第五章

第16話「実験-前編」

 翔太の顔がそのまま迫ってきた。


「目、閉じろよ……」


 その少し掠れた思ったより低い声に、華はドキリとした。心臓が勝手に早鐘を打っている。華はそれを制止しようと胸を押さえて、ぎゅっと目を瞑る。


 どうして、こんな事になってしまったのか――


***


「人の最も優れているところは『忘れることが出来る』事である」


 いつかプレイした、ゲーム内の大賢者が言っていた。


 長雨が続き、季節は逆行している様だった。雨は憂鬱さの他にも、湿気で電気周りをおかしくさせるので普段はあまり好きではないが、紫陽花だけは別だと華は感じていた。


 この季節に、雨の中でこそ映える花。この幻想的な情景が、華はとても好きだった。登校中、雨に濡れた紫陽花を見るだけで、この季節も悪くないと思えてくる。


 そんな穏やかな心持ちで登校して教室に入った華は、黒板を見てギョッとした。


 すっかり忘れていたが、日直当番――

 隣に「浅川翔太」の文字。


 今まで何とか頭から消し去ろうとしていた、名前が蘇ってくる。人間はそう簡単に忘れる事なんて、出来ないじゃないか。華は大賢者に悪態をつきたくなった。


 華のクラスは、出席番号順に男女ペアで日直を担当するが、男女の数が違うので少しずつペアがズレていく。なのでたまたま翔太とペアになってしまった様だ。


 なんの因果だろう――


 少し前までの自分でも動揺していただろうが、今の自分の比ではないだろう。というか、怖い。何故怖いのか、自分でもよく分からない。


 ただ、華はなるべく翔太と接触しない様に、日直当番を終えなければと気を引き締めた。



***


 華は翔太との接触をなるべく避ける為、翔太の先回りをして、日直の仕事をこなしていった。自分が全てやってしまえば、翔太に文句も言われないし、話しかけられる事もないだろう、華はそう考えたのだ。


 ただコソコソしている様で、翔太に対して後ろめたい気持ちもあった。どうして、こんなに翔太と顔を合わせたくないのか、華は自分でもよく分からなかった。


 ただ運悪く、その日は委員会の集まりがあり、全ての日直の仕事を終える前に、教室を出なければいけなくなったが、逆に残りの仕事を翔太がやってくれれば、今日という日を無事乗り越え、帰宅出来ると華は考えた。


 華は急いで、委員会の集まりへ向かった。



つづく


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る