第28話 文字の練習

「うーんと、この文字はこうして、くるっと」


 ノートに何度も同じ文字を書く。絵本の文字と見比べ、おかしくないかチェック。


「けっこうキレイに書けたっぽい」

 ふふ、とイオリは満足そうに頷いた。




「こんな所で文字の勉強か?」




「!?」

 後ろから突然聞こえた声に驚いて、イオリは勢いよく振り向いた。そこには、ずっと会いたいと思っていた人物が。

「ジ、ジェイドさん」

「よお」

 ジェイドがイオリの元に歩いて来て、側にある手頃な岩に腰かけた。




 イオリが今いる場所は、宿舎の外。時刻は昼前だ。シーツを干している場所。白いシーツが風に気持ち良くなびいている。その側に平べったく座ってもお尻が痛くならなさそうな岩を見つけたので、イオリは絵本とノート、筆記用具、そしてお菓子を持って来て勉強していたのだ。気温も暑くもなく、寒くもなく。快晴で、とても心地良いので部屋にいるのがもったいない。目の前には、海も見えている。小さく波の音が聞こえていた。

 ノートと筆記用具は、使わないものをハゼリからもらったものだ。




 ちらりとジェイドを見る。

「なんだか、お久しぶりです」

「まぁ、そうだな」

 彼は相変わらず目つきが鋭い。がっちりとした体格に、長い手足。思わず見惚れてしまいそうになった。

「ハゼリは?」

「知り合いの所に行くって言ってました。お昼も済ませて帰るとのことで、シーツを取り入れるまで、私は自由時間です」

「ふぅん」

 ジェイドは曖昧に返事をして、イオリの手元を見た。

「ノート、見せてみろ」

「へ!? あ、はい」

 文字の練習ノートを手渡す。それをジェイドはじっと見る。

「どうだ? 向こうの世界の文字と比べて」

「形が全く違うので、本当に一から覚え直しですね。とにかく、練習するしかないです」

「そうか。がんばれよ」

「はい!」

 ジェイドに応援してもらえるだけで、テンションが爆上がりだ。返してもらったノートをぎゅっと握ったので、少しよれてしまった。


「仕事はどうだ?」

「朝五時起きなのはまだ試練ですけど、掃除も洗濯も嫌いじゃないし、皆さん良い方ばかりなので、楽しくやってます」

「そりゃよかった」

 イオリの生活が辛いものでないと、本人の口から聞けたので、ジェイドは安堵の息を吐く。

「ジェイドさんは、お仕事が忙しいんですか?」

 自分から質問をすると緊張してしまう。イオリは心臓がバクバク音を立てていた。

「賊が出なければ平和だが、また海賊が出たから海に出ていた。商船が多いからな。それを狙う奴も多い。他にもいろいろある」

「なるほど」

 ジェイドは眉間みけんしわを寄せている。疲れているようだ。

「お疲れ様です。これ、どうぞ」

「?」

 イオリが差し出したのは、持って来ていたお菓子のカゴだった。

「疲れた時は、甘いのが良いですよ」

 ハゼリが先日、買って来てくれたクッキーだ。彼女お気に入りの店らしく、とても美味しい。イオリもすぐに好きになった。

 ジェイドはクッキーを一つ口に入れた。ほんのりと甘さが広がり、砕いて練り込まれていたナッツが香ばしい。

「……うまいな」

「お菓子はよく食べるんですか?」

「いや、普段はあまり食わん。久しぶりに食べた」

「そうですか。あ、お茶持って来ましょうか?」

 イオリが腰を上げたので、ジェイドはそれを制する。

「いや、そこまでしなくていい。今日ここに来たのは、渡す物があったからだ」

「……渡す物?」

 岩に座り直す。ジェイドは自分のジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。それをイオリの手に乗せる。

「見てみろ」

「はい」


 中の物を取り出して、驚いた。


「カードに冊子? えっ、お金!?」

 まだ読めないがいろいろな文字が記入されているカード、小さな薄い冊子、そして初めて見ても分かる、お札が数枚入っていた。

「こ、これは……?」

「カードは身分証だ。この敷地内で生活をする限り、イオリも軍の所属という事になる。臨時職員として緊急雇用をした。その身分証は、誰が見ても俺の部隊の人間だと分かる。身分が不明な人間は、誘拐されても分からんからな」

「身分……。町の人も、身分証を持ってるんですか?」

 素朴な疑問をぶつけてみた。

「身分証は、国の公的機関に所属する者は必ず持っている。町の人間は、希望するなら警察で発行してる。商人や医者は、どこの町の出かはっきりさせる方が信用を得やすいからな。後は、戸籍で把握してる」

「戸籍! この世界にも戸籍があるんですか」

「管轄は警察だ。イオリの戸籍も一応作っておいた。世界を渡って来たから身分を証明するものが一つもない。当然だがな」

「大丈夫だったんですか?」

 身一つでいきなり現れたのだ。イオリの存在は宙ぶらりん。しっかり生活する為に、ちゃんと身分も確立させなければいけないのだと知ったイオリ。ジェイドをガン見した。

「心配すんな。賊から誘拐されてきたって設定だからな。名もない小さい島出身だから、身分の証明も、保障もするモンは初めからねぇって言い切った」

「へ、え……」

「だから、俺がイオリの身元保証人となる事で、納得してもらったよ」

 イオリが目をぱちくりさせた。

「ジェイドさんが、私の身元保証人?」

「ああ。俺は軍人として身元もしっかりしてるし、この町では一応信用もある。特別措置ってヤツだ。その代わり、お前が問題を起こせば、俺まで責任を取る事になるし、信用もなくなるだろう。まぁ、そこまで心配はないだろうが、念のため、行動には気を付けろよ」

「はい!」

 連帯責任の重圧が半端ない。

「あと、その金は一週間の仕事の報酬だ。必要な物があれば、買えば良い」

「私、買い物に出ても大丈夫ですか?」

 今までは金がなかったので、買い物に行く事がなかった。狙われているので、危険な事を避けていたのも理由の一つ。ハゼリも買い物へイオリを連れて行きたそうにしていたが、ジェイドがOKを出さなかったので、ずっと留守番だった。

「町の様子を見たが、特に異変はなかった。巡回の兵も増やしたし、警察にも奴がまた来た時に連携が出来るよう言っておいた。用心するに越した事はないが、外出を許可する」

 イオリの顔が、ぱぁっと明るくなった。

「ありがとうございます!」

「いや。ハゼリもこれで満足するだろう……」

「ハゼリさん?」

 ジェイドの眉間にはまた皺が。困ったような表情になった。

「イオリと買い物に行きたいと、ずっと圧をかけてきやがった。安全確認が出来るまで待てと言ったのに、やだやだって駄々だだをこねてな」

「駄々……、ふふ」

 彼の前で子供のように駄々をこねるハゼリを想像して、イオリはくすりと笑ってしまった。

「おかげで町中走り回ったぜ……」

 ふぅ、とため息をつくジェイド。

「お疲れ様でした、ジェイドさん。ありがとうございます」

「ああ。今回の金は特別に現金支給だったが、これからは銀行に直接振り込まれる。毎月月末に、通帳記入しておけよ」

「銀行もあるんですか」

 向こうの世界とシステムがほとんど変わらない事に驚きだ。

「ああ。本部の一階に窓口がある。通帳と身分証を見せれば、希望する額を引き出せるぞ」

 小さな冊子は、この世界の通帳だった。ぺらりと表紙をめくる。記入枠の線が引いてあり、まっさらだ。



(私の通帳……。私が働いたお金が、ここに入るんだ……)

 本格的に生活基盤が出来上がっていくので、イオリは少し寂しさも感じながら、感動していた。

(この世界で私の居場所が出来るのは、すごく嬉しいけど……、向こうの世界での私の居場所が消えていくみたい……)



「イオリ?」

 黙ったままのイオリを呼ぶジェイド。はっと我に返った。

「すいません。いろいろしてもらったのが、嬉しくて」

 はは、と笑う。

「ならいいが。今日はまだ少し時間がある。聞きたい事があるなら、話してやる」

「! 本当ですか!?」



 イオリは、驚いてジェイドの顔をじっと見た。

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