第8話

 一人で、予定よりも随分早く帰ってきた私に、ルーシーは驚いた顔をした。


「お一人ですか?会頭は?」

「…知らない」


 私の思い詰めた表情に何かを察したのだろう、それ以上追求することなく、着替えを手伝ってくれる。そして、ドレスの中に忘れ物がないかを確認して、ポケットにハンカチが入ったままなのに気付いたようだ。


「これ……」

「……もう要らなくなったの。捨てておいてくれる?」

「そんな……」


 ハンカチを受けとる気力もなくて、ルーシーに頼むと、ルーシーは一瞬絶句したものの、ぎゅっとハンカチを握ってこう言った。


「不要でしたら、私に頂けませんか?」

「……そんなものでよければ、どうぞ」


 ルーシーにはすごくお世話になっている。御礼にするには不吉だし、不格好だけど、それでもいいなら貰ってほしい。私自身は、あのハンカチはもう見たくないし、自分で処分することもしたくない。

 ルーシーは私の返事に頷くと、綺麗に畳んで、自分のお仕着せの中にしまった。


(早く帰らないと…アルフレッドが帰ってくる前に)


 ルーシーが馬車を呼んでくれるというのを首を振って断る。今は一刻も早く家へ帰りたい。のろのろと、出入り口の方へ歩き出す。心配そうに後ろからルーシーがついてきてくれるが、構う余裕がない。


(ごめんね、ルーシー。ありがとう)


 外に出て、ルーシーが見えなくなるところまで歩いて、立ち止まる。

 先程は我慢した涙を、今度は心のままに流す。

 立っていられなくて、子供みたいにしゃがみ込む。

 こんなんじゃダメだ、アルフレッドが戻ってくる前に、家まで帰りつかないと。

 …きっと彼は優しいから、探しに来てしまう。

 今の私は、冷静じゃない。きっと彼にひどいことを言ってしまう。


「リビィ!」


(あぁ、ダメだ)


 アルフレッドに追いつかれてしまったようだ。きっと私が帰ってから、そう時間が立たないうちに戻ってきたのだろう。荒い息を吐くアルフレッドに、後ろからギュッと抱きしめられる。


「心配した。急にいなくなるから」


 アルフレッドの体は、びっくりするほど熱かった。


「放して」


 自分から出た声は固く尖っていて、それでも、震える涙声でなかったことに安堵する。


「嫌だ」

「わがまま言わないで」


 アルフレッドは私の首筋に顔を押し付けるようにする。


「だって、また、僕に相談もせず諦めようとしてる」

「婚約者が決まったんでしょう?私とはもう終わりじゃない…」

「候補です。別に決まったわけじゃない」


 アルフレッドの言葉に、私は激しく首を振る。

 そうじゃない。そうじゃないのよ。


「もう、無理よ。私、あなたの婚約者候補が現れるたびにこんな風に心を揺らされるの?……そんなの、耐えられない」


 私の様子にアルフレッドも語気を荒くする。

 顔を覗き込んでこようとしたので、慌てて精一杯顔を逸らす。


「ねぇ、顔を見せて。お願いです、話を聞いてください。僕が側にいたいのは、好きなのはあなただけです」


 私の顔を両手で挟み込んで、アルフレッドは真剣な顔でそう言うけど、でも。


「そんなの今だけよ。私は何も持ってないのよ。若さも、資産も、権力も」

「そんなものが欲しくて僕はあなたを選んだわけじゃない」


 間髪入れずに否定してくれるアルフレッドの言葉に少し喜んでいる浅ましい自分。そして気づく。途方もなくアルフレッドを愛していることに。


(あぁ、どうして諦められると思っていたんだろう)


 ――――こんなにも、この人が好きなのに。


 目を閉じて、少しだけ震える声でアルフレッドに問いかける。


「あなた言ったじゃない、一旦先のことを考えずに、お付き合いを始めようって」

「はい」

「それで、私がどんどんあなたの事が大切になって、あなたの横を離れられなくなったらどうするつもり?好きにさせるだけ好きにさせて、いらなくなったら棄てるの?」


 思っていることを言いきって、ゆっくりと目を開ける。

 今度はアルフレッドが一度ぎゅっと目をつぶって、ゆっくりと目を開けて言う。


「そんなわけないでしょう?そうやって、あなたが絆されてくれたら万々歳だ。……僕は、それくらい必死なんです」


 アルフレッドの強すぎる視線に、訳も分からず苦笑しながら、子供のように首を振る。


「無理、無理よ…」


 アルフレッドは、私の両手を取って、祈るように組み合わせ、自分の額につける。そして請うように言った。


「ねぇリビィ。家族を守るために、命すら惜しくないと言った、その10分の1で良い。僕との未来のために、あがいてはもらえませんか?二人で生きる明日を、簡単に切り捨てないでもらえませんか?」


 私は何も言えなくなって、そのまま沈黙が落ちる。二人の息遣いだけが聞こえる、静かな夜だ。

 しばらくして、沈黙がどうにも気まずくて、私は悔し紛れに言う。


「あなたって、すごく私の事好きなのね」


 呆れたように言うと、アルフレッドはふふんと笑って。


「やっと自覚してもらえました?」


 私は悔しくなって、さらにアルフレッドを問い詰める。


「いつから私の事好きなの?」


 そう言うと、アルフレッドは少し罰が悪そうな顔になって視線をそらす。

 おや、っと思って顔を覗き込む。

 アルフレッドは観念するように大きく息を吐いた。


「……学園で初めて会ったあの日から、僕はあなたの事しか見てませんよ」

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