21 和解

 ――ああ、また目が覚めてしまった……。


 この世界はきっと地獄だ。

 鼻腔にこびり付くような悪臭、昼夜問わず聞こえる金切り声、そこら中に転がる動かぬ人々……。

 嘆く涙もとうに枯れ果て、こんな風景にも見慣れてしまった。

 

 今では私も、この景色の一部と化しているだろう。

 地面は近く、指先ですらもう動かない。

 

 少し前まであった、体を何かが這うような感覚も、いつの間にか感じなくなってしまった。

 空は遠く、霞み、視界の先では蠅がしきりに飛んでいる。

 

 ああ、また眠くなってきた……。

 叶うなら、次はおなかいっぱい食べられますように……。


 ☸︎ ☸︎ ☸︎


 目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。

 ちょうど明け方頃だろうか、窓からうっすらと青白い光が差し込んでいる。

 

 鉛のように重い体を持ち上げ、周囲を見渡してみると、ここは何やら豪華な家具があつらえられた部屋だった。

 私はこれまで見たことがないほど大きく立派なベッドの上にいて、記憶もないが、質の良さそうな寝間着を着ていることに気付く。


 ふと、喉の渇きを感じて、ベッド横の机の上に置かれた水差しに手を伸ばす。

 と、ベッドの縁にうつぶせて眠るアニーの姿が目に入った。


 少し驚いたが、静かな寝息を立てるアニーを起こさないように、そっとグラスに水を注ぎ、ゆっくりと口に含む。

 水は口から喉を通って、胃へと落ち、そして全身に染み渡っていく。体が満たされるような心地よい感覚に、目を閉じて浸った。


 ……何か、夢を見ていた気がする……。


 満たされていく体とは裏腹に、心の奥にぽっかりと穴が空いているような感覚がした。

 大切な何かを忘れているようで、記憶を手繰り寄せて思い出そうとするが、それはどんどん遠ざかっていくばかりだった。

 

 ほどなく考えることを諦め、閉じていた瞼を薄く開けると、再びアニーの横顔が視界に入った。

 ふいに瞼が開き、目が合う。


「ニコラ、目が覚めたの!」


 アニーはそう言うと同時に、慌てて体を起こした。その目には、涙が滲んでいるように見える。

 アニーは私の額に触れてたりして、熱や体に違和感がないか忙しなく確認していく。


 「……あの後、ニコラは気を失って倒れて、丸三日も眠り続けていたのよ」


 ひとまず問題ないことを確かめたのだろう。アニーは心底安心したようにしみじみと私の顔を優しく撫でながら、そう教えてくれた。

 そして「みんなにも、ニコラが目覚めたと知らせてくるわ」と言い残して、部屋を出て行った。


 また静まり返った部屋に取り残され、アニーの言った「あの後」という言葉をきっかけに、倒れる前の記憶が甦ってきた。

 窓の外からは、夜明けを告げる鳥たちの小さな声が聞こえてきた。

 

(そっか。あのサラマンダーは、無事に被害を出さずに噴火できたんだ……)

 

 最後の記憶が現実で、そして今すべてが無事に終わっているのだということを、先ほどのアニーの言葉や周囲の気配から改めて実感し、胸をなでおろす。

 一息ついて、改めて部屋を見渡してみた。この豪華な部屋は、おそらく皇城の一室なのだろう。

 

 意識が徐々にハッキリしてきて、自分の置かれている状況を冷静に把握し始めた。

 窓から差し込む光が、部屋を薄い黄色に染め上げていく。

 

 記憶の詳細が少しずつ蘇り、私たちに毒を向けていたアイディーンや、恐らく皇帝だったのだろう男性の姿を思い出し少し気が沈む。すると、部屋の外から、誰かが速足でこちらに向かってくる音が聞こえてきた。


「ニコラ、大丈夫か!?」


 驚いたことに、部屋へやってきたのはアイディーンだった。

 アイディーンは私がいるベッドのそばにやってきて膝をつき、額に手を当てたり、体調の確認をしてきたりと、先ほどのアニーと同じような動きをする。その明らかに私を気遣うその様子は、記憶の中の彼女の態度とかけ離れていて、私は驚いて固まってしまった。


「良かった……なかなか目を覚まさなくて、本当に心配したんだ。無事で……本当に良かった」


 そう言って、アイディーンは私の手に自分の手を重ね、そっと握った。

 その表情はとても穏やかで、どこか懺悔の色と慈愛の色がにじんでいた。

 

 私はその姿を、茫然と見つめることしかできなかった。

 そうしていると、部屋はますます朝日で溢れ、窓から差し込む黄色い光を受けたアイディーンの豊かな赤髪が、徐々に黄金に輝きはじめる。

 眩しさに、思わず目が眩んでしまいそうな眩いその光景は、まさに、神が遣わした炎の乙女そのものだった。


 ⚚ ⚚ ⚚

 

「何か食べられそうか? もし、体調に問題がなければ、話したいこともあるし昼食をともにしよう。また後でな」


 そう言い残して、部屋に向かってくる足音に気付いたアイディーンは、部屋を後にした。

 彼女と入れ替わるように、ノアラークの仲間たちがぞろぞろと部屋に入ってくる。みんな、私が目覚めた姿を見て喜び体調を気遣うのも程々に、この数日で散策した、城の内部の様子を興奮した様子で語ってくる。

 そんな変わらぬ仲間たちの姿に、私はようやく日常に戻ったのだと実感し、自然と頬が緩んだ。


 ボブによる診察を受けたり、仲間たちの話を聞いたりしているうちに、午前の時間はあっという間に過ぎ、アイディーンと約束した昼食の時間になった。

 目覚めたばかりの私に無理はさせられないとの配慮で、アイディーンの方からこの部屋を訪れ、庭に面したテラスで昼食を取る。ノアラークの代表としてアニーも同席した。

 

 準備ができ案内されて席に着くと、テーブルには私の体調を考えてか、消化に良さそうな料理が並んでいた。

 取り分けられたお粥を、なるべく温かいうちにとスプーンで掬って口にする。

 

(……ん? この味、なんだか馴染みがあるような……)

 

 と、気になってお粥を見つめていると、アイディーンが私の様子に気付いて口を開いた。


「ああ、そのお粥は、お前の船の料理人が作ったものだぞ。あいつ、『ニコラが口にする料理を作るのは私だけ!』とか言って、城の厨房に押し入ってな……。まあ、お前たちには恩があるから、自由にさせてやれと私も許したわけだが、あいつめ、ついでにこの国の料理を勉強したいと言い出したかと思えば、さらに、何やら料理人たちに布教したりして……本当に好き勝手にやっている」


 アイディーンの話ぶりから、サリーが本当に好き勝手にしている姿が目に浮かぶようだった。私の横に座るアニーも、苦笑いしながら頷いていて、つい笑ってしまう。

 私の笑顔を見て、アイディーンとアニーはほっとしたように微笑んだ。

 その後は穏やかな雰囲気の中、ノアラークの仲間たちの他愛無い話などをしたりして、アイディーンとの食事を楽しんだ。


「……ニコラ、お前には本当に悪いことをしたと思っている。正直に言うと、私は最初からお前のことを知っていて、お前を引っ張り出すために、かなり酷い態度をとっていた。お前たちを脅したりして、許されることではないと重々承知しているが、どうか謝罪の気持ちだけでも受け取ってほしい」


 食事も一息つき、お茶を飲んでゆっくりしていたところ、アイディーンはおもむろにそう言って頭を深く下げた。

 アイディーンの姿に、色々な記憶と感情が再び甦ってくる。

 

 確かにアイディーンに対して、穏やかではない感情を抱いていた。

 しかし今思えば、乙女としての期待と重責を一身に背負い、それでも役目を果たせず、明日にでも噴火し国が滅んでしまうかもしれないという恐怖を日々抱えていたであろうアイディーンの心情を想像すると、無理もないように感じる。

 その状況で、国を救えるかもしれないチャンスが転がり込んだら、どんな手を使ってでも利用しようとするのは仕方のないことだろう。

 

 横で微笑むアニーの様子から察するに、アイディーンとアニーはすでに和解しているようだ。であるならば、私一人が怒り続ける理由もない。


「私はもう、気にしていません。謝罪を受け入れます」


 そう告げると、アイディーンは伏していた頭を上げて「ありがとう……」と柔らかく微笑んだ。きっと、これが本来のアイディーンの姿なのだろう。

 目覚めて以降触れてきた、アイディーンのカラッとしたおおらかな性格は、私にとってとても好ましいものだった。

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