10.安全地帯
スパーリングを終えると、梨香さんたちが戻ってきた。
僕は目のやり場に困って上体を起こしたまま俯いてしまう。
するとなにを思ったのか、ヒャッハー先輩がよよよと泣き崩れた。
「すまん根岸、お前の素質を妬んで本気で殴った俺を許してくれぇ!」
なんのことか首を傾げていると、梨香さんたちが血相を変える。
「まかさ痛みのせいでずっと黙っていたの?」
「バカ、苦しいのならさっさと教えなさいよ!」
「私たちが手当します、すぐに服を脱いで下さい!」
寸止めだと伝えようとするも「バカヤロー!」と、部長さんが先輩を叱り、梨香さんたちに謝罪している。これでは本当に僕が殴られたみたいじゃないか。
「誤解です、僕は平気ですよ」
「嘘をつかないで、マイナス八十点!」
「格好つけられても嬉しくないわ、マイナス六十点!」
「ガス欠中のボディブローを舐めたらいけません、マイナス九十点!」
いつの間に減点システムが他の人に採用されたのだろう。それを訊く暇もなく、彼女たちが僕を中心にフォーメーションを組んだ。
「少し冷たいけど、我慢してね?」
梨香さんがシャツをめくり、患部――痣とかはないけど――を拭く。濡らされたタオルにゾクッとしつつも、それは最初だけで徐々に心地よくなってくる。
上目遣いで「どこが痛いの?」と訊かれたり、髪をかき上げる仕草に胸が高鳴ってしまうが。それも衣装が衣装だし。こんな水着姿みたいな女性にリング付近に立たれたら、試合に集中できない気がするのだが。
「ほら、頭を上げなさい」
泉さんは膝枕をしてくれた。
いつもニーキックしてくる太股のはずが、身を委ねてみると自分のベッドにいるような安心感が包んでくれた。露出された肩やヘソを見ないよう、顔を反らさなくちゃいけないのが苦しいが。
それにしてもよくこんなに多くの衣装を揃えたものだ。部費で購入されているなら会計として見過ごせないけど、すべて姉御さんの所持品らしい。
部費のことが気になると、軽音部との苦い記憶もよみがえってくる。
そういえば今日は練習日で、泉さんはその為に登校したはずだった。
「軽音の練習? ええっと、それは中止になったの」
「そうなんですか?」
「そうそう。私のことはいいから大人しく寝てなさい」
頭を撫でられ、なんだか恥ずかしなる。よく考えたら膝枕って恋人同士でするものだ。いくら治療中とはいえ、梨香さんともしたことがないので照れくさいけど、不思議な安心感があった。
「ちょっと、アンタは何してんのよ?」
尖った物言いにはっとなると、瀬戸さんが足下にいるのに気付いた。タオルの感触でわからなかったけど、足首やふくらはぎを掌で撫でるようマッサージしている。
「こうすると筋肉への負担を減らせるので」
瀬戸さんは僕の隣に座り直し、腕の処置にもとりかった。
グローブを装着していたことで疲労し、ぷるぷると震えていた筋肉が癒されていく。足腰のときは気付かなかったけど、体格に反してずいぶん力強い。もしかして慣れているのだろうか。
「もしかして君は――」
部長さんがなにか言いかけたとき、部室の外から猫の悲鳴が聞こえ、その場に緊張が走った。
きっとモンプチだ。
苦しそうに、けれどもなにかに抗うように吠えている。
それに混じって羽音が聞こえたことから、カラスの襲撃だと直感して飛び起きた。
「梨香さんたちはここにいて下さい、怪我をする危険があります」
彼女たちを残し、ヒャッハー先輩と校庭の花壇へ向かった。
この時間帯はそこで日向ぼっこしているらしい。
駆けつけてみると、アサガオが並んだ一角にカラスが集まり、鉢の陰にボロボロになったモンプチが蹲っていた。
猫はカラスの天敵だが、多勢を武器に襲撃されることもある。流血したモンプチが必死に威嚇を試みるも、カラスたちは執拗に弱点(めだま)を抉ろうとしていた。
いてもたってもいられず飛び込み、モンプチを抱き上げて逃走する。何羽か追ってきたが、ヒャッハー先輩が花壇のホースで追い払ってくれた。
安全地帯に避難してから容体をみるも、モンプチはぐったりとしていた。
「動物病院へ連れて行きます、学校の近くにあったと思うんですけど……!」
そこに着替えを終えた瀬戸さんが駆けつけた。彼女は病院の住所を知っているらしい。電話で確認すると、午後からも受診可能とのことだった。
「事故らないように気をつけて行けよ!」
部長さんたちから自転車をかり、瀬戸さんの案内で病院へ出発した。
五、六分走ると動物病院が見えてきた。
治療室に通され、モンプチの治療が始まると、僕らは駐輪場に戻って処置を待った。
眩い日差しのなか、病院の駐車場にはペットを連れた人たちが行き交っている。軽トラに繋がれて来院する柴犬もいれば、予防接種を察して車窓から逃走を謀る猫の姿など、愛らしい光景に少しだけ気分が綻んでしまった。
ちなみにモンプチはランチバスケットで運んだ。ヒャッハー先輩の昼食が入っていたもので、自転車籠にも入るサイズだった。
「根岸先輩、さっきカラスと戦ってましたけど、お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫、先輩たちが追い払ってくれたから平気ですよ」
「本当ですか? 自転車に乗っているときも姿勢が不自然でしたので、どこか痛いのかと思ったんですけど……」
それはヒャッハー先輩の自転車が歪んでいて、真っ直ぐ座れなかったからだ。
「あれ? これって図書館にあった自転車じゃないか?」
瀬戸さんの救助後、筋肉ムキムキの大学生が駐輪場の自転車を蹴っていた。この凹みはその傷と一致している。
まさかあの日、ヒャッハー先輩も図書館にいたのだろうか?
不意に梨香さんから着信が入り、僕は無事に動物病院に到着したことを報告した。
『なにもできなくてごめんなさい、着替えるのに時間がかかっちゃったの』
「いいんです。あの姿でカラスに攻撃されたら大変でしたから――」
ふと。僕は瀬戸さんに目をやった。彼女はしきりに胸元に触れながら、慌てて着替えただろう制服の乱れを直している。
『遙輝くん、どうかしたの?』
「……瀬戸さんに知られないように確認したいことがありまして。後程でいいのでヒャッハー先輩に図書館に通っているか訊いてもらえませんか?」
梨香さんに頼むと、呼び出しを受けたことを告げて電話を切った。
院内に戻ると、診察台に包帯を巻かれたモンプチが眠っていた。
致命傷はなかったものの二、三日の入院が必要だと言われ、僕らはモンプチを預けて治療費を払った。瀬戸さんからも財布を出されたが、お見舞いと譲渡会までのお世話を手伝ってくれればいいのでと断った。
「譲渡会? 君たちは里親を探しているのか?」
獣医さんに訊かれて頷くと、この病院では保護団体と提携して里親募集もしており、包帯がとれたらモンプチの写真も掲載してくれるとのことだった。これなら譲渡会に参加することなく里親が見つかるかもしれない。
「もし入院中や譲渡会でも里親さんが見つからなかったら、私が飼ってもいいでしょうか?」
瀬戸さんがそんなことを言ったのは、学校に戻り、梨香さんたちと合流した時だった。アレルギーのある家族はおらず、両親もペットを飼いたがっていた時期があるので説得すれば許可が下りそうだという。
「アンタに飼えるの? 譲渡会に来る家族のほうが準備が万全な気がするけど?」
泉さんが辛辣に言うが、これには一理ある。
譲渡会では家族構成や飼育経験でフィルターをかけられるので、来場者たちにはペットを飼える環境にあると保護団体に判定された人たちだ。
泉さんがそれを知っているか不明だが、僕らよりもそういう人たちの方がモンプチを幸せにできる可能性が高いのは事実だ。
「たしかに動物を飼ったことはありません。パパやママも反対するかもしれません――」
瀬戸さんは薄らと涙を浮かべ
「――でも、モンプチちゃんの為なら一生懸命お世話をしてみます。私も、安心できる場所があることの大切さはわかるんです」と、声を上擦らせた。
僕の脳裏に、モンプチと出会った時の瀬戸さんの様子がよぎる。この猫さん、私を見て安心してくれたんですか? と、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「瀬戸さん……」
僕は大切なことを忘れていた。
瀬戸さんは保健室登校をつづけていた。嶋崎を恐れながらも学校に馴染む努力をつづけられたのは、自分を守ってくれる安全地帯があったからだろう。
そしてモンプチも彼女が傍にいるだけでお腹をさらし、泉さんのような苦手な人間を前にするとすがりついていた。
モンプチは瀬戸さんを必要とし、彼女もそれに応えようとしている。
たとえ飼育について無知であろうと、それ以上に大切なもの――信頼関係を彼女たちは築けていた。
これだけで彼女にはモンプチを飼う資格があるはずだと、僕も泉さんを説得した。
「でも、気持ちだけじゃ動物(いのち)は飼えないって、他でもない根岸が言ったんでしょう?」
「瀬戸さんのは単なる好き嫌いじゃありません。モンプチとの絆があるんです」
「絆ね……。まぁ、私が飼うわけじゃないし。好きにすれば?」
泉さんの反応は冷ややかだったけど、最後には通じたものがあったような気がする。
だが皮肉なことに、瀬戸さんがモンプチを飼うことはなかった。
そもそも譲渡会に参加することもなかった。
数日後に動物病院から、モンプチのことで緊急の連絡が入ったからだった。
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