第一章:大連(四)

 声の主は神経質そうな顔の若い軍人だった。軍服は満洲国軍のものではなく、日本陸軍のもの。階級章からすると、憲兵隊の少尉だ。更に、その後方には、愛嬌の有る風貌の太り気味の憲兵隊の軍曹の階級章を付けた軍人が居た。

 山口は、両手を上げて、ゆっくり立上る。

「子供は放してもらえんかの?」

「君達の態度次第だ。この男から何か預っていれば、出してもらおう」

 山口は木村の方に首を向ける。

「おい、こん人ん連れから預かったモンが有ったじゃろ、よ出して、この軍人さんに渡してくれ」

「えっ?」

「ほら、中島なかじまとか云うおっちゃんが君に預けとったじゃろ」

「ちょっと待って下さい、中島なかじまさん、って誰ですか?」

「えっ? 中島なかじまって偽名じゃったとか? 道理で何かおかしかと……」

 山口と木村の間で噛み合わない会話が交される

「もういい、その大男が持ってるんだな」

 憲兵少尉は、そう云うと木村に近付く。

「ところで、憲兵さん、これ、何じゃと思うね?」

 山口が憲兵少尉の背後から声をかけた。

「なに、貴様が持ってい……えっ⁉」

 次の瞬間、山口は憲兵少尉の右の手首の少し下を掴む。

「いててて……」

 憲兵少尉は情け無い悲鳴を上げると、持っていた拳銃を落した。

「おい、田村軍曹、助けてく……あぎゃぁ〜ッ‼」

「ところで、軍曹さん。あんたが下手に動くと、こん人の金玉ば潰すぞ」

「仕方無いですなぁ……。『少尉は任務中にソ連か支那の工作員とおぼしき者達を追跡中、勇敢に戦われ、名誉の戦死を遂げられた』と上には報告しておきます」

「待て、何を言って……」

「おい、みんな伏せろ‼」

 山口が慌てたように叫ぶ。続いて、同じ意味らしき事を、中国語・朝鮮語で叫んだ。

 しかし、山口が叫び終る前に、軍曹は拳銃を撃つ。

「馬鹿‼ 何を考えている⁉」

「いやいや、面倒な後始末は、どうせ小官がやりますので、お気になさらず。あ、今のは威嚇でしたが、次は当てますから」

 憲兵少尉と軍曹は噛み合わない会話を交す。

 辺りの者達は、ほとんどが、地面にしゃがむか、通りの奥の方に逃げ始めていた。

「ナントカに刃物どころか、ナントカに拳銃か……どうする?」

 義一は山口にそう言った。

「あんブタ野郎の気ば逸らせれば……」

 軍曹は拳銃を構えたまま悠然と山口たちに近付いて来た。

「はいはい、皆さん、動かないで……。動いたら、射殺しますよ」

 軍曹は、おどけた調子で、そう言いながら、ゆっくりと歩を進める。

 だが、その時、軍曹の顔に何かが当った。

「えっ?」

 野菜の切れ端。続いて、何かの食べ残し。

 投げたのは回族らしい服装の少年だった。

「小僧、ちょっと待て……おい……」

 軍曹は、その場の空気が一瞬にして変った事に気付いたようだった。

 群集は、逃げるのではなく、少しづつ軍曹に向かって進んでいく。

「おい、兵隊さん」

 木村はこっそりと逃げようとしていた憲兵少尉の首根っこを掴むと、そう言った。

「どっちだ?」

「どっちだ?」

 首根っこを捕まれた少尉と、木村と目が合った軍曹は、同時に聞いた。

「両方じゃッ‼」

 次の瞬間、憲兵少尉の体が宙を舞った。

「ん? うわぁぁぁぁ〜ッ‼」

「少尉殿、けて下……」

 憲兵少尉と軍曹の体は激突した。

「あんデブチンの気を逸らせば良かとですか、先輩?」

 木村は山口にそう言った。

「いや、これで十分じゃ……」

 屋台街は服装も民族も言葉もバラバラな者達の歓声で満たされた。木村は、その歓声に答えるように、そして「本当の英雄はこいつだ」とでも言うように、両手で回族の少年を高く抱き上げる。

 一方、憲兵少尉と軍曹は地面に倒れ込んでいた。

「いててて……なぁ、田村軍曹……」

「あいたたた……何ですか?」

「あの状況から、何をどうやって避けろと?」

「それは、その……いてッ‼」

 木村は軍曹の右手を踏み付けた。

「山口先輩、こいつら、どうしま……どうしたんですか?」

 山口は「しまった」と言いたげな感じで、顔に手を当てていた。

「もう遅かが……憲兵ん前で、おいの本名ば言わんでくれ……」

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