第一章『交錯する悪意』-1

 温かな風が、街を吹き抜けていく。

風はビルの間を抜け、行き交う人々の頬を撫でて行く。群衆の中に季節の変わり目に思いを馳せる者はほとんどいない。

 けれど、その青年だけは己の顔を掠めた風に、季節の変わり目を意識した。

 黒の髪は短めのツーブロック。服装はライトグレーのジャケットと紺色のジーンズ。中肉中背、良くも悪くもこれといった特徴のない見た目である。

 青年は花束の入ったバスケットを手にしていた。来る途中、花屋で見繕ってもらったそれらは、季節のものを中心に、淡い赤や黄色、白の花弁でまとめられている。

 繁華街の中心――歩行者天国――に差し掛かる。周囲を見ると、春先であるからか、いつもより人が多く歩いているように感じた。皆、明るい表情でショッピングなどを楽しんでいる。

 しかしそんな中に、一人例外がいた。

 歳は青年とそれほど変わらないであろう男が、一人立っている。人の流れと逆方向を向いており、しかしその焦点は定まっていない。

「うっ……」

 その男を視界に入れたと同時に、青年は強い不快感を覚えた。男から黒いもやのようなものが発せられているのが“視える”。さらに、男から漂う刺激臭。酸と硫黄、髪を燃やした時の臭いを合わせたかのようなそれは、青年に吐き気を催した。

 咄嗟に青年は鼻を押さえ、男から視線を逸らした。そしてその場から離れるべく、足を速める。

 周囲は立ち止まったままの男に怪訝な視線を向けるが、話しかけようとする者はいない。

「ふ、ふふふふふふふふふ……」

 男は俯き、クツクツと肩を揺らして笑い始めた。いよいよ危険ではないかと周囲の人々がざわめき、距離を取ろうとした矢先。

「殺してやるぅううううううう!」

 男は叫びながら上着のポケットから布に巻かれた何かを取り出す。布を剥がすと、そこには刃渡り10センチほどのナイフがあった。

 突然凶器を振り回し始めた男を見た人々は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。男はそこから逃げ遅れた者を探した。

 一人の少女がいた。黒をメインとしたピンクのメッシュの長髪。着ている服は左の袖だけが長く、手が隠れるほどである。派手な見た目ではあるが、気が強そうでもない。男が狙うには恰好の獲物である。

 少女は騒ぎの中にも関わらず、誰かを探しているようであった。朱色の瞳は逃げて行く群衆に向けられ、男には気づいてすらいないようであった。

「――あっ、いた」

 探し人を見つけたのか、逃げ惑う群衆へと向かおうとする少女。しかし、男はすぐ背後まで迫っていた。

「死ねぇえええええええええええええええ!」

 叫び、手にしたナイフを少女に突き出す。

 しかし、その刃が当たることはなかった。

 少女が男の動きに合わせるように攻撃を右横に避けたからであった。避けられると思っていなかった男は、勢いを余らせつんのめる。

「もー、邪魔しないでくれませんか」

 唇を尖らせ、少女は体を回すようにして男の足を払う。支えをなくし一瞬宙を舞った男は、受け身も取れずに地面に打ち付けられた。

「ぐっ……」

「寝ていてください」

 少女は無防備な男の顎を蹴り抜く。スニーカーの爪先は、正確に意識を刈り取った。

 男が気絶したことを確認すると、少女は足元のナイフを蹴り、持ち主から離した。

「さて、“彼”は……」

 改めて探していた人物の方を向く。花の入ったバスケットを持った青年。その“彼”は人混みの中に消えようとしていた。

「あ、まずっ!」

 せっかく見つけたのに、ここで見失うことは避けたい。さらに、サイレンの音も聞こえてきている。警察に拘束されれば、しばらく彼を見つけることはできないだろう。

 ざわつく周囲の反応をよそに、少女は青年を追うべく人混みへと走った。

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