第48話

 それから私は、完全に諦めてしまった。心の底でも理性でも『未来を変えよう』などとは考えなくなった。

 毎晩ひどく具合が悪くなり、ベッドに横たわる。頭の中に巣食う虫のせいだ。その虫の名はタイムマシン。彼は私の脳細胞を引きちぎったりつないだりして、思考を乗っ取る。

 見せられるのは、大きな歯車だ。私が死なないと、この世界をまわしているそれが外れて大変な出来事が起こるのではないか、そう考えさせられる。いや、私自身が進んで考えているのかもしれない。


 といっても、常にそうしているわけではなかった。不思議なことに、この虫は人と話している時は決して活動しない。あくまで一人でいるにだけ、仕事をする。

 なまじ人前では元気に振舞ってしまうから、誰にも気付かれない。それはあきらも例外ではない。今の彼と話せば幸福を感じるし、未来の彼と話せば未来を変えたい気がしてくる。


 そんなことを続けて3日、水曜日の夜を迎えた。先ほどまで、未来の彼と話していた。『何も問題はない。私は死なない』そう伝えた。その時は本心だった。

 でも、ダメだ。今日は特にひどい。マットレスに身体が沈み込んで、全く動けない。箱の中で木毛に埋まった果物の様に。

 脳はかろうじて回っているのの、まともな活動はしてくれない。今はただ、不安と恐怖を感じるだけの器官になっている。


 やがて時刻は零時を回り、13日になった。今日は私の命日。私の犠牲だけで世界が回るのなら、悪くない。

 でもその時、思い出した。私が死ぬと、ひかりちゃんも死ぬことになるということを。

 いや、違う。未来はすでに起こっている。だから私は、自分の自殺によって彼女を……。間接的とは言え、私は彼女の死を導いてしまったわけだ。


 私が彼女を死なせた。そのことに気が付いてしまった。最低だ。私は私の勝手な思いで自殺を選び、親友の死を導くんだ。

 でも、死のうという気持ちは揺るがない。本当に最低だな、と思う。

 そうだ、ならいっそのことこう考えよう。私はあきらの先生と同じように『未来は変えられない』という考えを信じて自殺するんじゃなくて、『親友を殺してしまった』ことを嘆いて自殺するんだ。

 普通なら、何を考えているんだと、お前が死ななければ彼女も死なないんだぞと、思うはずだ。でも、今の私はそこまで考えが及ばない。それほどに追い詰められて、思考が鈍っている。


 その後もマットレスに身体を沈めているといつの間にか眠ってしまったらしく、眼が覚めると時計は午前5時を指していた。まだ日は登っておらず、電灯の消えた部屋は真っ暗だ。なぜ起きたのか原因のわからない変な時間に起きる時はたまにある。

 そして大抵、そういうときは寝覚めがとてもいい。瞼が重かったり、やたら眠かったりしない。完全に眼が冴えて、頭はすっきりとしている。今回も例に漏れず、まるで今の今まで眠っていたのが嘘のように頭が回っている。

 でも、それは残酷なことだった。朝目が覚めて、思考がまどろんでくれていれば難しいことは考えられず、生きていくという未来を選べたかもしれない。なのに、そうではなかった。思考は巡り、私を悩ませる。これは世界が私に死んでくれと言っているに違いない。

 安心してほしい、そのつもりだ。でも理由は、少し違う。私は世界や歴史、タイムパラドックスのためなんかに死ぬんじゃない。親友の死を嘆いて死ぬんだ。


 ベッドを出て、登校の支度を始める。周りに怪しまれないよういつもと同じ時間をかけて身支度を整える。

 終わった頃の時刻は5時50分。学校に行くには早い時間だ。7時前には着いてしまう。でも、それでいい。いつもの時間に行こうとすると、心配性のあきらが『今日は送っていく』とでも言って家まで来てしまうかもしれないから。


「お姉ちゃん?もう学校行くの?」

 玄関で靴を履き、ドアのノブに手をかけた瞬間、そう千紗の声がした。呂律が回りきっておらず、起きたばかりであることが伺える。

 見られた、と焦る思いはあったが、よく考えると焦ることではなかった。

 むしろ、家族が起きる前にひっそりと家を出ていた方が騒ぎになる。その前に妹に話しかけられたのは幸運と言える。

「今日はちょっと用事があって、早く出るの。起こしちゃってごめんね。行ってきます」


 私は落ち着いて伝えた。すると彼女は「そうなんだ。頑張ってね」と納得した様子で私に背を向け、洗面所に歩いて行った。うまくいった。


 家を出ると日が昇ったばかりの外は涼しく、もう死ぬことが確定したせいか不安は薄れていたので、気分がよかった。いわゆる吹っ切れた、という状態だ。私が飛び降りるその瞬間までこれが続いてくれると良いのだけれど。


 電車に乗って数駅が経った時、スマホが振動した。見ると、あきらが宿泊しているホテルの番号だった。いつもこの時間にはかかってこないことを思うと、これは今日と言う日付に起因する特別な電話なのだろう。彼を安心させるためなら、出た方が良い電話だ。

 でも、私はそれを無視することにした。その理由には電車に乗っていたからというのもある。ただ一番は、単に彼と話したくなかった。変に話して彼に死ぬことを悟らせてしまうのも酷だし、なによりそのせいで『前向き』になってしまうことが怖い。

 気分が上向けば、下向くときにストレスがかかる。沈みっぱなしが望ましい。

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