第9話 二人きりの買い物

「千代、着替えたのか、早く行きなさい!」


 と、ここで後ろからお父様に声をかけられ、私はハッと我に返った。


 カヨ子さんも慌てて沖さんから離れる。


「やあ、千代さん。良く似合うね」


 沖さんは、まるで先程までの出来事などなかったかのように素知らぬ顔で手を振った。


「それじゃあ、行ってきます」


 私はどこか気まずい気持ちで家を出た。


「ほら見て。この色、この形! 格好良いだろう」


 玄関を出ると、沖さんが子供みたいな顔で車を自慢してくる。


「そ、そうですね」


 私は口をポカンと開けた。


 それにしても、沖さんったら、自家用車まで持ってるなんて、どういうこと?


 女学校には華族の娘も通ってるけど、その子の家にすら自家用車は持っていないのに……。


 ただのカフェーのマスターに、そんなに儲けがあるものかしら。


 まさか、葉っぱのお金で騙して買ったんじゃないでしょうね。狐だし、ありうるかも。


 私が疑いの目で見ていることも知らず、沖さんは嬉しそうに車の説明を続ける。


「見てよほら、これが走るんだよ。格好良いだろう?」


 沖さんったら、大人の男の人なのに、こういう所はまるで子供みたい。


 沖さんは車のドアをいかにも紳士的な仕草で開けた。


「それより乗ってよ、お嬢様。今日は君と出かけたくてここまで来たんだ」


「出かけるって、どこへですか」


 私が尋ねると、沖さんが答えた。


「さあ、どうしようかな。実は決めていないんだ」


「どこか、行きたいところがあるわけではないのですか?」


「うん、ただ千代さんと一緒にどこかへ行きたいだけ。三越がいいかな。それとも丸善? 千代さんはどこへ行きたい?」


 ウキウキと楽しそうな沖さん。

 私はため息混じりに答えた。


「それじゃあ、丸善へ行ってもらっても良いですか? 文具を見たいので」


「いいね、文具だけじゃなく、洋服でも着物でも、何でも買ってあげるよ。バーバリーのコートはどうだい?」


「いえ、大丈夫です」


 私が素っ気ない口調で答えると、沖さんは嬉しそうに車を発進させた。


「了解」


 車はあっという間に赤レンガ造りの四階建て建物に到着した。


 丸善といえば、明治の初めころから万年筆のインクで有名になったお店。


 今では万年筆の他に、書籍やタイプライター、珍しい輸入雑貨なんかも扱っていて、女学生の間でも人気があるんだ。


 私が一階の文房具売り場へと向かっていると、沖さんが後ろから尋ねてくる。


「文房具が欲しいの?」


「はい。少し、便箋や封筒を見たいので」


「手紙を書くの?」


「学校で友達同士で手紙を交換するのが流行っているんです。授業中にこっそり回したり、靴箱に入れたり」


「へえ、そうなんだ。面白いね。世の女学生たちはそんなことをしているのかあ」


 私の説明を興味深そうに聞く沖さん。

 変なの。女学校の話なんて何が面白いのかしら。


 まあ、男性にしてみたら未知の世界なのかもしれないけど。そもそも狐だし。


「ほら、こっちに便箋あるよ」


 沖さんが教えてくれる。


「本当だわ」


 私は急いで便箋の売り場へと向かった。

 そこには薄桃色に白に藤色。可愛らしい便箋が所狭しと並んでいる。


 うわあ、なんて素敵なんだろう。まるでこの世の楽園だわ!


「あ、この小鳥の封筒、可愛い。こっちの野ばらも良いなあ」


 これは百合子さん宛にしようかな。こっちは喜久子さんに……。


 私が封筒や便箋を何枚か手に取って眺めていると、ふと文房具の横で売られている大きな赤いリボンに目が行った。


 あ、これ可愛い。


 胸がトクンと高鳴る。


 今、女学生の間では頭に大きなリボンを付けるのが流行ってる。


 袴にブーツ、それに大きなリボン。それが今どきの女学生の象徴で、女子たちの憧れなの。


 中には、女学校に通っていないのに女学生の真似をしてリボンを付けたりする女の子もいるんだって。


 私が今身につけているのは紫のリボンだけど、この赤も制服に合いそう。


 そんなにハッキリした赤じゃなくて臙脂えんじっぽいのもいいし、ツヤ感や形、大きさも可愛い。


 買おうかな。どうしようかな。


 私が迷っていると沖さんが横から顔を出した。


「それ、買おうか迷ってるの?」


「は、はい」


 答えると、沖さんはひょいっと私からリボンを取り上げた。


「貸して、付けてあげるよ」


「えっ」


 沖さんは、固まる私をよそに、慣れた手つきで私の頭にリボンをつけると、私の顔周りの髪を軽く整えた。


 耳の辺りに、沖さんの白くて長い指が、微かに触れる。


 う……うわあっ、男の人に髪を触られるのなんて初めて。


 沖さんに触れられた箇所が、熱を持ったみたいに熱い。


 ドキドキドキドキ。


 嫌だ。心臓の鼓動がやけにうるさい。


「ふふ、そんなに赤くならなくてもいいよ。可愛いね」


 おかしそうに笑う沖さんに、頭に血が登ったようになる。


「し、仕方ないでしょう!? 普段女学校には殿方なんて居ないんですから!」


 ムキになって言い返すと、沖さんは心底おかしそうに笑う。


「あはは、それは失礼」


 もう、何が面白いんだか!


 私がぷうとふくれていると、沖さんは何だかやけに嬉しそうに目を細めた。


「おわびと言っては何だけど、その便箋とリボンは僕が買ってあげよう」


 私が返事をする前に、沖さんはさっさとお会計を済ませて戻ってきた。


「はい、どうぞ」


 ……むう。


「ありがとうございます」


 私は素直にお礼を言うことにした。


 封筒と便箋、リボンだけじゃない。


 雑誌にハンカチーフにバレッタ、私が欲しいと思ったものを、別にねだったわけじゃないのに、全部買おうとしてくれる沖さん。


 一体どういうつもりなの?


 そんなに私、みすぼらしく見えるかしら……。


 私は恥ずかしくなって、少し下を向いた。


 




 

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