まだ営業時間前で、店内に客はいなかった。


 「バイクでどれくらいかかった?」


 マスターは気さくに聞いてくる。

 見た目三十代後半か四十代といった感じで、とにかく目を引くのが見事に蓄えられた髭だ。

 空色無地のTシャツに、店名の入ったデニム地のクリーム色のエプロンをつけている。


 「一時間はかかりました」


 「じゃあ、疲れただろうから、少し休んで」


 「はい」


 「十時のオープンまではまだ一時間あるから。指定した時間よりもだいぶ早く来てくれたからね」


 かけるが勧められたカウンター内の丸椅子に座った。


 「道、迷わなかったかい?」


 「はい。事前にネットのマップでチェックしてきましたから。八幡宮の方へ行くと道が混みそうなので、山を越えてきました」


 「山?」


 「公園になってる感じの」


 「ああ、源氏山だね」


 「神社にも寄ってきました」


 「なんていう?」


 「読めないんです。原とか岡とかついてましたけど」


 「葛原岡くずはらおか神社か。縁結びのパワースポットだ」


 「別にお願いごととかではないです」


 翔が少し慌てたようなのでマスターは笑って、一度奥に入った。

 そしてすぐに何かを持ってきた。


 「はい、ユニフォーム」


 「ありがとうござます」


 ユニフォームといっても、渡されたのは今マスターが着用しているのと同じエプロンだった。


 「服装は自由でいいから、このエプロンだけしてて」


 「はい」


 マスターも翔のそばの丸椅子に座った。


 「この店はカフェで、昼食時はピラフかサンドイッチ限定で軽食も出す」


 「軽食…ですね」


 「夜はスナックにもなるんだけど、オンラインの面接でも言ったように君の勤務時間は五時まで」


 「はい。聞いています」


 そして、マスターは、穏やかに翔の表情を見た。


 「LINEのビデオ通話で見るよりも、なかなかイケメンだねえ」


 マスターが笑うので、翔も照れたように笑みを漏らして少しうつむいた。


 「君も僕の髭に驚いたかもしれないけどね、これはね」


 マスターは聞いてもいないのに話を始める。


 「前は普通に剃ってたんだけど、コロナ禍でマスクしてた頃はどうぜ見えないし、いちいち剃るのも面倒になってね、マスクの下で伸ばしてたらこの通りさ」

 

 「はあ」


 翔は何げなくという感じで、ガラスのウインドウ越しの海に目をやった。

 前を走る国道の向こうが海岸だけど、砂浜は国道よりも少し低いのでここからは見えない。だが、砂浜の先に果てしなく広がる海はよく見えた。


 「この辺は海水浴場じゃないんですね」


 「この浜は遊泳禁止さ」


 「そうなんですね」


 「なんだか浸食ですぐに深くなってるからとか、知らないけどな」


 「でも、サーファーはいるんですね」


 「いるよ」


 「遊泳禁止なのにサーフィンはいいんですか?」


 マスターは声をあげて笑った。


 「発想が逆だよ」


 「逆?」


 「遊泳禁止だからこそサーフィンができるんだ」


 「はい?」


 「基本、サーフィンは波が呼べばどこででもできる」


 翔は視線を海からマスターに戻した。


 「でも、夏のこの時期は海水浴場として指定されたエリアは、このへんだと由比ガ浜、材木座、片瀬とかだけど」


 「片瀬?」


 「エノスイのとこさ。エノスイって江ノ島水族館ね」


 翔はうなずいた。


 「そういった海水浴場では、海開き以降は海水浴規制っていって早朝や夕方以外はサーフィンが禁止される。だから、遊泳禁止というのはサーファー天国と同義語だ」


 そしてマスターはまっすぐに翔を見た。


 「君はサーフィンはしないのかい?」


 翔は首を横に振った。


 「いえ、全然。もっぱらバンドとバイクです」


 「まあ、弟とバンド仲間だからな」


 「はい、ゼンコー、いえ、善幸よしゆき君が紹介してくれたおかげですね。お兄さんの店を手伝ってよと」


 「あいつ、音読みでゼンコーと呼ばれてるのか」


 マスターは笑いながら言った。


 「聞いていると思うけど、いつも長期でバイトしてくれてる学生がどうしても二週間ばかり休みたいって言ってね」


「はい、聞いてます」


「それで善幸に誰か友だちで代りをやってくれる人いないかって聞いたら君を紹介してくれた」


 マスターはゆっくり立ち上がった。


 「ま、そんなわけで二週間という短い間だけどよろしく頼むよ」


 「こちらこそ、よろしくお願いします」


 マスターは翔にこの店のメニューを見せた。翔も立ち上がった。


 「とりあえずはメニューを覚えて」


 メニューにはコーヒーとカフェラテのほかは、各種レムネードなどのジュース類、コーヒーフロートやクリームスカッシュなどのアイスクリーム類、そしてビールなどが写真入りで記載されていた。

 昼食時限定の軽食は、別メニューボードだ。

 

 「あとは注文を聞いて、できたものを運んでくれたらそれでいい」


 「はい」


 「慣れてきたらレジもお願いするかも。電子マネーの人も増えてきたけど、現金払いの人もまだまだ多いから」


 「わかりました」


 「お客さんはサーファーの常連客がほとんどだから、そんなに緊張しなくてもいいよ。たまにそうでない人も来るけど」


 「僕はてっきり海水浴客相手だと思ってました」


 「さっきも言った通り、ここは海水浴はできないからね」


 マスターはにっこりと言う。


 「それに、海水浴客相手だと夏の一時期に限定されちゃうけど、サーファーなら一年中いるから」


 「え? 冬でも?」


 「ああ、ウエットスーツ着て、冬でもやってる」


 「ウエットスーツとは?」


 「そのうちわかるよ」


 マスターはそう言って笑った。


 開店時間となった。

 開店準備も今日はマスターが手際よく準備するのを、翔は見学しているという形だった。

 最初の客が来たのは、開店から十分くらいしてからだった。


 皆、海に入っていたままで来ているけど、普通の海水浴に来た人のような水着ではない。

 男性は遠目では海パンだと思っていたが、実はウエットパンツという膝くらいまでの特殊な素材のパンツだ。

 女性は同じようなサーフパンツに、上半身にはタッパーという上着をつけている。決してビキニの水着などではない。

 海から国道を越えてこの店に来るまでの炎天下ですぐに乾いてしまったのか、そのままでも店の椅子が濡れることはなかった。


 「今、彼らが来ているのがウエットスーツ。冬場はもっと長袖長ズボン型の頑丈なものになる」


 翔の耳元で、マスターがささやくように言った。

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