今日は風もそこそこあって、波が高い。高いといっても、この相模湾に面した海岸では二フィートくらいだ。

 二フィートというのは店の常連客のサーファーがよく言う言い方で、彼らは「もも」と言ったりもする。太ももくらいの高さの波ということだが、それくらいの波の日さえめったにない。

 下手をするとフラットといって、全くのベタ波の日も多い。

 そんな日でもサーフボード片手に繰り出すサーファーもいる。だが、「もも」の波の日などはサーファーも増えて自動的に客も増える。

 そうなると、かけるはぼーっと何かを考えている間もないほどに忙しくなる。

 もっとも収容人数がそんなに多くはない店だから、満席になってしまえばもうそれ以上は客は増えない。

 そんなときは客との会話が、狭い店だけにいやでも耳に入る。自然とサーファーたちのやり取りやその独特の用語も飛び交う。どうしても意味が分からないときは、マスターがそっと耳打ちで教えてくれる。

 それでも翔は、彼らの会話に入って雑談を交わすまでは至っていない。

 いずれにせよ、ここでのバイトもあと数日で終わる。

 

 ドアが開いた。客が入ってくるようだ。

 会計を済ませて出て行ったばかりの客が使ったグラスや皿を。翔は盆にのせて下げようとしていたときだ。


 「いらっしゃいま……」


 翔は振り向いて威勢良く挨拶をしようとしたが、言葉は途中で切れた。代わりに翔はニヤッと笑った。


 「なんだ」


 「よお。なんだはねえだろ」


 入ってきた天然パーマの体格のいい若者も笑っていた。

 翔は食器を下げる作業を続けていた。


 「こんにちは」


 若者の背後にはデニムのミニスカートにオレンジのTシャツの、小柄な女の子がついてきていた。


 「あれ? 愛美めみもいっしょか」


 「俺が来たことには驚かないの?」


 天パーが聞く。翔は苦笑のような笑みを見せた。


 「おまえが来ることは聞いてたよ、マスターから」


 「ああ、兄貴! 内緒にしておいてくれって言ったのに」


 若者はカウンターの中のマスターに言った。


 「悪い。つい口が滑った」


 そう言いながらもマスターは悪気もなさそうに笑っている。

 二人はカウンター席に座った。


 「おい、善幸よしゆき! まるで客みたいな顔してデーンと座り込まないで、せっかく来たんだから手伝え」


 「ちょっと涼ませてくれよ。外、暑いんだから」


 「暑いったって、どうせ車だろ? 車から降りてここまでの間だけだろ、外歩いたのは」


 「兄貴は冷房きいた店の中にずっといるからわからねえだろうけど、外は殺人的暑さだぜ」


 「おまえ、車どこ停めた?」


 「店の前」


 「また、そこはお客様用だっていつも言ってるだろ」


 「じゃあ、どこに停めたらいいんだよ」


 「国道の向こうに一般駐車場があるだろ」


 「やだよ。あそこ有料で1時間で800円くらいとられるじゃんか」


 マスターも本気でその駐車場に停めろと言っているわけではないようで、笑っていた。

 その間にマスターはコーヒーフロートを作って、愛美の前に差し出した。


 「これはサービスね」


 「なんで愛美だけ? 俺には?」


 「おまえにはエプロンもう一枚あるから、それつけて働け」


 「冗談!」


 「いいから」


 天パーの善幸はしぶしぶエプロンを受け取った。


 「時給もらうからな」


 「ないよ」


 「愛美にはドリンクサービス、俺にはただで働け。これって差別じゃね?」


 「なんか申し訳ないです」


 カウンター席に座ったままの愛美は、笑いながら恐縮していた。


 「いいんだよ。愛美ちゃんにはバンドの方で善幸がお世話になってるし」


 エプロンをつけた善幸はだからといって働き始める様子もなく、翔の隣に突っ立っているだけだった。


 「俺は翔がちゃんと仕事してるか、監視に来ただけだ。なにしろ俺が紹介したんだから、俺には監督責任がある」


 「何言ってんだ。寺島君はとてもよく働いてくれてる。まあ、いい人を紹介してくれたってことだけはおまえに感謝するよ、そのことだけはな」


 「何もそこ強調しなくても」


 そんな時、愛美がふとたちがった。


 「お手洗いお借りします」


 愛美が席を外した間に、善幸はにやにやしながら翔に耳打ちするように言ってきた。


 「バイトして、何かいいことあった?」


 翔は少し考えていた。


 「まあ、あったといえばあったのかな?」


 「なんだよ?」


 「大学一年生の女の子たちが客で来てて、そのうちの一人が連絡先交換してくれってからLINE交換した」


 「おお、まじか」


 「声が大きい!」


 「それ脈ありだろう。もう連絡とったんか?」


 「まだ」


 「まだ? その日のうちに連絡するべきだろ普通」


 「それが帰ったらもうくたくたで、とりあえずバイト終わってからと思って」


 「なに言ってんだよ。魚が食らいついたらすぐに釣り上げないと、逃げられるぜ」


 「あのなあ。俺、釣りやってるわけじゃないんだけど」


 翔の目は遠くを見た。


 「それに、俺の中で一つ心の整理をしておくべきというか、決着をつけておくべきというかそんなことがあって、それがはっきりしてからでないと」


 「何わけのわからないことごちゃごちゃ言ってんだよ。決着つけるって何のことだよ?」


 「いや、ゼンコーには言いたくない。ってか、ゼンコーにだけは言いたくない、ゼンコーにだけは」


 「また、なに強調してるんだ?」


 「いや、気になることがあるんだ」


 「気になること?」


 「なあ、ゼンコー」


 「なんだ?」


 「あ、いや、やっぱ何でもない」


 そこでテーブル席の客のサーファーの方から追加注文の手が上がり、翔は素早くそれに対応した。

 そしてオーダーを聞いている間に、愛美がトイレから戻ってきた。

 それと同時に、また新しい客が数人、入ってきた。やはり常連のサーファーたちだ。女性も含まれている。


 「善幸、そちらのお客さんを頼む」


 兄に言われて善幸は、テーブル席に着いた新しい客たちを見た。


 「あれ? 善幸君、来てたんだ」


 客のサーファーの一人が、前項に声をかける。顔見知りのようだ。


 「お兄さんのお店の手伝い?」


 別のサーファーも声をかける。マスターの弟というだけで、善幸は店でも顔が広い。


 「翔君も頑張ってるけど、善幸君も偉いね」


 「いや、俺はたまたま遊びに来たら兄貴につかまって、無理やり働かされているって感じで」


 「エプロンはつけてるけど、さっきから突っ立てただけじゃないか」


 マスターが注文のドリンクを作りながらカウンターの中で笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る