テスト返しとカモメと

多田野 然子

テスト返しとカモメと

 金曜日。チャイムの音。6 限の数 B。

 誰しもが通る憂鬱なひと時。俺は窓側一番端の席で外を眺める。瑞々しい青色の空には雲一つない。

 少し遅れて教師が教室に入る。教師は来るなり、期末テストの返却をすると言った。クラス中がどよめく。何故なら、教師は昨日の授業で採点が終わりそうに無いと言っていたからだ。

 通常授業が潰れて歓声を上げる野球部、澄ました顔をしているサッカー部、我関せずといった吹奏楽部、隅っこでテスト返しを嫌がる無所属達。

 俺はそんな無所属のひとりだった。

 ただし、無所属なだけでテスト返しは、屁でもなかった。低い点数にはもう慣れた。

 ――母親の反応にも。

 名は己を示すとか言うけれど、果たしてどうなのか。でも、俺だってハナから落ちこぼれという訳じゃない。小学校の時は 100 点が普通だった。中学校の時は 90 点。一回、80 点を取った時には世界が終わったかと思うほど落ち込んだのを覚えている。母親が教育熱心だったのも大きな要因だろうか…。いや、母親の話はよそう。

 少しずつ落ちこぼれ、少しずつ傷ついて、落ち込んで、そんで今に落ち着いて。

 ――落ちていって?

 ま、詰まるところ、最早テストの点くらいじゃあ俺の心は動じないということだ。

「ういー学! どうした。まーた神妙な顔しちゃってー」

 俺の背後から肩に腕を回す形で前席の力也りきやがつるんできた。こいつはテスト返しを嫌がる無所属代表だ。

「いつも通りだろ。なんか用?」

「て、ん、す、う、だよ! どうだった?」

「ああ、今みるとこ。お前は?」

 力也は裁判の判決をテレビカメラに見せるが如くテスト用紙を広げて俺に見せつけた。

「60 点! どうよ」

 自信満々にドヤ顔をした。

「残念、俺 65 点」

 俺はそう言ってテスト用紙を力也に見せた。

「くっそー。惜しいなぁ。負けたぁ」

 膝から崩れ落ちて悔しがる力也に俺は指を振って応える。

「ノンノン、力也くん。どこも惜しくないね。この 5 点が 10 年後には大きな点差になるんだな」

「じゃあ、お前と俺の 40 点差はどうしようもないな」

 佐藤が会話に割って入った。その手には 95 点のテスト用紙があった。こいつは無所属だが、力也や俺とも違う。いて言うなら+α、当たり値だ。

「お前には適わねぇよ。蟻と象は喧嘩しないんだよなあ。な、力也」

「その通りだ、学。佐藤、お前とはハナから争っていない。白旗だ。なんなら降伏のポーズでもしてやろう」

「それは結構だよ。それよりも、明日テストお疲れ会しようや」

「いいな、それ」

「こらー! そこ、はよう席座れ」

 教師が俺らに注意する。クラス中が騒いでいたが注意されたのは俺達だけ。

 ――通常運転。無駄に歯向かうのも阿呆らしい。

「また後で」と佐藤。

「おん」「じゃ」と俺と力也。

 結局テスト返しも程々に教師は通常授業に戻った。

 つまらん。さっきまでテストで盛り上がっていた教室も嘘みたいに静かになった。

 教師の声と窓から見える町並みと、その先にあるだだっ広い大海のさざなみだけが聞こえてくる。

 おっと、これは漣じゃなかった。力也のいびきだ。

 無限に続く水平線の中で人探しをするのも一興だが、力也のように眠くなってしまうので、意識がはっきりしているうちに教室内に視線を移した。教師は相変わらず淡々と授業をしている。それをクラスメイト達は板書を黙々と写す。

 ――まるで機械だ。この空間丸ごと。

 はて。俺は考えた。教室が機械なら俺や力也はどうなのか。教師は電気信号を出す。佐藤みたいな生徒がその信号通りに歯車として動く。そうなると、信号通りに動かない俺や力也はバグと言うことか。良くてサブパーツ…。ま、そんなに悲観的に考えないでおこう。

 ――機械は水に弱いと相場が決まっているが、この場合はどうだろう?

 板書を眺めているのも暇だな。他に寝ている人はいるかなと、教室を見回す。

 しかし、気づくと無意識的に俺の視点は一列隣の右斜め 3 席前に釘付けになっていた。

 ――宮野咲さん。あぁ、可愛い。

 俺の気になっている人。勘違いされないように釈明しておくと好きな人では無い、決して。

 気になるだけだ。

 ここからだと後ろ姿しか見えないが、後ろ姿も可愛いなと思う。夏仕様の制服と綺麗な両の腕。スラッと伸びた背中。美しい髪は宮野さんの知的で清楚な印象にぴったりだ。長い髪を纏める水色のリボン。昨日はピンクだった。髪を耳にかける所作。可愛い。思わず目が離せない。

 出会いはいつ頃だったか。同じクラスになったのが去年。気がつけば目で追うようになっていた。接点は特に無かった。一回、同じ班になったくらいかな。

 成績優秀、スポーツ優秀、気配り上手。教師、生徒間において評価が高い。有り体に言って高嶺の花だ。

 ――俺には釣り合わない。

 あぁ、そう言えば一つ接点を思い出した。同じ小説が好き。同じ作家が好き。

 暗い作風が多い作家で、その生涯も作品に劣らず暗いものだった。思いつめた挙句、川に身投げ。結局死にきれずにそのまま小説家。溺れ死ぬ…俺が考えうる中でも最低最悪の終わり方だ。

 ――海じゃないだけマシか。

 正直、こんな暗い作品のどこがいいのか分からなかった。

 でも、今は好きだ。大切なのはそこだ。

 たまたま図書委員で同じになって、たまたま好きな作品の話になって、たまたまその作家の話になって。

 今でも話す仲になった。

 この作家の話は、きっと俺と宮野さんだけの秘密だ。

 ――そんなわけないだろ。

 色んな感情が渦になっていく。けれどきっと、この気持ちは恋ではない。だから宮野さんは「好きな人」ではないのだと思う。

 多分、この気持ちは憧れに近いものなのだ。

 俺は宮野さんの恋人になりたい訳じゃない。良き友人でありたい。

 ――嘘つくなよ。

 でも、こんな風にも思う。

 宮野さんと二人、砂浜に並んで海を眺める。どこまでも青い海は嫌な程に穏やかで、汚れを知らない子供たちがきゃっきゃと遊んでいる。

 子供たちの両親は、近くでにこやかに見守っている。

 そんな光景を見て、俺が父さんの話なんかをすると、彼女は「辛かったね」なんて慰める。

 ――彼女じゃないだろ。宮野さんだ。奢るな。

 …結局のところ、こんな想像をしてしまうのは、やはり宮野さんのこと好き故なのか。いや、違う。それは違う。断言しなければ。

 ――好きになる資格なんてない。

 でも、でも、でも、宮野さんのことを考えると、なんて言えばいいか…。こう、胸がキュッとなる。

 ――気色悪いんだよ。

 いや違う。これは性欲だ。そうだ、きっとそうだ。思春期特有の現象だ。だから、本当は好きじゃない。そうなんだ。

 それに、仮に告白なんてしてみろ。無様に振られて終いだ。宮野さんは、良い人だから誰かに言いふらすなんてことはしないだろうが、これまで通りの関係を継続出来ないのは、想像に難くない。

 そうなるくらいなら、俺は宮野さんと密かな関係を慎ましく続ける、今の状況で十分満足だ。

 自分に言い聞かせろ。

 俺は宮野さんを好きじゃない。

 今の関係で満足だ。

 俺には釣り合わない。

 これは性欲に過ぎない。

 俺は、、、。

 ――宮野さんが好きだ。

「力也!起きろ!」

 ハッとした。

 教師の怒鳴り声で思考の海から引き揚げられた。危なかった。もう少しで離岸流に流されるところだった。

 ――流されたら?

 流されたら最後さ。思考の海から逃れられず、一生思考し続ける。堂々巡りの議論に終わりはない。溺れたらお終いだ。

 力也の隣席の女子は、我関せずという態度だったので、背中を叩き、起こしてやる。教師は 2、3 言の毒を吐いて、直ぐさま授業に戻った。

 ――どうやら、説教する価値もないらしいな。

 そうだな。落ちこぼれには、リソースを割けない。気持ちも理解出来る。仕方ないさ。もうすぐ本格的な受験シーズンに突入するのに、一々落ちこぼれを説教なんてしてられないだろう。

 その後は、特段変わりなく授業は終了した。

「さっきはサンキュ。まーた寝ちまったわ」

 へらへらと笑いながら力也は言う。

 こいつは、何も考えていないんだろうな。

 ――そんな人間はいない。

 そうだな。今のは失言だった。多分、俺は機嫌が悪いのだろう。それに、考えるだけ考えて答えが出ていない点を鑑みれば、俺も大差ない。同じ穴のむじな

 ――屈折しているな。

 真っ直ぐな人間なんて存在しないだろ。

 兎も角、「次は寝るなよ」

 俺は作り笑いでそう応えた。

 放課後は図書委員の仕事だった。

 今日は一人番だ。一緒に当番をするはずだった宮野さんは、どうしても外せない予定があるらしい。

 どうせ、仕事と言ってもやる事はたかが知れてる。持参した例の小説家の新作を読んで時間を潰すことにした。

 10 頁。

 どうやら今作は、いつもと毛色が違うらしい。

 20 頁。

 変な探偵が出てきた。面白い。これからどうなるんだ。

 30 頁に突入した時に利用者が来た。返却だけなので、直ぐに仕事を済まして読書に戻る。

 40 頁。

 研究所で一人殺された。誰が犯人なんだろう。これから推理パートか。

 50 頁。

「…くん」

「学くん? 聞いてる?」

 読書にのめり込んでいたため気づかなかったが、声をかけられていた。

 俺は声に気づいて顔を上げる。

 おでこにツンと感触。人差し指で軽く押されている。

「今日は何読んでたの?」

「新作のやつだよ、宮野さん」

 心臓がうるさいくらいに鳴り響く。それでも、飽くまで普通に受け答えた。

「いいなぁ。私まだ読めてないんだよね。どう?面白い?」

 透き通って知的な瞳が俺の眼を見つめる。吸い寄せるような瞳。まるで汚れを知らないと

 いうこの瞳。

 ――綺麗だ。

「面白いよ。作風はいつもと違う感じだけと、根っこの部分はちゃんとしてる」

「気になるね、それ」

 そう言って小説を覗き込む。もう少し近づけば、キスしてしまいそうな距離感だ。ふわっと

 柔軟剤の匂いがした。彼女の印象に合う優しいフローラルの匂い。

 ――いい匂いだ。

「そういえばさ」

 うん、と俺は相槌を打つ。

「今日、係任せてごめんね」

「大丈夫だよ。どうせ大した仕事もないし」

「そっか。でも、本当にありがとう、学くん」

 彼女は小さく微笑む。そうだ。俺はこの笑顔に溺れたんだ。

 このままだと感情がせきを切って溢れそうだ。

 精一杯気持ちを落ち着かせる。

「宮野さんは、予定大丈夫だったの?」

「うん。その件は片付けてきたの。で、学くんが気になって見に来た」

「そっか。ありがと」

 素っ気ない応えが今の精一杯だった。

 彼女は、俺の隣に来て椅子に腰掛けた。

「ほら、もうすぐチャイム鳴るから、それまで一緒にいるね」

 彼女は、後ろにある返却ボックスから適当な本を見繕って読み始めた。俺も小説の続きを読み始める。

 51 頁。

 宮野さん。

 51 頁。

 宮野咲さん。

「ねえ、宮野さん」

「んー?」

「好きです。宮野さん。あなたが好きです」

 不思議とその言葉が出ていた。まるで小説のページをめくるように自然と。

 宮野さんは急な言葉に固まってしまった。

 俺の心は異常なくらいに穏やかだった。さっきまでが嘘みたいだった。

 チャイムの音が控えめに、だけどもしっかりとした音で、下校時間を知らせていた。

 大きな青いカーペットのような海は、すっかりオレンジに染まっていた。いつものように、わざわざ遠回りして海沿いを歩いて帰る。

 一人で歩く帰路は、潮風で錆びた町並みと相まってどこか哀愁が漂っている。

 ふぎゃーふぎゃーと、ひとりじゃないよとカモメがく。

 ふと、父さんを思い出した。

 あの人はよくカモメの鳴き声を真似していた。変な人だったな。

 思い出したら、可笑おかしくなってきた。

「ふぎゃー!ふぎゃー!ふぎゃー!」

 力一杯大きな声でカモメの鳴き真似をした。

 すれ違ったおばちゃんが、怪訝な目で俺を見ていたが、全く気にならなかった。

 俺は自由だった。教師に縛られることなく。海で歩けない人間を嘲笑うように。そう、カモメのように自由に。

 ――明日から、勉強でも頑張るか。

 いや、違うな。正しくはこうか。

「今日から勉強でも頑張るかぁああ!

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