第13話 蒼天の露草色6

「……色が、ない」


「彩さん、いつからこの子と一緒にいました?」


蘇芳は薄暗い色合いに染められたスケッチブックのページを閉じ、表紙についた雨粒を首に巻いていたストールでふわりと拭う。肩に掛けていた黒のリュックから小ぶりな折りたたみの傘を出すと、手早く開いて女の子に持たせた。


「ついさっきだよ。講義が終わったら蘇芳が出てくるんじゃないかって話をして……」


言いながら、周囲を見回す。どこかに「色喰い」がいるはずだ。しかし、女の子の絵から失われていた色彩は、かなりの広範囲に及んでいる。今まで、「色喰い」が複数の色を同時に侵食するのに出くわしたことはなかった。そして、ここまでこの「現象」が進んでいるにも関わらず、はっきりと色喰いの姿や気配を捉えることができないことも、なかったのだ。


「……っていうか、蘇芳もまだ、『色』が見えてるのか?」


おれは、この「力」の副産物で、完全に色を喰われてしまわない限り視覚を失うことはない。しかし、蘇芳は(一応)ただの人間(のはず)だ。


おれと同じように、周囲を見回す蘇芳の表情はいつもと変わらず、「色」にまつわる記憶や思考を失うことで、一時的にどこか朦朧としたような状態に陥る、「色喰い」に出会ったときの特有の症状も起こってはいないようだった。とすれば、こいつの目には、まだ失われかけている自然の色が見えているということだろうか。


「……? 見えてますけど。そんなことより、とりあえずこの子、図書館の中にでも入れた方が良くないですか? 雨もずいぶん降ってきましたし」


蘇芳はこともなげにそう言って、どこかぼんやりとした瞳でおれたちを見上げる女の子をベンチから降ろすと、雨の滴でつやつやと光るランドセルに手を添えて図書館の方へ押しやる。その手つきは優しく、自分は雨に濡れているにも関わらず、さっき持たせた折り畳み傘をもう一度女の子の頭上にしっかりと掛け直した。


「そうだな。蘇芳は一緒に行ってやって。たしかにこの雨、けっこう本降りになってきた……」


言いかけて、ふと何かを見落としているような感覚に言葉を噤んだ。蘇芳が女の子の手を引いて図書館の入り口に向かう後ろ姿を眺めながら、おれたちの間に降り注ぐ透明な線にそっと手を伸ばす。


その軌跡を辿るように見上げた先には、重々しく立ち込める鉛色の、厚い雲が鎮座していた。あの子が描きたいと望んだ、「おばあちゃん」との思い出の景色、その背景を彩るはずだった澄んだ青空を、完全に覆い隠すように。


「……! だ……!!」


天から放たれる、無数の糸のような直線は、地上に次々と突き刺さる。本来は、根を葉を潤す恵みであるはずのその滴を、信じて受け止めた植物たちの「魂」を奪うために。「色喰い」の妖力は、この雨の滴に溶け込んでいるのだ。


おそらく、大元は不自然なほど重々しく、鈍い鉛色を湛えているあの雨雲。頭上を見上げ、じっと目を凝らすと微かに蠢く黒い靄が見えた気がした。


「彩さん、何かわかりました?」


ぱしゃ、と水たまりの撥ねる音がして、振り向くと艶やかな黒髪に雨の滴を飾った蘇芳が駆け寄ってきた。いつも首に掛けている洒落たストールが水を吸って重そうに揺れ、蘇芳の身体を打ちつけている。濡れて目元に貼りつく長めの前髪を、煩わしそうに掻き上げた蘇芳は、おれの視線を辿るように灰色の空に目を向けた。


「……もしかして、この雨ですか」


相変わらず、回転速度はおれよりもずっと速い。蘇芳はおれたちの頭上に立ち込める、ずんぐりとした雨雲を鋭く睨むと、今度は足元に視線を戻して辺りを見回した。


「蘇芳?」


「さっきおれに、色が見えてるかどうかって訊きましたよね」


「え、あぁ……」


「正確に言うと、『感じ』られます。まだ、生き生きとしてる色が、ちゃんとある」


そう言いながら、蘇芳は紫陽花の植え込みの前に屈みこんで、地面近くの茂みに手を差し入れ、雨に濡れた大ぶりの葉を掻き分けて中を覗き込む。すぐに、にやりと口角を上げてこちらを振り向いた。


「露草色。日本の伝統的な『花色』です」


蘇芳が掻き分けた紫陽花の葉の下から、こちらを見上げるようにして小さな群青色の花が咲いていた。さっき蘇芳が女の子に傘を掛けてあげていたように、濡れた大きな葉は、最後の力を振り絞るように両手を広げ、足元に咲く小さな花を雨の線から庇ってじっと耐えている。


「……紫陽花に守られて、無事だったんだな」


「ですね。さすが、このじめじめした季節を鮮やかに彩ってくれる花は強いです。――さて、彩さん。本題ですよ」


「本題……?」


蘇芳はすっと立ち上がり、おれに向かって手を差し出した。天に向けて広げられた掌には、まだうっすらと傷跡が残っている。けれど、この不穏な雨の線が降り注いでも、蘇芳の掌に微かに引かれた紅い線は、鮮やかさを失わなかった。その色は、傷ついて弱った色ではなく、不思議に凛として、美しく見えた。


「おれたちには、あまり余裕はないですよね。だから、だから、簡潔明瞭に話し合いましょう。それぞれ『自分がしたいこと』を、シンプルに言い合って」


「したいこと……」


『するべきこと』じゃ、なくて? 続きの言葉は、訊く必要がないような気がしたから呑み込んだ。身体を濡らす、湿った生温い空気と一緒に。蘇芳が言いたいことは、こいつのまっすぐな黒い瞳を見れば、ちゃんとわかる。


おれが、と、蘇芳は言っていた。


こいつは最初から、ややこしいことなんて何も訊いていないのだ。責任や、目的や、結果――。ここから目を凝らしたって見えないものに囚われて、おれはいつも足元を見失う。


蘇芳が紫陽花の葉陰から小さな露草の花を見つけ出したように、今立っている場所からでも見えるものを、ちゃんと探してみればいいのに。黙っておれを見る蘇芳の目を、おれは正面から見返した。

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