人生近道クーポン券 3 (シングルファーザー)
帆尊歩
第1話 シングルファーザー
「おはよう」朝の挨拶だけは何があろうと、することにしている。
娘の彩花がオレに、おはようと言ったことはない。
大抵は無視。
たまに反応しても、汚い物でも見るように、蔑んだ視線を送ってくるだけだ。
高校に入ったころは、仕事の前に無理をして弁当を作ったが、捨てられたことは一度や二度ではなく、作ることも止めてしまった。
妻は、彩花が小学校を卒業する年に、男を作って出ていってしまった。
離婚届けがテーブルに置いてあった。
妻は決して良い母親ではなく、彩花のためにもならないと思ったし、何より男と逃げるのだ。子供がいては邪魔以外の何者でもない。
彩花と二人きりになった夜、オレは彩花を抱きしめて、これからはパパと生きていこうなと言って泣いた。
彩花は何が起こったか分らないように、だまってオレを見つめた。
この子のためなら、全てを捨ててもいい。全力で守ろうと心に誓った。
ところが、それがこの有様だ。
別に感謝しろとは言わない。
でもまるきり無視というのは。
この年頃の娘なんてこんな物だろう。
と、同僚や上司には言われた。
でもどうしても払拭されない思い、彩花を許せない。
こんなにやっているのに。無償の愛と言うが、ここまでされると。
「二十二、三歳になれば、そんなことがあったことも忘れて、けろっとするさ。うちもそうだった。今十七歳だろう。あと四、五年の我慢だよ。
うちも娘に言われたよ。あの頃のあたしはどうかしていたよって。悪びれた様子もなく言われたよ。
とは言っても、オレの心の中には、言い知れぬ思いが渦巻いた。
「お困りのようですな」
「えっ」ふり向いたオレの前に痩せぎすで、みすぼらしいオヤジが立っていた。
「あんた誰だ。どこから入って来た」
「わたし、どこにでも入れるんです。ああ、申し遅れました。わたし、こういう物です」と名刺を出してきた。死に神とある。
「死に神?」
「はい。お困りのようなので、本日はこのクーポン券をお持ちいたしました」
「クーポン券?」
「はい、人生近道クーポンです」
「なんだそれ」
「これからあなたは、あの心を開かない娘さんと、ずっと生きて行くおつもりですか」
「いや、まあ」
「もちろん嬉しいことや、楽しいこともあるでしょう。でも死に神の私から言わせれば人生なんて一寸先は闇、苦しいことの連続です。死ぬ間際に、良い人生だったなんて言えるのはほんの一握り」
「いや、もっといるだろう」
「いえいえ、そいう人は負け惜しみです。辛いことの連続を正当化しているだけ。どのみち人間なんて死ぬまでしか生きられないんですから、つらいことなんて感じないで最後の時を迎えたいと思いませんか」
「どういうクーポン」
「こちらのクーポンを使えば、あなたはご臨終の一ヶ月前にジャンプします。その間の辛いことは感じず、人生を終了できます。娘さんのあの状態がたとえ終わったとしても、嫌な思いは残り、永遠に引きずる。いかがですか。このクーポンを使えば、もちろん対価は頂きますが、死後の魂だけなので、いかがですか」と言って、死に神はクーポンを手渡した。
私は不覚にも、五分も悩んでしまった。
彩花が改心して、可愛い娘に変わるかもしれない。
イヤそれはないな。
まあ、会話の少ない親子になる程度だろう。
でもその場合でも、この無視され続けた記憶は残る。
それは後悔にならないか。
ならばいっそ。
「いかがです。心安い人生を送ってみませんか。見返りは死後にいただく魂だけ」
「いや、いい」そう言って私は、クーポン券を破り捨てた。
「ああー、後悔しますよ」と言って、死に神は消えた。
目が覚めた。
ここは病院だ。
私は無数の管につながれている。
昨日余命一ヶ月といわれた。
だからあんな夢を見たのか。
すっかり忘れていた四十年弱前の話だ。
あの時、死に神のクーポンを使っていたら、あの時から、この瞬間にジャンプしたと言うことか。
あれから彩花は家出した。
高校も辞めてしまった。
悪い仲間と付き合い、何でも有りだった。
薬物で逮捕されたのは、私が知っているだけで四回、堕胎も二回。
三人目の子供は、虐待死させてしまった。
十年近く刑務所に入り、出てきてからもまともではない。
そこまで行くと心配をするとかしないではなく、完全な諦めの境地だ。
二十二、三歳になったら落ち着くどころか、絵に描いたような転落人生だ。
これは人には言えない気持ちだ。
あろうことか、彩花の転落人生が嬉しかった。
いい気味だ。
私を無視し続けた、報いだくらいに思えた。
大嫌いな娘。
そう、転落して行く彩花の姿を心配するどころか、ざまあみろという思いになったのは、いつしか彩花のことが嫌いになっていたからだろう。
余命一ヶ月の死の床でも、彩花はどこにいるのか分らない。
もしかすると、どこかで、野たれ死んでいるかもしれない。
人の、それも実の娘の不幸で心安らかになる。
こんなことあってはならないことなのに、私は心安らかに死んでいけそうだ。
人生近道クーポン券 3 (シングルファーザー) 帆尊歩 @hosonayumu
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