第34話

 時刻は午前2時。終電の時刻はとうに過ぎ、街は静寂に包まれている。そんな中を、僕は歩いている。

 すれ違うのは朝まで飲み歩く覚悟を決めた大学生と、終電を逃したサラリーマンを乗せたタクシーだけだ。

 歩きながら、水路を覗き込む。水路は低い位置に深く掘り込まれ、壁面を煉瓦で覆われている。これを降りるのは不可能だ。

 しかし数か所だけ、通常河川の土手のようになっている場所がある。そこを目指して、僕は歩いている。


 到着した僕は、持ってきたボストンバッグから胴長を取り出した。そしてそれを履いて、水路に足を沈めた。場所によるが、このあたりの深さはふくらはぎの真ん中くらいまでのため、歩いて進むことができる。

 地図によると、通路はここから300mほど離れた橋の真下にある。足を前に進めるというたび、重い水の抵抗とザブザブという音がなる。

 たどりつくころ、僕はすっかり疲れてしまっていた。たった300mとは言え、水の中となるとこたえる。胴長という通気性のすこぶる悪い服装ではなおさらだ。


 通路は錆びついた鉄格子でふさがれ、唯一開閉できる扉にも鎖と南京錠がかけられている。

 それはかなり古いものらしく、現代のものの様にシャックルがU字型をしているのではなく、ボディから二か所突起がでており、その間に棒状のシャックルが通るようになっている。

 鍵穴もこけしのような形で、現代ではまず見かけないのでなかなか興味深い。が、今はこっちが先だ。


 僕は鞄からチェーンカッターを取り出し、鎖を引っ張って格子との間に隙間を作ろうとした。

 しかしその瞬間、鎖がジャラジャラと音を立てて外れて下に落ちた。見ると鎖はすでに切断された形跡があり、過去に何者かが侵入したことを表していた。

 もしやマシンが撤去されたのではないかと、僕は焦りながら旧水路に侵入する。幸いなことに旧水路は今の水路よりも床が少し高く水は流れていなかったので、素早い移動ができそうだ。

 そこには月明かりも外灯の光も届かず、完全な闇になっている。僕は鞄からライトの着いたヘルメットと、酸素濃度計を取り出す。

 ヘルメットは中を照らすため、濃度計は内部で窒息死しないためだ。古い井戸や暗渠、マンホールといった地下に位置する建造物は色々と恐ろしい。


 電源が入っていることを確認し、ヘルメットを頭に装着する。LEDの白い光が前を照らし、旧水路の内部があらわになる。高さ2mほどの天井に向かってアーチ状に煉瓦が積まれ、地面から20cmほどの位置に泥がこびりついている。恐らく、稼動していた時はここまで水が流れていたのだろう。

 50mほど来ただろうか。その時、もうひとつ鉄格子が姿を現した。不思議なことに、この鉄格子は先ほどのものよりいくらか新しく見えた。水場から離れているから、錆の進行が遅いのだろうか。

 そんなことを思いつつ鎖を外して扉を開け、中へと進む。

 不思議なことに、これまでネズミには遭遇していない。この様な汚い場所には普通……。

 そこまで思考を進めた時、一瞬記憶が飛び、頭が下へ引っ張られた。ひどく眠い状態で講義を受けている時のような、そんな感じだ。

 もしや、と思い、濃度計に眼をやる。

『16%』そこにはそう記されていた。まずい状況だ。

人間が安全に生活をできる下限酸素濃度は18%、だがここには16%しか酸素がない。すぐに出なければ。

 しかし次の瞬間僕は地面に膝をつき、ひどい吐き気に襲われた。心臓はドクドクと動悸し、呼吸は浅く早くなる。だが、肺に酸素は入らない。

「この……役立たずが」

 アラートが鳴らなかった不良品の濃度計を投げ捨てる。しかしうまく力が入らず、それは1mも飛ばずに落ちた。

 地面を這いずって引き返そうとした時、視界が大きく揺れ始めた。

低酸素症によるめまいだろう……いや、違う。実際に揺れている。地震だ。かなり大きい。崩れた煉瓦の落ちる音と、地面の唸り声が聞こえる。

 大きな揺れの中、僕は必死の思いで先ほどの格子にたどりついた。しかし、どんなに引っ張っても開かない。地震で歪みが入り、ロックされてしまったらしい。


 絶対絶命だ、今度こそ僕は死ぬ。そう思った。これまでの人生が走馬灯のように流れていく。


 走馬灯が何かは知らないが。


 人間死の間際には思考が回るものらしく、そんな無駄なことを思った。

 その時、鞄の中に酸素缶があることを思い出した。僕は最後の力を振り絞り、鞄から取り出して口に当てる。

 ほんの少しだけ、視界が鮮明になった。だが、問題は何も解決していない。眼の前の歪んだ鉄格子を、一人でどうにかするのは不可能だ。

 こうなれば僕は、進むしかない。


 酸素を大きく吸って立ち上がり、奥の方を向く。やはり十分ではないようで、ひどい立ち眩みで前が暗くなる。ヘッドライトで照らされているというのに。

 実際、望みは薄い。地図を見る限り反対側の出口は1㎞以上先だ。助かる見込みがあるとすれば、どこか隙間から、新鮮な空気が流れ込んでいる場所があることだ。


 しかしわずか3分ほどで酸素缶の出が悪くなり、残りが少ないことが伺えた。今度こそ、本当にダメだ。またしても思った。

 筋力が低下しているので、疲れ果てた僕は再び地面に膝を下ろし、壁面に手をついた。その時、壁が沈みこんだ。

 何事かと見ると、そこの煉瓦が崩れていた。さらに、煉瓦を固定するはずのモルタルがない。ただ重ねられているだけだ。

 崩れたところを広げ、ヘッドライトを押し込んで内部を見る。その先には、空間があった。そして空間には、あるものが鎮座していた。


 所々が破れた金色のフィルムで覆われた、大きな直方体。数か月前に僕の眼の前で姿を消した、過去への旅を可能にする装置だ。


 どうやら僕は、まだ死ぬ時ではないらしい。

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