第7話 不安定な現状
部屋に戻れば、お盆に乗せられて朝食が用意されていた。
「早う座れ。飯が食えぬ」
「あ、ああ」
律義に待っていてくれていた晴明に返事をし、雪緒は晴明の対面に置かれたお盆の前に座る。
食前の挨拶をしてから、朝餉を食べる。
朝食を食べながら、雪緒は目を覚ます前の事を考える。
起き抜けは夢かとも思ったけれど、もしかしたら夢では無いのかもしれないと思い始める。
あれが夢なのであれば、雪緒は此処で眠っていただけという事になる。
けれど、現状と同じく、夢の中でも雪緒の感覚は正しく現実を捉えていた。夢と間違うような、曖昧な状態では無かった。
それに、夢というには、細部を鮮明に憶えているし、夢だと判断するのであれば平安に居る現状の方が正しくだろう。
現代と平安。どちらの自分が本物か分からないなんて、まるで胡蝶の夢だ。
「はぁ……」
考えまいとしているのに、色々な事を考えてしまう。
また現代に戻れるのか。
現代の自分はどうなっているのか。
この訳の分からない状況が、どうやったら解決するのか。
思わず溜息を吐いてしまうのも、無理からぬ事だろう。
だが、晴明はそれを良しとはしなかった。
不機嫌そうに眉を寄せて雪緒を見る。
「辛気臭い顔をするな。飯が不味くなる」
「……悪かったよ」
晴明の言葉に、雪緒も不機嫌そうに答える。
辛気臭い顔をするなと言われても、何の解決手段も持たないまま渦中に迷い込んでしまった雪緒としては、次から次へと問題と不安が溢れ出してしまうのだ。その増えていく不安と問題すらも、解決の糸口が無いのだから、溜息の一つくらい許してくれても良いだろうと思ってしまう。
反抗的な雪緒の態度が気に食わないのか、晴明は更に不機嫌そうにする。
一触即発ではないにしろ、明らかに空気が悪くなったのを見かねた冬が、苦笑を浮かべながら晴明に言う。
「ひとまず、分かっている事だけでも教えて差し上げてはいかがですか?」
「え、何か分かってるのか?!」
冬の言葉に、思わず声が大きくなってしまう。
そんな雪緒に煩わしそうな顔を向けながらも、晴明は答える。
「ああ。だが、私が分かっている事は少なく、そこから導き出される推論も正確では――」
「何でもいい! 分かってる事が在るなら教えてくれ!」
晴明の言葉を遮って言えば、晴明は疲れたように息を吐いてから言葉を返す。
「飯の後だ。静かに、ゆっくり、行儀よく、飯を食った後に話そう。良いな?」
「いや、俺は――」
「良いな?」
食べながらでも問題無いと答えようとした雪緒に、今度は晴明が言葉を被せる。
その声は静かながらも確かに圧が在り、有無を言わさぬ強さがあった。
「……分かった」
渋々、雪緒は頷く。
静かに、ゆっくり、行儀よく、雪緒は朝餉を食べる。
静かに朝餉を終えた後、お盆を片付ける冬を尻目に、雪緒は晴明に問う。
「それで、分かってる事ってなんなんだ?」
雪緒がそう問えば、晴明はゆっくりとお茶を飲んだ後に答える。
「其方が寝てから、其方の身体から魂が抜けた」
「魂が……? え、それってどういう……」
「言葉通りの意味だ。其方の身体から魂が抜けたのだ」
言って、のんびりとお茶を飲む晴明に、雪緒は慌てて詰め寄る。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! た、魂が抜けたんだろ?! 大丈夫なのか俺!?」
「大丈夫なのだろうな。現に、今其方はこうして私の前に居るのだから」
「んな結果論な……」
「私とて初めての事なのだ。其方に何が起こるかなど分かりかねるよ」
実に冷静に言葉を返す晴明。
晴明にとって雪緒の生死はさほど問題にはならない。平安に寄こしてしまった事に多少の罪悪感は在るけれど、一晩寝てしまえば忘れてしまう程度の罪悪感だ。
魂が抜けたところで、どうだって良い。雪緒の状況に興味は在るけれど、興味以上の関心は無い。
だからこそ、こうして落ち着いて説明をしている。
「恐らくだが、其方の身体は今とても不安定な状態にある」
「不安定な状態……?」
「ああ。其方、雷に打たれたと言うておったな?」
「あ、ああ……」
薄っすらとだけど、気を失う直前の事は憶えている。
確かに、轟音と共に身体に衝撃が走った。
「其方が雷に打たれたのが全ての原因であろう。其方の身体は、雷に打たれた事で肉体と魂に分離してしまった。其方はその時点で、幽体となったのであろうな」
肉体と魂が分離したと言うことは、おそらくは幽体離脱の事だろう。
「そして、なんの因果か、この時代に幽体のみで送られた。が……」
言って、晴明は詰め寄って来た雪緒の頬に黒塗りの扇子を押し付ける。
「触れば感触がある。幽体を何か簡易的な器で保護しておるのかもしれぬな」
「ってことは、俺って幽霊みたいなもんなのか……?」
「いや、おそらく式鬼に近い。そう考えれば、私が其方を召喚出来た理由にもある程度の説明がつく。まぁ、荒神や神霊とは程遠いがな」
「俺も自分が超常の者になった自覚はねぇよ……」
言いながら、雪緒は晴明の扇子ぐりぐりから逃れるために後ろ向きに戻っていく。
「其方の魂は平安から其方の時代に戻り、またこちらに戻って来た。と、私は考えている」
「じゃあ、俺はこれからも俺の時代とこっちを行き来するって訳か?」
「おそらくは、そうなるだろう」
「なんつう壮大な二重生活だよ……」
事の大きさに、雪緒は思わず頭を抱える。
現代と平安。時間を超えての二重生活なんて誰が想像できようか。
「まあ、行き来できるとも限らんがな。片方に行ったきり戻れぬやもしれぬ。この状態がいつまで続くかも分からぬからな」
「おい急に怖い事言うなよ……」
「その可能性も視野に入れておけという話だ。万事、最悪を想定しておいて損は無い」
「最悪、ね……」
人生、予測不可能な最悪が訪れる場合もある。それは、雪緒も身をもって知っている。
「まぁ、全ては推論だ。今はまだ、話半分に憶えておればよい」
「分かった」
ともあれ、推論でも在るのと無いのとでは大きく違う。それに、自分では推論すら導き出せなかった。口は悪く、態度も冷たい晴明だけれど、頼りになる人物だと改めて感じた。
「……そういや、俺の状態で他におかしなところってあるのか?」
曲がりなりにも雷に打たれたのだ。現代では健康になんら問題は無かったものの、それ以外のところで問題が発生している可能性も在る。
そう考えて晴明に問えば、晴明は扇でとんとんと膝を打ちながら答える。
「そうさな。おそらくだが、霊体になったことで、霊や妖怪変化、まぁ、言うなれば怪異の類と近しくはなっただろうな」
「怪異と?」
「ああ。簡単な霊視なら出来るようになるのではないか?」
「それって幽霊が見えるようになるって事か?」
「霊に限らず、妖怪変化も見る事が出来るだろうな」
「あー……それなら、俺はもう出来るな。一応、霊感があるみたいでさ。幽霊とかは見えるんだ。まぁ、妖怪とかには会った事無いけど……」
言いながら、雪緒は冬に視線を向ける。
妖怪とは違うかもしれないけれど、冬は晴明の式鬼だ。幽霊以外の霊的存在に会ったと数えても良いだろう。土蜘蛛はしっかりとした妖怪なので、会った数としてしっかり数えられるけれど。
「そうか。であれば、特にこれといった変化は無いだろうな。それよりも其方、簡単な霊の退治の方法は知っておるか? 見えていても、身を護れなくては意味があるまい?」
「まぁ、一応は」
弱い霊であれば平手打ちや蹴りなどで追い払う事が出来る。いつからかは分からないけれど、それが出来るようになっていた。だから、ちょっかいを掛けてくる霊が居たら、そうして追い払っていた。後は、声を張り上げて恫喝したり、見えていても気付かないふりをしてやり過ごしたりしていた。
「弱い霊とかは大丈夫だと思う。ただ、強い霊とかはもう逃げるしか出来ないな」
何回か、本能的に危険を察知した霊にも会った事がある。その時は必死にその場から逃げたり、気付かないふりをしてやり過ごした。その時ばかりは、かなり肝を冷やしたのを憶えてる。
「ふうむ。そうか……」
一つ思案してから、晴明はおもむろに懐から人型の紙を取り出す。それは、昨日見せて貰ったのと同じ紙だ。しかし一点だけ違うところがあり、今晴明が取り出した紙の中心部には、昨日取り出した紙にはあった赤黒い点が無い。
「これは式札だ。式札には召喚の媒介として術者の血を必要とする。指を出せ」
「あ、ああ」
言われるがままに、雪緒は人差し指を晴明に差し出す。
「いつっ……!」
躊躇う事無く、晴明は雪緒の指にいつの間にか持っていた針を刺す。
「刺すなら刺すって言ってくれよ……!」
「血が必要と言った後に何故刺されないと思うたのだ?」
「刺す前に言ってくれって意味だ!」
「この程度、さほど痛くも無かろうに。
言いながら、晴明は式札の中心部、丁度人間で言えば心臓に当たる部分に雪緒の血を滲ませる。
「これで良い。さて、この式札を持って『式神招来』と唱えよ。それだけで式鬼を召喚する事が出来る」
「え、そんなに簡単に?」
「簡単に、では無い。私が見るに、其方には幾分か素質がある。素質の無い者には、式札もただの紙切れだ」
雪緒は自分が特別ではない事を知っている。少し特殊ではあるけれど、決して特別ではない。身の程は、弁えているのだ。
「……多分、俺は召喚できないと思うぞ……?」
「そんなもの、やってみなくては分かるまい。別段、失敗したところで問題もあるまいよ。まぁ、いざとなればあれを貸し出せば良いだけだしな」
あれが何を指しているのか少しだけ気になったけれど、確かに、やるだけやってみれば良い。失敗したところで死ぬわけではない。
そう、死ぬわけでは無いのだ。また、身の程を知るだけだ。
「分かった……」
式札を手に持ち、昨日、晴明がしていたように式札を投げる。
「式神招来」
駄目元だった。けれど、雪緒の予想に反して式札はみるみる内に形を変えた
。
紙に厚みが出来、それが立体的になり、最終的に一人の小さな少女を作り上げた。
「お呼びでござりまするか、主殿!」
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