第47話 イロトリドリノセカイ2

数日後、教授に頼まれた書類を届けに事務棟に行くと、学生課の窓口に蘇芳が立っていた。


声を掛けようかとも思ったが、おれは正式な学籍を持っていないため、なんとなく学生課には近寄りづらい。とりあえず自分の用事を済ませるために、学生課とは逆の方向にあるカウンターに向かった。


用事を終えて振り返ると、蘇芳はまだそこに立っていて、窓口に立つ事務員となにかを話したあと、数枚の書類を受け取った。


どうやらそれで用は済んだらしいのだが、おれの知る限りここではスクールサポートなどの大学経由のバイト斡旋や、実習の手続き、就職相談……あとは単位に関わる論文提出などの手続きが主にされているはずだし、そのうちのどれも今の蘇芳には関係がなさそうなので少し不思議に感じた。なんとなく首を傾げながらその姿を眺めていると、こちらを振り返った蘇芳が財布に学生証をしまいながら歩いてきた。


「どうも」


当たり前のようにそう言って、蘇芳はおれの隣に並んで歩き出す。思えば最初はこいつが視界に入るだけでもびくびくしていたのに、この距離感にもすっかり慣れたなとなんだかしみじみとしてしまった。「おう」と答えながら蘇芳の手元を見やると、まだ真新しい学生証が目に映る。


「なぁ、それって学生証だよな。ちょっと見せて」


「……? 別にいいですけど」


蘇芳は不思議そうな顔をしたが、財布から学生証を取り出して差し出した。しっかりめのプラスチックのカード。学部によってラインの色が違い、蘇芳の所属する文学部は落ち着いた紺色だ。おれは学生証は持っていないけど、恭介のカードはたしか緑色のラインだった気がする。


蘇芳の顔写真はなかなかスマートで、これは特にネタにはならなさそうだった。そして、久しぶりに見る「蘇芳日和」という文字の連なりに、なんだか少しくすぐったいような感覚をおぼえ、無意識に口元が緩む。そんなおれを蘇芳は怪訝そうに眺めた。


「そんなもん見て楽しいですか? おれの弱点とか書いてませんよ」


「書いてたらこんなどころのテンションじゃすまないけどな。おまえの名前、久しぶりに見たなぁって」


「名前……? この間も大声で呼んでたじゃないですか」


「そうだけど。でも、こうして見るのは久しぶりなんだよ。別にいいだろ、ちょっとは感慨に浸らせろ」


「……いや、人の名前で勝手に感慨に浸られてもね……。意味がわからないですけど」


蘇芳は呆れ顔でそう言いながら、おれの手から学生証を取り上げるわけでもなくぶらぶらと隣を歩いている。


最初にこの名を見たときには、ただただこいつの描いた「色」に圧倒されていた。入学式でこの名を見つけたときには、こいつが絵に関わる場所にいないことに驚き、戸惑った。でもその蘇芳の名が、今のおれをこの場所に導いているような気がした。


「そういえば、最近『彩さん』って呼ぶの嫌がらなくなりましたね」


名前のくだりで思い当たったのか、蘇芳は唐突にそう言うと、じっとこちらを眺めた。こいつに出会ったばかりの頃は定番だった、「彩って呼ぶな」「だって彩さんでしょ」の問答のことを言っているのだろう。そういえば、いつからか自分の名前の呼び方にこだわることをなんとなく忘れていた。


「別に嫌がってたわけじゃないけど」


そう言って肩をすくめるが、蘇芳はやはり見透かすように瞳を細める。


「でも、ちゃんと呼んでほしかったんですよね? もう一文字にも、から」


「……なんだ。気づいてたのか」


「だって、そのまんまじゃないですか。彩さんらしくひねりがない」


「願いに捻りは要らないだろ……」


おれは家族もいない妖で、だから当然名前など持たなかった。そんなおれに、明誉は教えてくれた。人間は、願いを込めて子どもの名を名づけるのだと。「名前」を呼ばれるたびに、人はその願いに近づいていけるのだと。


だからおれは、自分の「願い」を明誉に伝えた。そしてこの名をもらった。


いろどり」のある、「ひと」になりたい――それが、白き半妖であったおれの願いだった。


「まぁ、正しく呼んでもらえるに越したことはないんだけど……けどまぁ、最近は、別にいいかなって」


そう言いながら、隣を歩く蘇芳に学生証を差し出す。蘇芳はそれを受け取って財布の中に収めながら、どこか満足そうな表情でふっと笑った。


「そうですね。『彩』さんでいいんじゃないですか。その方が呼びやすいし」


「……理由が軽いぞ」


「呼びやすいに越したことないですよ。その分、いっぱい呼んであげますから」


柔らかな口調でそう言われ、おれはたじろいだ。思わず立ち止まって蘇芳の顔を眺めるが、当の本人は相変わらず涼しげで、足を止めたおれを眺めて「なにしてんですか」というように首を傾げる。


「またそうやって……おれを丸め込もうとするな!」


蘇芳の肩をうしろからべしっと叩いて追い越すと、後ろから可笑しそうに笑う声が追いかけてくる。


「どう考えても、この程度で丸め込まれる彩さんのほうに問題ありますけどね」


構内には、いつの間にか紅く染まった葉がふわりふわりと風に舞い始めている。まだまだ温かさの残る陽の光は高く澄んだ青空からまっすぐに降り注ぎ、金と朱のコントラストをいっそう鮮やかに引き立てる。そんなカラフルな風景の中で、一番目を惹かれるのがよりにもよって「黒」だなんて、なんだか悔しいなと思った。

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