西部戦線異状あり

Roaring 47. 戦争という名の熱病




「クソ……なんだ、これ……。一体、何人死んだんだ……もう、戦争は……」


 一九一八年十月十日、ベルギー北西部イーペル。前日から降りしきる雨でぬかるんだ塹壕に足を取られ、ガスマスクを着けたダーティは舌打ちをした。


「おい、誰か! 誰か生き残っている奴はいないのか!」


 鉄条網に覆われた入り組んだ塹壕の周囲には、敵味方入り乱れた無数の死体が泥にまみれて沈黙している。まだ息をしている者もいたが、マスタード・ガスの黄色い煙が立ち込める中、その息もそう長く続くものではなかった。


「なんだよ、クソ! 一体、この様はなんなんだよ、クソが! アメリカが参戦すれば戦争は二週間で終わるって話じゃなかったのかよおおお!」


 ダーティは震える手で杖を握り締め、僅かに残った魔力を振り絞って風を起こした。一帯に立ち込めるガスを吹き飛ばし、塹壕の上に崩れ落ちる。

 大戦末期、アメリカ合衆国の参戦によって、もはやドイツ軍の敗北は決定的だった。実際、どんな魔法を使ったところで、この戦局を覆すことはできないと踏んだからこそ、ウィルソン大統領は参戦を決意したのであり、連合国において残った問題は戦後処理だった。

 しかし、後方の政治家の駆け引きとは裏腹に、前線では未だに激戦が繰り広げられていた。参戦直後にダーティが難攻不落とされるハウル機動要塞を落とし、展開されていた超巨大魔導列車砲〈カイザー=ヴィルヘルム砲〉を無力化し、無限塹壕に一点のほころびを作り出してから、約三カ月……地理的な優位は確保されたものの、それでも戦いは終わらなかった。

皇帝の戦いカイザーシュラハト』のために温存していた切り札を失い、いよいよ後がなくなったドイツ軍の参謀本部は、温存していた一個魔導師団とすべての予備戦力をイーペルに投入するとともに苦肉の策を投じる。


 それは禁忌中の禁忌――魔法によって変貌させられた『人間兵器』の投入だった。


 実際、ハウル・カール・フォン・ヴィンターフェルトが国防結界として仕掛けた無限塹壕は諸刃の剣であり、それを突破するための毒ガス兵器や戦車などの開発とともに、ハンブルクの魔法医であるカリガリ博士による洗脳と肉体改造がすでに以前から進められていた。

 絶命の瞬間に膨れ上がって爆発する人間爆弾や、手足を改造されて軍用犬のように機関銃の弾幕を潜り抜ける犬兵士、あるいは人造の翼でもって空挺魔導士や魔導戦闘機ドラッヘン・フリーガーの不足を補うコウモリ兵士……実戦投入は必然であり、時間の問題だったのだ。

 結果、ドイツ帝国が仕掛けた最後の反転攻勢――第五次イーペル会戦の死傷者数は、連合国・中央同盟国ともに大戦最大規模のものとなった。


「クソったれのドイツ皇帝カイザーめ! そこまでして戦争を続けたいのか!」


 そして今、深手を負いながらも、ほぼ単独でドイツ軍の一個師団を壊滅させた合衆国最強の魔法使いは、拳を握り絞めて泥を打ち、悔しさに歯を噛み締めた。

 落ちていたライフルを杖代わりにして立つと、砲弾の跡で黒々としている大地をただ一人でさまよい歩いた。夥しい死体の山には死の沈黙が広がり、冷たい雨音だけがその上に蓋をしている。立ち込める火薬と血の匂いは、雨でも簡単には落ちない。

 雨雲に覆われた弱々しい太陽の下、先ほどまで激戦を繰り広げていた兵士の痕跡があった。この戦場には何か国もの兵士が入り乱れて戦っていたが、もはや敵味方を見分けるのも不可能に近かった。辛うじて人の形を保っているもの、部分だけのもの、明らかに人体ではないもの、やがて蛆とネズミに食われ、名もなき彼らは土に還るのだろう。


「ヒッフェ……ゴッツ・ヒッフェ・ミア……」

「!」


 その時、すぐ近くの塹壕から微かな囁きが聞こえてきた。ダーティは何度か転びながらも、鉄条網を潜り抜けて声の方へと向かう。

 ドイツ語で必死に助けを求めているのは、自分と同じような年齢の青年だった。敵兵だが、ダーティには不思議と敵意が湧かなかった。どうやら脇腹を負傷しているらしく、軍用の防水外套の上から手で強く押さえつけている。

 ダーティは翻訳魔法を使って、その傍らに近づいた。


「おい……兄弟。運がいいな。どうやら、生き残ってるのは俺たちだけみたいだぜ」

「誰だ? ア、アメリカ人か……?」

「そうだ」


 ダーティは言って、青年の傷を見た。


「大丈夫だ。傷は浅い。焼いて止血するぞ。ちょっと痛いが我慢しろよ……」

「くっ……ううっ……!」

「我慢しろ!」


 ダーティは手のひらサイズの火球を生み出し、青年の腹に押し当てた。体組織を再生させる回復魔法をかける余裕はないので、最低限の応急処置だったが、それで充分だった。

 手当が終わると、青年は苦痛に顔を歪めながらも、不思議そうにダーティを見た。


「……ど、どうして、だ……。なぜ、助けてくれる?」

「戦争は終わりだ。もうこれ以上、俺たちは殺し合わなくていいんだ」

「そ、そうか……。ああ、ようやく戦争が終わったのか……。よかった、よかった……」

「…………」


 若きドイツ兵は安堵のため息を吐いて目を細めた。その瞳に一筋の涙を浮かべながら、泥にまみれた手を差し出す。


「パウル……パウル・ボイメルだ……」

「ダー……」


 その手を取って名乗り返そうとして、ダーティは軽く首を振った。


「……いや、聞かない方がいい。俺はアメリカ人魔術師の一人。わざわざ西部戦線までやってきてしまっただけの男に過ぎない」

「ふっ、そうか。なんか、僕だけ名乗ったのが損した気分だな」

「そんなことないさ。名乗るのが面倒ってだけの話だ。……こいよ、パウル。手を貸してやる。立てるか?」

「ああ、ありがとう……」


 二人はゆっくりと支え合いながら立ち上がり、塹壕に沿って歩き出した。


「どうやら……生き残ったドイツ軍は撤退したようだな。近くに俺たちの陣地があるはずだ。そのまま投降するといいぜ」

「捕虜か。殺されたりしないのか?」

「さあな。でも、後方の収容所には投降したドイツ兵が多くいるぜ。ドイツ側に戻って前線に送り返されるよりはマシだろ」

「そうだな。……実際、野戦病院に運ばれても、軍医先生、兵士不足だとかなんとかですぐに『出征可能』って顔も見ずに送り出されるような有様だよ。義足の男でさえもだぜ?」

「そりゃひでぇな」


 笑えない冗談だったが、ダーティはふんと鼻で笑った。

 二人は長い間前線をさまようことになった。とにかく陣地の場所がわからないので、やがて相談した上で、先に連合軍の陣地に着いたらそのまま投降し、もしドイツ軍の陣地に着いたら、そこでパウルと別れてダーティ一人で帰るという話になったのである。


「……あんた、お人よしだな。アメリカの魔法使いってのは、みんなそうなのか?」

「さあな。俺だけかもしれんな。もう飽き飽きしてんだよ、この戦争には。翻訳魔法を使えばこうして意思疎通も簡単にできる時代だってんのに……どうして戦争なんか……」


 思わず漏れたダーティの呟きに、パウルも同意して頷いた。


「それは僕もさ……。本当は、魔法ってのは……もっと幸せのために使われると思っていた。僕の住んでいたブレーメルの町は、魔術師が一人もいないような小さな町だったからさ。巡回サーカスで初めて目の前で魔法を目にした時には、それは驚いたもんだよ……。あの頃はよかったなあ……みんながいて……戦争もなくて……」

「……そうだな」

「そういえば、カチンスキーやクロップたちと一度どうして戦争をやっているのかって話したことがあったっけ……。あれは、休暇から帰ってきて前線に送られる前……そう、カイザーが検閲に来た時だった……。知ってたか、アメリカ人。カイザーも糞をするんだぜ」

「そりゃするだろう。ハリウッドの女優だって、魔法使いだって糞をする。そして一番の糞は、この戦争を始めたカイザーだ」

「カイザー一人の責任じゃないさ……。あの人は戦争をやる気はなかったって話だ……でも、みんなが戦争をしたがった。クロップの話じゃ、戦争は一種の熱病だって話だ」

「熱病か」

「そうさ……誰も戦争したいって奴はいない……それなのに、急に戦争に……ううっ!」


 脇腹を抑えてバランスを崩したパウルを支えて、ダーティは周囲を見回した。


「少し休むか?」

「平気さ。い……痛みは生きてる証拠だぜ」

「そうか。無事に生き残ったな、パウル」

「残ったのは僕だけだよ、アメリカ人。友達も戦友も、他はみんな死んじまった……。今年の夏はもう終わってしまったけど、今年の夏ほど多くの血が流れたことはなかった。ああ、あともう少しだけ早く戦争が終わっていたら……」

「…………」


 二人は前線を抜け出し、いつしか砲撃と毒ガスで枯れ木の山となった森の中に迷い込んだ。



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