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「「「「…………」」」」
私たちは無言で、舞台が始まるのを待っていました。
客席は三十席ほどだったでしょうか。とにかく私たちの他は、まばらに数名の観客が、椅子に背をもたれさせ開始を待っているだけでした。ですが、客席は暗くて、それ以上の他の観客の詳しい様子までは分かりませんでした。
一方の舞台には幕はなく、開始前から明るい照明で照らし出されています。背景の緞帳はわずかに緑がかった青で、雲の絵が描かれています。夕空をイメージしているのかもしれないと、私は思いました。逆にその照明の明るさで、舞台の裾や天井は暗闇に隠れています。また舞台と客席の間には、観客の胸ぐらいの高さに合わせて、薄く広い、水盤が張られています。どうやらこれは鏡の役割を果たしているようで、舞台上の光と背景の青い空と雲を、わずかに暗い色で映し出していました。
やがて、レコードの音楽がかかります。舞台が始まる合図のようでした。
ことさらに派手な燕尾服を身につけた男性が、開始を宣言します。
「紳士淑女の皆様、長らくお待たせしました。
これより皆様にお目にかけますは、
あの天に見えます月からやってきた、
類い希なる、麗しき白銀の薔薇。
ロザモンド嬢です!」
そうして、私は彼女を見たのです。
舞台の上方から降りてきたのは、作り物の月のブランコです。銀色に塗られていて、それを吊り下げるロープには、これまた銀色をした薔薇の造花が絡み付いています。その中央に座る彼女も、銀色の衣装を身に纏っていました。
バレリーナのような格好といえば、そのときの彼女の衣装をイメージしやすいでしょうか。サテン地の衣装に、短いスカートはオーガンジーでしょうか、舞台の照明に透けています、そうしてストッキングを履いた長い脚を、観客の方へとさらけ出しています。
実際、それは大変に長い脚でした、私たち少女よりも、それどころか、案内役の男性よりも、室内にいた客の男性の誰よりも長く、また腕も首も、人並み外れて長かったのです。おそらく二メートル近い、あるいはそれ以上の身長だったのではないかと思います。
もし皆さんが、現代の人々の感覚で彼女を見たら、バランスが悪いとか、その長すぎる手足が健康な美しさを損なっていると思われるかもしれません。ですが、そのときの私には、彼女は本当に美しく見えました。『長い首の聖母』という、マニエリスムの絵画をご存じでしょうか? リアルな表現を超えて長く描かれた聖母マリアの首が、一種の強烈な美的感覚をもって見る人の心に訴えかけます。彼女もそのように見えました。髪は銀髪で、肌も白く、化粧を通しても雀斑が浮いているのがうっすらと見えます。まるで、本当に冷たい月の世界の住人がこの地球に降り立ち、その熱に耐えかねているかのような、そんな肌をしていました。
「月は地球よりも重力が小さいので、住人たちはみな、こんな風に背が高くなります。そんな月の住人の一人だったロザモンド嬢が、どうしてこの地球に降り立ったのか。本人の口から歌われるその歌を、どうぞ皆様お聞きください!」
案内役はそんな風に口上を述べます。
そして、彼女は歌い始めました。
私が見たのは、その人の顔
月明かりに濡れる、その涙
その涙と心に誘われ
我を忘れ、私は家を後にする
ただあなたの側にいるため。
レコードから響くバイオリンの頼りない音色に合わせて、細く、甘い歌声で彼女は歌っていました。
それが、私と彼女の邂逅でした。
それ以来、私は彼女、ロザモンド嬢に心を奪われたようになったのです。
級友たちはそれっきり、見世物小屋の界隈に興味を示すこともなければ、また行ってみようと提案することもありませんでしたが、私は違いました。その後も何度か、ロザモンド嬢の演し物を見るために、あの界隈に足を踏み入れることがあったのです。とはいえ私の両親は厳しかったので、実際に彼女の舞台を見ることができたのは、それから三度しかなかったのです。
しかし、しばらくすると彼女の一座は町を去ってしまったのか、ロザモンド嬢の演し物が見世物小屋で上演されることはなくなりました。
私は、翌年も、その翌年も、彼女の舞台がこの町に戻ってくることを待ちわびていました。ですが、それが戻ってくることはありませんでした。
彼女に再会できたのは、それから実に、三年が経った後のことでした。
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