精神的な自慰行為

森本 晃次

第1話 セックス同意書制度

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年七月時点のものです。それ以降は未来のお話です。今回は、前作同様、思っている怒りをそのままぶつけたり、あるいは、今回は、少し性的な表現が、あからさまかも知れませんが、それもご了承ください。


 時は流れ、紙幣も新しいものに置き換わった時期のことだった。世の中は、それまでの有事から、少し落ち着いてきていて、その分、社会が全体的に疲弊していた。

 有事というのは他ならない、ウイルス性の伝染病による、

「世界的大パンデミック」

 のことである。

 最初は、今までの伝染病流行の時のように、数か月から一年くらいで収束すると思っていたようだが、実際には、数年が掛かった。第一波から、果たして第何波なであったというのか、捉え方によって違うだろう。

「確か、第五波くらいがひどかったよな」

 と言っても、他の人から見れば、

「いやいや、第七波だったよな」

 と答えたとしても、実際には同じ波だったということである。

 地域を限定して見る場合と、全国展開で見る場合とで見方も違ってくるのだった。

 そんな時代を有事と言ってもいいだろう。何と言っても、緊急事態宣言が何度も出されて、一年のうちのほとんどが、宣言中だったという年もあったくらいだった。

 一旦は抑えたとしても、宣言を解除すれば、あっという間にまた増えてくる。

 何と言っても、日本が諸外国と違っているのは、二つあった。

 一つは、日本の憲法には、私権を制限することができない。つまり、有事であっても、戒厳令のようなものを出すことはできないのだ。

 だから、自粛を呼び掛けても、人はいうことを聞かない。最初は政府の方針に従っていた人も、宣言から解除、さらに宣言と、無限のループに入ってしまうと、

「誰が政府のいうことなんか聞くものか。伝染病で死ぬ前に、こっちは飢え死にしちまうよ」

 というのだった。

 さらに何が悪いと言って、政府は自粛をお願いするだけで、保証を出さないのだ。

 一応協力金などという形で保証金のようなものを出すが、それも、一律ということで、流行っている店でも、閑古鳥が鳴いている店に対しても同じ保証では、格差が生まれるのは当たり前というものだ。

 家賃だけで干上がってしまう店は、政府の呼びかけに従うわけもない。

 ただ、問題は店側ではないのだ。店側で感染対策をバッチリやっていれば問題はないのだが、問題は、客がマスクを外してわめいたりするのが悪いのだ。

 そういう客がいなければ、店に自粛を要請したりはしない。

 もっとも、そういう客を断れない店も悪いとも言えるのだろうが、入ってきた瞬間に、

「この連中は騒ぐ」

 ということは、普通は分からないだろう。

 普段は静かな客であっても、その日が何かの記念日で打ち上げか何かだったら。少しは騒ぎたくなるのも無理はないのかも知れない。

 しかし、そのために感染が爆破するのは本末転倒。やはり、客のモラルが一番の問題なのだろう。

 そして、もう一つの問題というのは、

「医療崩壊」

 という問題だった。

 日本は他の国と違って、伝染病患者を受け入れる病院が圧倒的に少ない。

「病院だって、慈善事業じゃないんだ。経営できなくなって潰れたら、誰が病人を見るというんだ」

 というだろう。

 だが、有事の際であれば、もう少し協力してもいいのだろうが、医師会というものが、そもそも、営利団体のようなものなので、政府に協力するという気はないのではないだろうか。

 世界的に見ても、日本は患者数も重症者数も、それほどでもなかったわりに、伝染病専用のベッドや、重症患者ベッド数が増えていった。ある時などは、百パーセントを超える時があり、重症者を通常病棟に移すなどの処置が行われたりした。

 何よりもひどかったのは、救急車を呼んでも受け入れ病院がなく、救急車の中で危篤状態のまま、待機を余儀なくされるほどであった。

 さらに、問題の伝染病患者を受け入れるため、予定していた通常患者の手術を見送ったりと、普通なら考えられないような、まるで野戦病院のような状態だった。

「今は有事だ」

 というのは、まさにそういう医療崩壊が現実に起こったのを目の当たりにしているからだった。

 しかし、それでも、同じ地域に住んでいながら、発病していない人、身内に苦しんでいる人がいない連中は、自分たちが自粛をさせられていることに不満を持ち、感染してもいいとばかりに騒いだり、自粛を求めていることを平気で行ったりする。

 夜間の酒の提供が許されないとなると、屋外の公園とかで、皆固まって酒を飲んでいるのだ。かたや有事なのに、まるで何事のないかのように騒いでいる連中wp見ると、どれだけの人が苛立ちを覚えたことか知れないのだった。

 政府の政策もいい加減である。蔓延防止ということで、緊急事態宣言を出したかと思うと、リバウンドが懸念されているのに、簡単に解除する。そして数週間でまた、宣言発出という、

「負の連鎖」

 が続くのだった。

 それなのに、強硬に行うオリンピック。果たしてどうなることなのか、(あと二十日を切った状態)終わった時には、すでに戻れないところまで来ているのだとすると、完全に人災だと言ってもいいだろう。

 さて、未来予想としてのこれからの話は、そんなパンデミックが五年続いたということで、その混乱、いわゆる有事が済んだということでの話になってくる。

 実際には、三年くらいで収束しているかも知れないし、五年などという生易しいものではなく、十年、二十年と、そのままかも知れない。

 そうなった時の十年、いや二十年後の世界はどうなっていることだろう? 人類が存在しているかどうかも怪しいものだった。

 だから、とりあえず、五年で収束したということで、ここから話が始まる。未来のことなので、完全なフィクションであるが、

「世の中知らなくてもいいことって、たくさんあるんだ」

 という意味で、このお話を読んでいただきたい。

 人類は、パンデミックを乗り越えた?

 いや、気が付けば終わっていたと言った方がいいかも知れない。

 五年という歳月は、それだけ人間の頭をマヒさせるに十分な期間だと言えるのではないだろうか。今から一か月前のことを思い出そうとしても思い出せない。なぜなら、昨日のことも分からないからだ。。

 それは、毎日が同じことの繰り返しで、どれが昨日のことで、どれが今日のことなのか分からないからだった。

 今はとりあえず平和になった。伝染病に罹っても、すぐに治る特効薬も開発され、ウイルス自体は全滅したわけではないが、完全にピークを通り越した。ウイルスをやっつける薬が開発されて、少なくとも、伝染しにくくなってきたことで、発病する人が減ってきた。さらに、予防注射を打っておけば、発病する可能性が低くなった。つまり、感染しても、無症状のまま、何事もなかったかのように過ごせる確率が劇的に倍増してきたのだ。それを思うと、五年という期間も、最初の二年くらいは、何をどうやっても、感染を抑えられず、すべてが後手後手に回っていた時期がどれだけ情けない時期だったのかということが分かったのだ。

 一つの歯車が嵌れば、後は早かった。そこからの三年は、どんどん感染者も減っていき、次第に日本が有事であることすら忘れてくる人が多くなったくらいだ。

 本当はこれを風化させず、別の伝染病が流行った時のために、今回のことを生かせるように検証が必要なのだが、それができないのも日本人、いや日本政府の酷いところであった。

「きっと、また何かあれば、同じことを繰り返すに決まっている」

 と、今は思っていても、次第にそんなことがあったことすら、歴史の一ページとして記憶の奥に封印されることになるのだろう。

 ただ、今はそんな時代が通り過ぎ、皆放心状態ということだろうか。何かよくないことが忍び寄ってくるのは、意外とそういう時期なのかも知れないと、思う人はあまりいないだろう。

 そんな時代には、犯罪も多発した。しかも多様化してきて、起こるべくして起こった犯罪もあれば、計画されたものもある。詐欺やサイバー犯罪などは計画してのことだろう。ただ増えてきたのは、空き巣が多かったりもした。自粛のために、店を閉めなければいけないところに入ってくる。それこそ、

「火事場泥棒」

 を地で行っているようなものだった。

 そして、特に増えたと感じるのが、交通犯罪だった。

 車による無免許運転、飲酒運転などであり、しかも問題なのは、検問に引っかかると最低でも免停は免れない状況なので、逃げ出す輩がいるのだ。

 検問を振り切って走り出し、それらが他の車両や歩行者にぶつかって死亡事故を起こすなどという最悪の状態が結婚あったりした。

 そのほとんどは、無免許や、飲酒、あるいは薬物が絡んでいるだろう。

 捕まりたくない一心で逃げると、人を撥ねてしまった。つまりは、危険運転致死罪である。

 ただ、いくら罪を重くしても、数年で出所してきて、さらに、免許も生涯取得できないわけではない。いや、そういうやつは、無免許であろうが運転するだろう。だから、永遠になくなることはないのだ。

 どうしてそういう犯罪が増えてきたのか、専門家も首を傾げていたが、ちょっと考えれば、自粛疲れと、それによる、感覚のマヒを指摘する人もいるが、何よりも、

「自分は事故らない。自分だけは大丈夫だ」

 という気持ちがあるからだろう。

 飲酒運転にしたって。

「捕まらなければいいんだ」

 というだけの問題である。

 自分は捕まらないと思っているんだから、捕まった時のことなど考えているはずもない。だから、検問を見ると逃げ出してしまうのだろう。それだけ、自分は捕まらないと思っているのに、検問を見て、パニックになって、冷静な判断力がなくなってしまうからだという意見もある。

 しかし、本当にそうだろうか?

 そもそも、そんな浅はかなことしか考えない連中なんだから、最初から冷静な判断が生まれつきできないやつなのかも知れない。

 それとも、今までの人生の中で、数々の冷静な判断をしなければいけない状況において、ことごとく、冷静に判断をすることができずに、くだらない人生をしてきたことで、最後になって、このような結末を迎えることになるのだろう。

「まだ人生が終わってないって? そんなことはない。この男のターニングポイントはここなのだ。ここで、冷静な判断ができるようになれる最終ジャッジなのだろう。ここでできなければ、後は転落人生が待っているだけ。もっとも、ここまで来た時点で何度もあったターニングポイントを、まったく知らずに来たのだから、ここで立ち直れるなど、まずありえないのは分かり切ったことであろう」

 と言えるのではないだろうか。

 交通関係と言えば、最近は自転車の問題も深刻だ。

 自転車が歩道を走って、歩行者と接触というのもよく聞く。自粛期間になって、デリバリーが増えてきたことで、自転車の配達員が増えた。しかもその連中の運転の酷さというと、まるで無法地帯で、歩行者の横をすり抜けるような猛スピードでの走行は、事故がない方が不思議なくらいだった。

 そもそも、歩道を自転車は走ってはいけないのだ。

 配達員で歩道を走っていい場合は、ほぼ、自転車通行可の標識があるところだけである。しかし、それでも、歩道というのは、

「歩行者専用道路」

 であることには変わりない。

 それを我が物顔で走るというのは言語道断である。自転車が不可の歩道で、自転車が走るというのは、

「通行区分違反」

 という罪であり、結構罪としては思い。

 極端な話で言えば、

「バイクが歩道を走るのと同じだ」

 と言っていいレベルのものである。

 バイクが歩道を走れば、誰が見ても、重罪なのは分かり切っている。自転車でも同じだということをあまりにも誰も知らなすぎるのだ。

 そんな事故が多発しているこの時代、やはり大きな問題になっているのは、飲酒運転だった。

「法律が厳しくしなければ、事故は無くならない」

 という意見が世間を席巻し、数年が経っていた。

 実際に、国会では元々問題になった事故発生から、やっと五年経ってから、国会で、飲酒運転の罰則を厳しくしようという声が出て、その法案が提出されたのだが、その頃になると、

「少々法律が厳しくなったところで、飲酒運転や無免許運転がなくなるはずはない」

 という意見が主流になってきた。

 これは、

「飲酒運転や、無免許運転を撲滅しなければならない」

 と言われているのに、実際に事故がまったく減らないこと、さらに、一番守らなければならない、教師や警察官などを中心とした公務員の犯行が目立っていることで、これらの犯罪がどれだけ卑劣かということと、しょせんはなくなるはずがないという諦めの境地を世間に感じさせることになったのだ。

 許せないという気持ちと、諦めの境地を同時に感じなければいけないということは、本当に虚しいことである。

 それなのに、世間の風潮を知ってか知らずか、国会では、いまさらのように、罰則強化が審議されている。

 これは国民から見れば、思い切りシラケムードであり、バカバカしいと言ってもいいだろう。

 もっとも、罰則を重くすること自体に反対なわけではない。罰則を重くすることは必要なことであり、当然なことだというのは、国民のほとんどの人間の同一認識だと言ってもいいだろう。

 しかし、問題はそこではなく、

「いまさら感」

 なのだ。

「何を今さら」

 つまりは、世間があれだけ騒いでいたのだから、もう少し早く法整備があってもしかるべきだった。

 実際に、問題が世間で叫ばれ始めた時、野党議員が国会でこのことを問題にし、法整備を訴えたのだったが、政府側は、

「そのような世間の声は聴いています。早急に専門家委員を選定し、法整備ができるように善処します」

 と答えていた。

 だが、実際に専門家委員ができてから、法整備の法案が実際に国会に提出されたのは、最初の国会から五年が経過していた。下手をすれば、多くの国民が、法整備について、そこまで言わなくなっていたくらいの時期である。

 事故がなくならないので、国民は覚えているだけで、だからこそ、

「何をいまさら、やっとかよ?」

 というものであった。

 毎度毎度の事故のニュースに国民は嫌気がさしていることで、実際の五年という期間よりも、さらに長く感じられるのだが、そのせいで、いまさらという感覚が、国民をいらだつぇ、最後には、

「ああ、やっぱり政府のやることだ」

 として、次第に国民の政治離れが深刻化する。

 そう、国民の政治離れというのは、誰が悪いというわけではない。政府の責任が一番大きい。

 もちろん、政府だけの責任ではないだろう。だからこそ、

「政府の責任が一番大きい」

 という言い方をしてるのだ。

 そうでなければ、

「責任のすべては政府にある」

 という言い方をするのだろうが、そうでないということは、何か起こった時の責任を、すべて一人、あるいは一つの団体に転嫁することは、普通にはないだろうということを、ほとんどの人は分かっているということであろう。

 そうではあるが、やはり政府というものがどれほど、国民を舐めているのかということが、この法案をいまさらにしてしまったことでよく分かるというものだ。実際に、世間にこの問題を提起することになった犯人の処罰は、それまでの法律における軽いものであった。

 数人を飲酒運転でひき殺しているのに、数年で出所するという理不尽さも、政府に対しての怒りの矛先が向く直接の原因となったのだ。

 そんな政府に対して、国民は怒りどころか、ほぼ、諦めの境地に陥っていた。その理由には、数年前に起こったパンデミックに対しての対策はあまりにもずさんだったことが挙げられる。

 初期の水際対策が、

「ザル」

 であったことから始まって、国民に対しての要請の不十分さ、そして、冗談ではない状態での茶番劇の数々。

 さらには、有事において、自分たちの味方になる人を辞めさせないようにするため、ただそれだけのために、法律を改正しようとしたくせに、その男が最低のクズだったことで、そのクズが退職を余儀なくされたという、これほどの大茶番劇があったことだ。

 ただ、問題は、そんな大茶番劇すらあっという間に世間が忘れるほどの、対策の後手後手。そして数々の問題発言。それを誰も裁くだけの力のある人もおらず、権力者は、やつらを庇って、自分の保身に走ったのだ。

 逆にいえば、問題発言をした連中は、自分の意見ではなく、政府要人。いや、ソーリと呼ばれる男によって言わされていたので、スーリやそのソーリに忖度する連中を守るために、不可解な情報操作をしたということなのである。

 今までバカだった国民も、さすがにそこまで政府にコケにされ、舐めた態度を取られると、もうバカではいられなくなった。

 どこまで正しい世論なのかは、ハッキリとはしないが、

「政府を敵対する。政府を信じない」

 という共通の善に対しては、ハッキリとしていた。

 特に、

「がーすーと呼ばれた男に対しては、誰もが嫌悪感しか持っていない」

 と言われていた。

「記者会見では、感情も何もなく、原稿を読むだけ。気に入らない相手にはただ恫喝するだけ。自分は苦労人だと言っておいて、実際には裕福な家庭だったという話。息子には甘く、政治と企業の癒着を絵に描いたように演じたこと。口を開けば、針が飛んだレコード状態で、何ら建設的なことを言わない。いや、言おうとしても、まったくのビジョンがない。すべてを部下のせいにして、責任転嫁をする……」

 などなど、まだまだあるが、とりあえずはこのくらいにしておこうか?

 ただ、最後の文言は、この男の問題というよりも、前ソーリのことであり、こいつの方がさらに罪は深い。

「こいつのせいで、自殺した人がいる」

 というだけで、どれほどひどいやつなのかということが分かりそうなものだ。

 しかも、一度と言わず二度までも、都合が悪くなると、病院に逃げ込むというやり方。このどちらも、

「顔を見ただけで虫唾が走る」

 という国民が相当いるのは間違いのないことだろう。

「まあ、政府への不満はこれくらいにしておいて」

 と言いながら、最初は作者もここまで書くつもりはなかったのだが、書いているうちについつい描きたくなってしまったという、

「お粗末劇場」

 に対して、同意してくれる人もたくさんいることだろう。

 それほど、その時の世の中は悲惨なものであり、政治に対して少しでも興味を持つと、すぐに政治離れをしてしまう人が多いという理屈を、納得しなければいけない状態にしたのは一体誰なのか。それを思うと。たまらない気持ちにさせられるというものだ。

 あれから、数年が経ってから、交通事故のような世間を騒がせる事件として、性犯罪があった。

 特にネットが発達したことにより、ちょっと前であれば、出会い系サイトなどで問題になっていたことも、その当時は問題にはなっても、法改正にまでは至らなかったが、パンデミックが起こってから、少しずつまた性犯罪に対しての苦言が政府をチクチクと刺激しだしたことで、それに対して何らかな法改正を余儀なくされたことで、交通事故関係の法律の制定に五年を要したにも関わらず、性犯罪に関しての法改正には、その半分くらいで改正が行われた。

「以前から燻っていたことで、法律の専門家が草案を作っていたのかも知れない」

 と言われたが、交通事故の厳罰を増やすよりも、よほど難しい案件だったものを、よく二年ちょっとという短い期間で成し遂げることができたのか、やはりそこに、何か政治的な問題が含まれているのかも知れない。

 それが政府が考案した、

「セックス同意書制度」

 というものであった。

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