他大学のイベントとして、

「ダンパ」

 と呼ばれるものがあった。

 ダンスパーティの略であり、ソーシャルダンスではなく、ディスコ音楽を基調とした、ディスコを再現したものだったのだ。

 笠原の大学時代のディスコ―ブームは、扇子を振り回し、チャイナドレスっぽいボディコンファッションなどが流行る前のもので、ディスコブームの先駆けであった。

 歓楽街には、ディスコという施設があり、そこでは、なぜか、

「女性同伴でなければ、入場不可」

 という不可思議なルールが存在していた。

 ただ、実際にディスコブームというのは、微妙に形を変えながら、昭和五十年頃から、受け継がれてきている。ディスコという言葉がある程度聞かれなくなり、

「クラブ」

 というものに、変わっていったのであろう。

 やはり最盛期というと、

「ワンレンボディコン」

 などと呼ばれたいわゆる、

「イケイケ」

 という時代で、これがバブルの象徴と言われる、平成初期のことであった。

「お立ち台」

 なるものが存在し、その上で数人のボディコン女性が、「ジュリ扇」と呼ばれるおのを振り回していた時代である。

 今から思えば懐かしいが、あっという間に駆け抜けた時代だったという記憶しかない。

 何しろ、その時代は社会人になって数年という、会社では第一線で活躍する時代で、前述の、

「二十四時間戦えますか?」

 という時代だったのだ。

 確かに大学一年生、二年生くらいの頃は、洋楽も聞いていたし、ディスコで流れてくる音楽を聴くだけで、ワクワクしたものだった。

 当時はカセットによるポータブルラジカセが流行っていた時代。ポケットに入れて、ヘッドホンで聞いたものだった。

 ポータブルラジカセが発売された当時は、テクノポップなどが流行っていたので、ヘッドホンから漏れ聞こえるハイテンポなテクノサウンドにも、ワクワクしていたのが思い出された。

 そんな時代を懐かしく思うのだが、大学三年生くらいになってくると、次第に落ち着いてくる。

 人によっては、

「成人式を迎えた時、あるいは二十歳になった時、どちらかで、自分の意識が変わった気がするな」

 という人が多かったような気がしたが、

「俺の場合は、年齢というよりも、三年生になった時に、我に返ったような気がした」

 と、笠原は思っていた。

 なぜなら、二年生までの素行のつけが回ってきたというのか、三年生になった時点で、相当数の単位を残してしまった。

 友達と比較しても、相当なもので、二年生の間に取得しておく平均の単位数の、三分の二くらいしか種痘できていなかった。

「三年生で相当頑張らないと、留年を覚悟しないといけない」

 と言われたほどで、三年生では、真面目に講義も受けて、遊ぶという感覚を一度リセットしなければいけなくなった。

 今から思えばこれが、、自分の転機だったのかも知れない。

 勉強はもちろんだが、大学に来ているので、サークルには力を入れた。

 文芸サークルに入ったきっかけとなったのは、好みの女性がいたからだということは前述に書いておいたが、彼女には彼氏がいることが分かり、すぐに自分の中で挫折した。

「サークルを辞めようか?」

 とまで考えたが、結局辞めることはなかった。

 その理由としては、そのサークルでは機関誌を発行していて、自分の作品も載せてもらえるということが、実に新鮮だったのだ。

 確かに、好きな女性に惹かれるようにしての入部が一番の理由だったが、入部してしまうと、機関誌のおかげで入部の覚悟が決まったと思うほどに、自分の中で大きな存在だった。

 だから、彼女に彼氏がいると分かっても、簡単に辞めることはしなかった。もし機関誌というものがなければ、簡単に辞めていただろう。

 年に三度の発行であったが、テーマは文芸に関することであれば、何でもよかった。絶対に部員であれば、何かを投稿しなければいけないということもなく、表現したいものがなければ、掲載を義務付けているものではなかった。

 しかし、せっかくの機会なので投稿しないのは、部に所属している意味はないと思っていた笠原は、卒業するまで掲載し続けたのだ。

 小説、シナリオ、エッセイ、詩歌、俳句はもちろん、文芸と言いながら、マンガであってもいいということで、かなりのふり幅だった。

 実際にマンガを描く人も多く、マンガ研究会は、他人のマンガを研究するサークルであり、創作サークルではなかったので、自分たちの文芸サークルに入部してくるのは、将来のクリエーターを目指す人たちであった。

 元々笠原は、中学時代に国語の授業で作った俳句が褒められたことがあった記憶が強かった。

作文などは苦手であり、なかなか書けるものではなかった。

 四百字詰め原稿用紙、二枚分を書くのに四苦八苦し、自分でも何を書いたのか理解不能というくらいのものであった。

 そんな自分が文芸サークルに入るなんておかしいと思われるかも知れないが、小学生の頃から、

「モノを作るのが好きだ」

 という自負があったことが強かった。

 小学生の頃は、木工細工に打ち込んでいた。ちょうど日曜細工という番組が放送されていて、それを結構好きで見ていたし、

「俺もあんな風に作れるようになればいいな」

 ということで、家の勝手口のところを勝手に、創作室と称して、土曜日の半ドンを利用して、学校から帰ってきて、昼食を食べた後には二時間から三時間、木工細工に明け暮れたものだった。

 昭和五十年代というと、

「週休二日制」

 などという言葉は、会社にすらなく、学校は土曜日、半ドンで帰るというのが当たり前だったのだ。

「半ドン」

 などという言葉も、今では死語になっていることであろうが、その当時は、土曜日に昼までで学校が終わりというのは、画期的な気がしているくらいだった。

 ただ、木工細工に明け暮れてはいたが、なかなか満足のいくものを完成させたことはない。そのうちに、

「半ドンの午後を趣味として楽しむ」

 ということに意義があるという風に思うようになって行ってしまったのだ。

 それはそれで悪いことではない。

 完成するかどうかは二の次で、集中して自分の中に自分の時間を作ることができるのが、嬉しかったのだ。

 中学に入ると、木工細工はしなくなり、何か一つのことを集中してすることはなくなってしまった。受験勉強の時は、それほど集中する時間が苦痛に感じなかったのは、小学生時代の日曜大工が影響していたのかも知れない。

 中学高校時代は、今魔ら思い出そうとしても、何も浮かんでこない。

 大学時代の、一、二年の頃の感覚も覚えているが、むしろ、三年生以降の方が意識としては強かっただろう。

 三年生で勉強が追い詰められた時の記憶が実際に残っていて、そのせいか、今でも卒業できないという夢を見て、ビックリして目を覚ますことがある。

 大学は八年間しか行けず、八年で卒業できなければ、退学と同等となり、中退となってしまうだろう。

 そんなことは分かっていたが、何とか四年で卒業しないと、学費の問題もあった。頑張って卒業するために勉強も必死にやったが、それと並行してのサークル活動は、結構楽しかった気がする。

 三年生になると。今度は卒業が見えてきた連中は、大学にあまり来なくなる。アルバイトを真剣にやったり、ここから真剣に遊びをやろうという人が多かった。

「俺がやり方を間違えたのか?」

 と思わせるほどだったが、大学入学の際に思っていたことをすっかり忘れてしまったのがそもそもの間違いだったのだろう。

「大学に入ったら、人に惑わされることなく、勉強しよう」

 と思っていたはずだった。

 何よりも、

「人に惑わされず」

 というところが大切だったのに、完全に惑わされてしまった。

 人まねの怖さを思い知ったとでもいおうか、人と同じことをしていても、心構えが違えば、自分だけが置いて行かれるのである。そのことをまったく意識していなかったのが、自分の敗因だと感じた。

 ただ、時すでに遅く。勉強を余儀なくされたことは、自分を極度に情けないと思わせるという自虐に走ってしまう。もし、サークル活動に活路を見出すことがなければ、勉強をする気力もうせてしまっていて、最悪、

「八年で卒業できるだろうか?」

 という考えてはいけない思うに至っていたかも知れない。

 その思いが、今になって夢に出てくる。あの感覚だった。

「本当に四年で卒業できるのだろうか?」

 この思いは大きかったのだ。

 夢というのは、結構大げさだったりする。それだけトラウマが残っているからなのだろうが、すでに夢の中であっても、卒業しているという意識があるのに、自分の中で、

「来週から試験だということを忘れていた」

 と、いうことが頭をよぎると、その瞬間、まだ学生だという意識の舞台が夢の中で出来上がってしまうのだ。

 そう思うと、テストがあるにも関わらず、勉強しようにも資料がない。今からであれば、ほとんどの教科のノートを入手するのは困難だ。今から言って、手配させてくれるような友達もいない。なぜなら、皆単位を取得しているので、すでに授業に出ていないからだ。

 四面楚歌に陥ってしまい、気が付けば何もできないまま試験期間は終わってしまっている。そんな状態でやっと目が覚めるのだった。

 身体から汗が噴き出しているのが分かる、目が覚めた瞬間、

「よかった」

 と思う。

 明らかに学生時代の夢で、自分が卒業できなかったという結末を描いていたことを感じた。

「夢が途中で終わったわけではなく、最後まで見ているはずなのに、最後まで見たという意識を自分に残したくない一心で、忘れることに全神経を集中させているのだろう」

 と思うのだった。

 だが実際には、キチンと四年で卒業できた。しかも、三年生でだいぶ単位を取ることはできたが、さすがに、四年生でもかなり厳しいだけの単位を残してしまった。

 就職活動をしながら、学校の授業も受けなければいけないというのも結構きつかった。しかも頭の中で、

「もし、内定が貰えたとしても、卒業できなければ、内定も取り消しになって、来年さらに就職活動をする時、不利になったりはしないだろうか?」

 ということが頭に残ってしまい、就職活動も卒業に向けての勉強も、どちらも中途半端になっているのではないかと思うのだった。

 そんな三年生、四年生を過ごしたのだったが、意外と充実していたような気がした。ただ。まわりに置いて行かれている感覚はハンパではなく、結構きつかった。

「二年生の時に、人に惑わされずに勉強していれば」

 と思ったが、後の祭りだった。

 無事に卒業できて、就職活動もうまくいったが、何が正解だったのか、今でも分かっていない。

 大学生活というのは、誰が見ても、楽しいものだということを否定するつもりはないが、やはり大学に行っただけの何かを自分で理由づけできなければ、ダメだと宇と思った。

 大学生活において、少しでも後悔があったとすれば、その後悔はなるべくその後の人生に引きずることがなければ、それに越したことはない。

 夢を見てしまうというのは、まだ引きずっている証拠なのだろうか?

 笠原は、卒業できたことで自信もついたような気がする。就職した会社は出版会社で、文芸部に所属していたことで、本関係に携われる仕事ということで、出版社を狙い撃ちで就職活動に勤しんだ。

 当然自分の成績で、有名出版社などありえるわけはないが、何とか、地元の情報発信の出版社に入社することとなった。

 ちょうど、その頃から地元のいろいろな情報を発信するという雑誌が全国でも流行り始めた頃だった。ガイドブックと、今でいう食べログのようなものが一緒になったような雑誌で、当時としては画期的だった。

 まだネットどころか、パソコン自体がほとんど普及していない時代、活字になった本が主流だったのは間違いない。綺麗な写真と一緒に紹介される記事は、月刊誌であるが、結構な売り上げだっただろう。

 そのちょっと後くらいからであろうか、夕方の番組が地元情報やニュースをお届けするという番組が流行り出した。昭和であれば、

「地元を強調するのは、それだけ田舎な証拠だ」

 と言われていたのだろうが、次第に地元産業の復興であったり、Uターン就職などという言葉で、地元企業に、都会から帰った優秀な人材を獲得できるようにしようとする努力が勧められていた。

 そんな地元中心のあっせん番組が、二十代から三十代前半は嫌いだった。

「まるで自分たちを田舎者だと自虐しているようで、嫌だ」

 と考えていたからだ。

 だが、地元の出版社に入ればそんなことはいっていられない。就職できただけでもよかったのだから、文句を言ってはいられない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る