人生近道クーポン券 2 (シングルマザー)

帆尊歩

第1話  シングルマザー

スマホのバイブが鳴る。

保育園からだ。

仕事場には持ち込まないことになっているから、私はトイレの振りをして席を立つ。

「はい、お世話になっています。そうですか。でも今すぐというわけには。ああ、そうですね。はい、分りました。出来るだけ早く迎えに行きます」

保育園で娘の彩花が熱を出した。

今日は朝から少しだけ熱っぽかったけれど、預けないわけにはいかなかった。

午前の会議は終わったから、仕事は目処が付いたけれど、今月はもう二回早上がりしている。

でも保育園は他の子供にうつして、責任問題になりたくない。

迎えに行くしかない。

コンプライアンスがあるから、帰らせないというわけにはいかないので、帰れないことはない。

でも印象は良くない。

それはひしひしと感じる。

娘の彩花はすぐに熱を出す。

でも働かなければ、保育園の費用はおろか、食べることも出来ない。

家賃も掛かる。

離婚のとき、養育費は一括でもらえた。でも元旦那の収入は多くはなく、彩花が高校に上がるときのお金として、絶対に手をつけないと心に誓った。

何度手をつけそうになったことか。

その度に将来を考えた。

正直、その日その日で精一杯だけれど、唯一の聖域だった。

彩花を連れて帰ると、けろっとしていた。

「彩花、お熱は?」

「ごめんね、寂しくてママと夕ご飯食べたくて」

「嘘なの」

「ごめんなさい」

「彩花。ママがいったいどういう気持ちで、彩花を迎えに行ったと思っているの」

怒りにまかせて、彩花を叩いてしまった。

「彩花が泣き出す」

彩花の寂しさをどうにも出来ない不甲斐なさ、彩花を叩いた罪悪感、そしてこれからの不安、全てが一緒になって私も泣いた。

もうすぐ三十なのに。


「お困りの用ですね」

「えっ」

「驚かせてすみません、私こういう物です」と言って、出した名刺には死に神と書かれていた。

極限状態では唐突な死に神の出現も、たいしたことないらしい。

驚くほど冷静だった。

「本日はこれを」と出してきた紙には、人生近道クーポン券と書かれていた。

「何ですか、これ。クーポン券?」

「はい、人生近道クーポンです」

「何ですかそれ」

「これからあなたは、様々な人生を歩む。辛いこと、悲しいこと、死ぬほど苦しいこと、這いつくばって、砂をかむような思いをすること」

「救いようがない、少しは楽しいことだって」

「もちろん嬉しいことや、楽しいこともあるでしょう。でも死に神の私から言わせれば人生なんて一寸先は闇、苦しいことの連続です、死ぬ間際に、良い人生だったなんて言えるのはほんの一握り。でもこちらのクーポンを使えば、あなたはご臨終の一ヶ月前にジャンプします。それまでの辛いことは感じず人生を終了できます」

「えっ」

「一人でお子さんを育てるのは大変でしょう。これからお金だって掛かってくる。

子供なんて、親の有り難みなんかこれっぽっちも感じません。苦しみから解き放たれてください。もちろん対価は頂きます。亡くなってからの魂を頂ければ、それで結構」

私は考えた。こんな小さな彩花に手を上げてしまう。そんな母親なんて、何より自分が辛い。

私は段々嫌な女になってゆく。

私は、泣き疲れて眠ってしまった彩花を見た。

「どうですか。クーポン使いませんか?」


「いえ、使いません」私は、から元気を出して、断った。

「良いんですか。後悔しても知りませんよ。あとになって、やっぱりは聞きませんからね」

「たとえこの判断を後悔したとしても、死に神とは契約しません。」そう言って私はクーポン券を破った。



私の命はあと一ヶ月らしい。

体中の管で身動き出来ないけれど、そういえば昔、死に神と契約しそうになった。

あの時、死ぬ一ヶ月前と言っていたから、今だ。あの時から今にジャンプするってこと。

冗談じゃない。私はあの時クーポン券を破った自分を褒めてあげたい。

あれから彩花とは二人で生きてきたけれど、確かに辛いことも多かった。

でもその何倍も、彩花からは幸せをもらった。

「お母さん、具合どお」彩花が顔を出した。

でも彩花もおばさんになっちゃった。

あんなに、可愛い子だったのに。

今、孫のお腹に赤ちゃんがいる。

ひ孫の顔が見たいというのは贅沢かしらね。

いろんなことがあった。

「彩花」

「何、お母さん」

「ありがとうね」

「何言っているのよ。気弱にならないでよ、あたしこそ、育ててくれて、本当にありがとう。お母さんがどれほど苦労したか知っているよ。本当にありがとう」

「うん、ありがとう」人生近道クーポンなんか使わなくて良かった。

魂なんかやるものですか。

あれから、辛くて三回後悔したことがあった。

でもこれは絶対に誰にも言わない、私だけの秘密。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人生近道クーポン券 2 (シングルマザー) 帆尊歩 @hosonayumu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ