08.根岸くんの三分クッキング ワッフル編
家の前で傘をさして待っていると、雨に煙った道路に保育園バスのヘッドライトが見えてきた。
僕は凛が降りてくるのを待つ。
しかし扉が空いているのに降車する気配がない。妙に思って車内を覗くと凛は奥の席にふんぞり返っており、保育士さんに促されてようやく腰を上げていた。
やっぱり今日はご機嫌ななめだ。いつもなら元気よく飛び出してくるけど、保育園でいやなことがあると花道を歩く力士のような貫禄でやって来るのだ。
おかえりと声をかけるも、股間をパンチされてしまう。怒りの原因が僕であることは予想通りだった。こうなることを承知で、野菜炒めを凛のお弁当にも少しだけ混ぜていたからだ。
家に入り、着替えを終えてから夕飯を食べるも、凛はずっと唸り声をあげていた。
「お弁当が美味しくなかったんだろう? でもちゃんと全部食べてくれて嬉しいぞ」
「がるるぅ……!」
話しかけても日本語で返事をしてくれないので会話にならず、家のなかは重苦しい沈黙に包まれることになった。
夕飯を終え、僕は皿洗いにとりかかる。我が家の台所は対面式なのでここからリビングを見渡せるのだが、机から凛が顔の上半分だけを出して睨んできた。まるで心霊写真のようである。
「練習に付き合わせてごめん。でも、そのおかげでお味噌汁の豆腐も綺麗に切れていただろう?」
「つーーん、お料理を練習する遥兄ぃなんてきらーーい!」
「もう一回だけ付き合ってくれないか。今からワッフルを焼こうと思っているんだ」
「え? ワッフル? 晩御飯の後に作っていいの?」
一瞬きょとんとした凛だったが、僕が冷蔵庫から卵やぺーキングパウダー、牛乳や薄力粉を取り出すと瞳を輝かせた。
「本当に作るの? 凛も食べていいの?」
「もちろん。誰かがいたほうが作りがいもあるからね」
「やったぁ! ワッフルふるふる、ふるふるふーーる!」
ボールに入れた材料を凛に混ぜてもらう間、僕は用意していた苺を細かく切る。応募用の写真を撮るときはもっと具材を増やすつもりだけど、今日は生地を焼く練習だからこれだけで十分だろう。
材料を完成させると、予熱しておいたホットプレートにバターを溶かして流し込む。後は加熱して固めれば完成だ。
生地の焼ける匂いが漂うと、さっき晩御飯を食べたはずなのに急にお腹が空いてきた。時刻は夜の七時前。こんな時間にお菓子作りをしているのなんて僕の家だけだろうな。きっと義母さんたちも驚くに違いない。
固まった生地を皿に移し、八等分に切り揃える。断面からは湯気とともに甘い香りが立ち上り、さくさくの表面にホイップクリームを塗ってから苺をのせて重ねれば四人分のワッフルサンドの完成だ。一人当たりのサイズは小さいが、夜に食べるのならこれくらいがちょうどいいだろう。
「美味しそう! でも、どうして急にワッフルなの? まさかダイヤちゃんの景品に応募するつもりなの?」
「えっ、どうしてわかったんだ?」
「だって写真を撮っているもん」
「そっか、そりゃバレるよな……」
僕は凛の真ん前で、完成したワッフルをスマホで撮っていた。もちろん今日は練習だから応募したりはしない。この写真は泉さんに送る為のものだった。
「凛はダイヤの景品はいらないよ? 練習ばっかりしたら寝不足になるよ?」
「そうだな。凛の言うとおり、ほどほどにしておかなきゃいけないよな」
と、スマホをしまおうとした瞬間、泉さんから着信がはいった。
「ごめん凛、ちょっと電話してくるよ。大人しく座っているんだぞ?」
僕は自室に行ってから電話にでることにする。お菓子作りのことで交流が増えたとはいえ、彼女との通話は緊張するし、もしダイヤの話題になったら凛の隣では話しづらいからだ。
『もしもし根岸? ごめん、電話して平気だった?』
「ええ。問題ありません」と、部屋の電気を点けながら言う。
『写真を見たけど、わざわざ作ってくれたの?』
「ええ。練習しておけば少しでも上手くなれると思ったんです」
『ふぅん。ご苦労なことね』
言葉そのものは素っ気ないけれど口調はとても柔らかく、受話器の向こうで彼女が微笑んでくれているような気がした。
「生地のサイズや切り方は写真と同じにしようと思っています。そのほうがバリエーションも豊富にできますし、断面が見えれば色も鮮やかにできます。材料は揃えてあるので、これを参考に応募用のを作ってみませんか?」
『そうね。それなら今週の土曜日はどう?』
カレンダーを確認するとその日は義母さんが休みなので、外出しても問題なさそうだった。
「了解です。それまでに色んな味を調べておきますね」
『あんたって本当によく働くのね。会長を人質にしたかいがあったわ。さすが『うちの生徒会役員の会計は、愛しの生徒会長の為ならなんだってする』のね」
ライトノベルの題名みたいな台詞だけど、本当のことなんだから仕方ない。
『でも、あんただけに用意させるのも悪いから、私ももっと便利な調理道具を揃えておくわ』
「いえ、それはけっこうです! ぜひやめて下さい!」
『はぁ、なんでよ?』
日本には凶器準備集合罪っていう刑法があるんです。あれ以上の武器を用意したら摘発されてしまいますよ?
ボールとホットプレートさえあれば十分だと理解してもらい、僕はなんとか破滅フラグを折ることに成功する。
『それじゃ、週末によろしくね?』
「あの、泉さん。昨日は、すみませんでした……」
電話が切られそうになり、僕は慌てて謝罪した。彼女が目の前にいるわけでもないのに、自室で一人頭を下げたまま「そちらの事情も知らずに、勝手なことを言ってごめんなさい」と告げる。これから彼女と共同作業をする以上、時限爆弾を抱えたままでいるよりもしっかりとお詫びしておいたほうがいいだろう。
それに、これを機に彼女の悩みも知れるかもしれない。
『謝るのは私よ。いきなり怒鳴られて驚いたでしょ?』
「いえ……。泉さん、部活のことで悩みがあるんですか? さしつかえなければ相談にのらせていただけませんか?」
『ずいぶんへりくだった口調ね。あんたサラリーマン?』
泉さんに笑われる。喋り方が堅苦しいのは、彼女とまだ話し慣れていないということに加え、どこまで踏み込んでいいのかわからないということも理由だった。
『まさか会長と電話するときもそんな喋り方なの?』
「梨香さんのときは、もっとくだけていると思います」
『私とじゃ気楽に話せないんだ。ま、そりゃそうか。軽音部(わたしたち)は何度も迷惑をかけたもんね……』
泉さんが部員たちのことを語り始める。桑原のようなとくに横暴な部員が目立つものの、全員が悪い生徒ではなく、見た目に反して繊細な子も多いことを。
『友だちといるときは気が大きくなって予算を増やせとか、あんたのことも会長の飯使いとか腰巾着とかバカにしてるけど、一人だと自己主張もできない子ばかりなの』
「意外ですね。っていうか、僕ってそんなふうに思われてたんですか?」
『もちろんよ。他にも会長のストーカーとかナイト気取りだとか、あとは――』
「も、もうけっこうです! わかりましたから……!」
なんだい。ひどい異名ばかりじゃないか。これなら美音や茶道部の人たちがつけてくれた『雑用少尉』のほうがはるかに嬉しいぞ。
「僕は軽音部の人って陽キャばかりだと思っていたんですが」
『ライブはカヴァー曲ばかりだけど、オリジナルに興味を持つ子も意外と多のよ。そういう子ってどちらかというと内向的でしょ?』
「たしかに、自分の世界をもっていそうです」
『そうなの。だから、いざって時に私を頼るの。顧問が嶋崎に変わってからずっとそうなの』
泉さんが深いため息を吐いた。
やはり嶋崎先生が関係しているようだ。
あんな人が顧問ではさすがの軽音部も怯えるだろうし、それを支える泉さんの負担だって大きいに違いない。
少しでも力になれないかと、僕は慎重に言葉を選びつつも、軽音部が今どういった状況にあるのか訊くことにしたのだった。
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