1・A愛CはC素E晴SらSしOいR!Y

1話

 ため息が出るほど美人な女、つまり私が不安そうな顔を浮かべて鏡に映っている。

 頭が痛い。何が起きたのかははっきりとわかっていた。掛けていた眼鏡は、フレームが曲がっている心配だってあったが、特に異常は見当たらなかった。

 ふわりとした長い茶髪の隙間から覗く、血の滲んだ包帯が痛々しい。

 ああ、可哀想な、私。

 頭を殴られた、それだけはわかっていた。犯人は拘置所に送る前に、一晩中私の自宅の窓から吊り下げておいても、咎められない気がした。

 ここは飲食店のトイレ〈個室が三つある女性用。窓がある〉だった。例に漏れず、大して綺麗でもないが、用を足すのに躊躇するほどでもなかった。こんなトイレにも、私のポスターが飾られていることは評価に値する。偉い。

 鏡の隣に貼られたポスター〈美しい女がニコニコと、微笑んで立っている宣伝用の紙〉。

 対崎ありえ。それが私の名前だった。記憶喪失〈一時的なショックで記憶の連続性が断たれる症状〉だなんて作り話でしか聞いたことがないような事態に陥っていないことに、まず私は胸をなでおろす。顔の可愛らしさも、ポスターと遜色がない。撮影するのに苦労したっけ。何度撮っても、実物の私ほど可愛くはならなかった。

 はっきりと覚えている。私は誰かに呼び出されたあとに、後ろから頭を殴られて、意識を失っていた。それを、今私の後ろでぼーっと腕を組んで立っている女に叩き起こされて、とにかく治療をするというので何故かトイレと言う不衛生な場所に連れ込まれた。

 後ろの女、箭原ノノコ〈髪は黒く、長い。背丈も高く、細い。対崎ほどの美しさはないが、異常な美人〉は私に、心配そうな声色すら見せないで、訊いた。

「どこかおかしいところはない?」ハスキーで、面倒くさそうな声だった。

 そう言われても、記憶におかしなところはないが、頭を殴られてすぐに元気が出る人間なんているわけがない。私は試しに泣いてみたが、箭原に鼻で笑われた。冷酷な女だと思った。

「……よくわからないわ。頭が痛い」

 落ち着いてから、私がそれを告げると箭原は私の頭を、かぼちゃの切れ目でも探るみたいに、不躾に触り始める。

 彼女の手。右手が義手〈事故や何かで失った本物の腕の代わりに装着する人工の腕〉だった。仰々しく機械部分がむき出しで、見たこともない素材で作られているかのようだった。私の頭に、その鋭そうな指先で穴を開けるつもりなんじゃないか。

「あなたの名前は?」箭原が当たり前のことを質問する。

「対崎ありえ。あんた、私のこと知らない?」

「あなたほどの有名人なんて、誰でも知ってるよ。肩書は?」

「探偵学校の三年生。探偵志望で、この街の治安を守っている超絶美人名探偵……」

「盛らないで」

「だって……本当だもん」

「年齢は」

「失礼な。同い年でしょう」

 私は彼女の手をどける。

 箭原は義手を汚いものでも触ったみたいに、水道で洗ってから反対の手で手袋を取り出した。

「それだけ元気なら大丈夫そう」箭原は私に向き直った。手をぶんぶんと振って乾かしながら。

「えっと……何が起こったわけ?」私が質問をする。「殴られたことは覚えてる。その後は、もうこのトイレしか覚えてないわよ」

「店を出たところの裏路地に、うつ伏せに倒れてたんだよ」箭原はため息を吐いてから説明する。面倒臭いらしい。「出血が多かったから死んでるなこいつって思ったけど、揺すったら起きた。頭を殴られた人って動かしちゃダメって聞いたのを思い出したのは、ついさっきだよ」

「そんなのは先に思い出しなさいよ! この頭がおかしくなったらどう責任を取るのよ。街の平和〈この街の犯罪の三割程度はこのアマチュア探偵の対崎ありえ一人が解決している〉がこれに掛かってるのよ。私の明晰な頭脳に……」

「よく自分でそこまで褒められるね」箭原は義手に手袋をはめる。「なら推理クイズを出すよ」

 そう言って、箭原は何故か私という名探偵に対して、くだらない推理クイズ〈探偵学校の授業で用いられる犯罪演習〉を何問か出した。

 こんなものは瞬時に解ける。そう思っていた。

 思っていたのに、私の頭は、砂を棒で殴っているときみたいに、何もはじき出さなかった。

「対崎」箭原が予想外とでも言いたげな顔を見せる。「……ねえ、やっぱり頭の調子、悪い?」

「頭が痛くて集中できないだけ。もう一問出してよ」

「出すまでもないよ」箭原は私の肩を掴んで、言い聞かせるように告げた。「良い、対崎。多分、対崎は頭を殴られた衝撃で、推理みたいな重い頭脳労働行為が出来なくなってるんだよ」

「は? 何言ってんの。出来るってば」

「出来てないよ。この問題は、過去に授業で秒殺した推理問題だよ」

 うげ、と私は唸る。

「つまり……あなたは名探偵の武器である推理能力を失ったってこと」

 推理能力〈対崎ありえの推理は芸術とまで言われる〉が、無くなった。嘘だ。信じられない。この箭原のバカが適当を言っているに違いない。信じたくない。耳をふさいで、首を振った。

 けれど、頭がどこかずっとぼーっとしてる事実が、それを裏付けている気がした。

 どうすれば、これから先、私は……

 憎い〈憎悪 ときに殺意になる〉。殴った犯人が、私は憎かった。窓から吊り下げるだけで、この気持は収まらないだろう。まずは全裸に剥いて、それから五回は殴ろう。それで足りるのかはわからないが、早く実践したかった。

 頭の包帯をめくって、傷口〈殴られた跡 横幅は三センチほどと細い〉を見た。

 そういえば、薄々感づいていた。私の目というか頭が、周囲の物事を勝手に分析して拾っている〈つまりこの括弧内の情報のこと〉ことを。

 箭原にそれを説明すると、彼女はしばらく考えてから、

「多分、きっと……推理能力を失ったあなたの頭だけど、必要な情報を拾う観察眼はオートメーションで動いてるんだよ。それを、頭は処理できてないんだね」

 なるほど。わかったようなわからないような感じだった。

 けれど、これは推理が出来なくて悲しんでいるよりも、ずっとマシだった。私が経験で培ってきた、この観察眼は生きているのだから。神よりも、私は自分の実績に感謝をした。

 私は人に自慢できるほどの顔を両手で叩いて、箭原に言う。

「そこに犯人がいるなら、私を陥れたクズがいるなら……捕まえない手は無いわ。私は……名探偵よ。こんな状況だろうと、やってやるわよ」

 そうして私は、自分の姿が映されたポスターに向かって拳を突き出した。

 私に誓おう。犯人を、全裸に剥いて殴り倒すことを。



 箭原が私に、「どうしてこの店に来ていたのか、経緯を教えて」と訊いた。私が解決すると言っているのに、どうしてこの女が出しゃばっているのか気に入らなかったが、私は整理という意味で話した。

 この店に来たのは、付き合っている彼女〈対崎は男に興味がなく女の好みもうるさい〉、海野舞美とのデートの一貫だった。

 まだ深い時間帯ではなかったが、私たちは気を良くして酒を飲んだりしていた。彼女と一緒にいる時間が、私にとってはオーガズム〈性的快楽 説明するまでもない〉にも似た最上の幸せだったのだけれど、それはそれとして酒を飲むのは好きだった。酔っている間は、なんだか肩の荷が降りるような気さえした。

 狭い店内だ。裏路地を突き進んだところに存在する、隠れ家とも言える喫茶店だった。それが却って心地よくて、それなりに客の出入りは激しかった。

 私という有名人は、真に自由になれることなんて許されない。私がけたけたと笑いながら飲んでいる様子を、お客が見つけてサイン〈有名人本人に名前を書いてもらって、それを神格化する行為にどんな価値があるのか〉なんかをねだりに来る。私のファンらしい。彼女たちは別に私の好みではなかったから、連絡先は尋ねなかったけれど、軽く微笑んでやると悲鳴を上げながら彼女たちの一人が気を失った。まあ私の顔面を持ってすれば、こんなことは容易い。

 そうして舞美が嫉妬に狂っていないことを祈りながら、彼女の手を握った。

 海野舞美〈適当に切りそろえた髪が可愛らしい、対崎好みの華奢な女〉は、不機嫌そうな顔を隠しはしなかったが、まあそれでもまんざらでもなさそうに、私の目を見て言う。

「対崎ありえは、どこへ行っても人気ね」

「妬いた?」〈嫉妬 ときに殺意になる〉

「そんなの、恋人に直接言わないの」

「私、別に女遊びなんてしてないわよ」

「どうだかね……」

「私が愛してるのは、舞美だけよ。嘘を言っているように見える?」

「それで元カノは何人いるの」

「それは……聞かないで」

「まあ、かつてのあなたが女の子に言い寄られて、それで断りたくないから付き合っていた。それが複数人になって、タコの足みたいに絡まっちゃったってのは、知ってるわよ。断ればよかったんじゃないの?」

「悪いとは思ったわよ」私は酒を飲む。「でも、なんだか悪い気がして。どうせ、向こうも本気じゃない人ばっかりだし。私で……わずかばかりの幸せを提供できて、笑顔にできて、思い出にできて、それで笑顔で別れられたら、そのほうが良いかなって、思ってただけ」

「それ、女たらしの言い訳でしょ」

「言い訳じゃないってばー」

 私は、本気でそう思っていた。私の夢は、この区を代表する探偵。彼女だって、口ではそう言っているが、本当のところ、私が何を目指しているのかは理解している。彼女だって、私と同じ学校に通う探偵志望だ。愚かしい推理で、私に妬いているわけではない。

 とは言うものの、舞美は私ほどの探偵としての能力を持ってはいない。後輩には慕われているようだが、本人は学校から落ちこぼれという判定を食らうほど、探偵に向いていなかった。

 卒業も危ぶまれている、彼女はそう漏らしていた。私は彼女の力になってあげたいと思う。愛であればいくらでも差し出す。金銭であれば、いくらでも稼いでくる。探偵としての素養なら、学校以上に私が教えてあげるつもりだったが、彼女も変に頑固らしく、私の申し出は全て断っていて、健全な付き合いに帰結していた。

 だから近ごろはピリピリと話しかけづらい雰囲気すら放っていた彼女だったが、今日のデートは楽しみだったらしく、私に小言こそ言えど、心の奥では楽しんでいるように笑っていた。

 区外から仕入れているという食材〈海産物が多い〉を用いた珍味を食べて拍手をしていたところだった。先程トイレに行った海野舞美が、口をへの字に曲げながら、私に一枚の紙切れを渡して、正面の席に戻った。

 紙には「名探偵の対崎ありえさん 相談したいことがあるんですが、直接は話しづらいんです。店の外、裏口から出たところの裏路地で待っています どうしても、対崎さんにしか頼めないんです」と綺麗な文字〈女性的で、対崎好みの女が書きそうな字〉で書かれていた。

 舞美は行くなと言ったが、先程も言った通り、私は困っている女の子を放っておくような薄情な人間ではなかった。相談くらいなら、大して時間は掛からないだろう。どういった内容なのかを聞いてから、正式な依頼として私の窓口に連絡を入れてもらうようにすれば良い。

 舞美に断って、私はそろりと裏路地に出た。汚らしい場所だ。この街において、綺麗な場所なんてあまり存在しないが、これで店は繁盛しているから不思議だ。小便や吐瀉物みたいな臭いが漂っているが、本当に臭うのか私の印象が生み出している幻覚なのかはわからなかった。

 しかし、私を呼び出した女は見当たらなかった。おかしいと思ったが、まあなにか事情があるんだろう。そう思って私は、壁の落書きをじっと眺めながら〈どこで学んでくるのかしっかりとしたグラフィックアートだ〉、私を呼び出した彼女を待っていたところに、

 頭に衝撃があって――、

 現在、トイレの中に至る。

「へえ」箭原は何が納得だったのか、頷いた。「私、裏口の前に座ってたんだよね。気づいた」

「あんた影が薄いから気づかなかったわ」

「対崎が目立ちすぎなんだよ」箭原は腕を組んだ。「対崎のいた裏路地へ出るにはここから出るしかないんだよね」

「じゃああんた、犯人を見たってことじゃん! これで解決よ、教えなさい」

「稀代の名探偵がプライドもクソもないんだね……」箭原は苦笑いをする。「でも残念だけど、あなたが出ていってすぐ、私もトイレに行った。十三時十分だったかな。そこから二十分までは戻ってこなかったよ。つまり、この間に犯人は裏口から出て対崎を殴ったんだろうね」

 こいつに発見された時、私は野次馬〈全て店の客 有名人の死体を見たいのが人間の性〉に囲まれていた。誰が一番に発見したのかは知らない。頭が痛くて、何が起こっていたのかよくわからなかったが、箭原が気の抜けた声で、私を赤ん坊を寝かしつけるみたいな力加減で揺り起こしていたことしか頭に入らなかった。箭原が席に戻ってから、十数分後のことだという。

 現場から凶器は見つかっておらず、箭原はとにかく、現場を保存するように舞美に頼み、頭から血が吹き出している私を、野次馬がいないトイレに連れ出し、包帯を巻いてくれた。

「で」私は水道の隅に座りながら、箭原に言う。「あんたはなんでこの店にいたわけ?」

「別に……」箭原は頭を掻いた。「今日は授業が午前で終わりだから、暇だと思ってふらふらと食べ歩きでもしてて、気づいたらここに来てただけだよ。結構美味しい店だって聞くし」

 ちょっと来て、と箭原は私を引き寄せて、トイレのドアの隙間を指差す。

「ここから見えるでしょ、裏口。その近くの一人用のテーブルにずっといたよ」

 覗き込むと、あの汚いドアが見えた。その付近に、確かに箭原の言うような、一人用の席があった。私は、間違いなくこの眼の前を通って、あの忌まわしい裏口へ出た。箭原の存在には、気づかなかったけれど。興味というものは、人の知覚にすら影響するらしい。

「それで……」箭原はまた指で示した。個室を。「そこの個室を使ってた。入り口から、一番奥の。そこが一番綺麗だったし、トイレットペーパーも十分にあったからね」

「あんたのトイレ事情なんてどうでもいいわよ」

「大事だよ、推理力を失った可愛そうな対崎にはわからないと思うけど……」

 腹が立つな、こいつ。私は歯ぎしりをした。

「そのとき他に、このトイレには誰もいなかった。つまり犯人が窓から裏口に出たっていう線は消えて、堂々と裏口から出ていったという可能性だけが残るね。もちろん、私は犯人じゃないよ。対崎なんか殴るメリット無いでしょ」

 箭原を見ると、学校でいつも見かけるような大きな鞄〈きっとろくなものは入っていない〉を傍らに置いていた。席から持ってきたらしい。学校帰りという話を、疑う余地はなかった。

 けれど、状況的に言えば、彼女が犯人という仮説を否定できない。

 箭原ノノコ。学校で優等生だとされるのは、私でも知っている。そんな女が私を殴るメリットなんてあるのだろうか。私ほどじゃないにせよ、それなりに探偵として大成するだろう。無駄な事件沙汰を起こす必要はない。

 探偵なんていうのは、この継院枯区〈違法建築による雑多で不潔で巨大な家屋が横行する独立都市 自治州だとも言われる 外から人はあまり来ず、隣接した区に安全を脅かされている〉に於ける唯一の犯罪捜査機関で、その扱いは区を統治する政治家のやや下あたりという高待遇に位置する。そう考えると、私のスターぶりも、何もおかしいものではないだろう。この箭原だってそういうものを目指しているはずだ。私を殴ってそれを無くすはずはない。

 私は、まあ気に入らないけれどこの箭原を一応は信じることにして、尋ねた。

「それで、容疑者は?」

 言われた途端に箭原は、お手本みたいな苦虫を噛み潰したような顔を見せた。

「まあ、あの、うーん」

「何よ」

「お店の方にみんな留めてるんだけど」

「なら聞き込みよ。事情聴取しましょう」

「それが……さっき対崎がぼーっとしてる時に話をね、ちょっと聞いてみたんだけど、うーん」

 何か言いづらいことがあるのだろうか。親に悪戯を隠すガキみたいな雰囲気があった。

「えっと、頭を殴られた対崎に言うのもアレだけど、混乱しないでね」

 私はその意味をすぐに知ることになる。

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