第29話

 怪我が治り、お父様は領地立ち入り禁止になり、平和になったところで押し寄せて来るのは仕事だった。コスタス様は侯爵領に向かい、私は男爵領で緊張しながら書類を片付ける。二・三日はコスタス様がついていてくれたけれど、大丈夫だと判断されたのか包帯の取れた傷にいってきますのキスをして、コスタス様は侯爵領に向かった。一週間ずつ行き来することになったらしい。

 お爺様にマフラーを持って行ってもらうと、ちょっと拗ねた顔も見せた。飾り編みが凝っていた所為だろうか、嫉妬されてしまったらしい。でも確かに、と預かってくれるのだから、コスタス様は人が良いと思う。


 治水工事の書類は侯爵領も通るので持って行った。だから私に任されるのは小さな案件だ。雪が降った時の対策、年貢の計算と分配、各地の農業状況。じゃがいもはもう収穫済み、リンゴも出荷済み。かぼちゃ、ゆり根、色んなものを作っている農家があちこちにあるのを改めて実感して、地方領主とは言え決して暇ではないことが分かる。私が寝込んでた二日間は本当に浪費だったんだな、と申し訳なく思うばかりだ。

 幸い訪問が必要なことはなく、私は屋敷に閉じこもってサインを続けるばかりだ。解らないことは紅茶を持って来てくれる執事さんに訊いてみたりする。丁寧に教えてくれて感謝すると、まだ御無理はなさらないで下さいね、と心配されてしまった。


 傷は瘡蓋になっている。アリサさんは二週間に一度のペースで遊びに来る。それが私にも休日になる。作った手袋はちょっと不格好だったけれど、マフラーと一緒に子爵様――伯父様の冬の装いになっていた。

 青いハーブティーにレモン汁を搾り入れてピンクにする。メイドさん達が教えてくれたマロウ・ティーと言うものだ。味はレモンのものが強いけれど、視覚的に楽しいのであまり気にしない。アリサさんも色が変わるのにわあっとはしゃいで見せた。この数日あまり使っていない、西向きの小さなテーブルである。伯父様は普通の紅茶を。こっちもレモンを入れると色が明るく変わる。ちょっとだけ入れて、角砂糖を一つ。くるくる音を立てずにスプーンを回して。ふぅ、と息を吐く。


「それにしても突然忙しくなって、大変ではないかい? 侯爵夫人」

「私はただのサーニャですよ、伯父様。子爵様でも目上の方に傅かれるほど傲慢ではありません。どうか今まで通りに接してください。アリサさんも」

「はーい、サーニャお姉ちゃん! 怪我したってコスタス兄さまが怒ってたけど、それはもう大丈夫なの?」

「はい、もう瘡蓋が少しあるだけで。そんなに有名になっているんですか? この話」

「伯爵が侯爵夫人を杖で殴ったなんて前代未聞だからね。降格させられないのが珍しいぐらいだよ。最近はめっきり、跡取りの方が仕事をしている。君のお兄さんだね、サーニャ」

「よく知らないけれど多分そうですね。丁度良い代替わりのタイミングだったんじゃないでしょうか。お父様ももういい歳ですから」

「私より若いよ」

「そうなんですか?」

「一、二歳だけれどね。だが私はまだアリサを社交界に慣れさせるまで十年はこの座にいるつもりさ」


 くふくふ笑って、伯父様は白い口髭を撫でる。そうしてからこくこくハーブティーを飲んでいるアリサさんの頭を撫でた。彼女はえへ、と笑って、その手に懐く。こういう形の家族のお手本を見せられたから、見慣れたから、私はお父様に立ち向かって往けたのだと思う。


 コスタス様との間に子供が出来たらどんな感じになるんだろうなあ。と考えて、まだそんなこともしていないのに何を言っているんだか、とくすくす笑う。良いなあ子爵家は安泰で。コスタス様も後五十年は現役だろうけれど、その間に何が起こるか分からないのは心配だ。


 と、ゴンゴンゴンゴン、とドアノッカーが打ち付けられる音が響いた。執事さんがドアに向かうのに、私も追い掛けて行く。誰だろう、他の来客予定何か無かったはずだけれど。アポも取らずにやってくるお客さんは少ない。ことここが侯爵家になってからは。


 開けられたドアの向こうにいたのは、細いシルエットのコートにスーツ姿の男の人だった。歳は伯父様より少し下だろうか、綺麗に髭を剃られてつるんとした肌をしている。艶も良い。被っていた帽子を外すと、どこかで見たような顔だな、と思った。と同時に、あれから常用している水晶の髪飾りからわっと妖精たちが出て来る。


『アンドレイ!』

『アンドレイ、おかえりなさい!』


 言われてハッと私はホールに飾ってあった絵を見る。慣れているのは大奥様の顔だけれど、そう言えばこの肖像画には描かれている人物がもう一人いるのだ。うっかり忘れていたけれど、そんな扱いしちゃいけない人が。


「お、大旦那様」

「アンドレイ! アンドレイじゃないか!」

「やあ兄貴、元気そうだな。アリサもすっかり大きくなって――君が、リョーリフ家から嫁いできたって言うサーニャさんかな?」

「は、はい――大旦那様」


 慌ててスカートを広げて膝を折ると、構わない、と言うように手をひらひらさせられた。

 大旦那様。大奥様の旦那様。コスタス様のお父様。転地療養していたと聞いていたけれど、なんでこんな冬の季節に。関節なんかが痛むだろうに。否否、それよりどうしたら良いんだろう。コスタス様が帰って来るのは明日だ。こんなドッキリがあっても良いんだろうか。多分コスタス様は怒ると思う。自分に色々押し付けて行った、と言っていたから。私はどういう態度を取れば良いのだろう。思っている間に、大旦那様は私の前に膝を付いて手を取る。

 手袋越しの手の甲にキスをされた。いやらしい感じじゃなく、本当に紳士的に。あのコスタス様のお父様なのだから、当然なのかもしれない。コスタス様だって今でも私の前では紳士だ。野獣になったりしない。


「アンドレイ・ド・リュミエール――まあ、コスタスの父親だ。初めてお目に掛かる。噂は色々聞いているよ、サーニャさん」

「さ、サーニャで結構です、大旦那様。すぐにお茶を用意して頂きますね。お寒かったでしょう、暖炉の前にでも」

「なに、ここで五十年暮らしていたんだ、このぐらいの寒気は平気さ。だがお茶会には混ぜて貰いたいな。今のコスタスの事は聞いておきたいし、若夫婦のこともな」


 ぱちんっとおどけたウィンクをして、大旦那様は私の手を取ったまま客室に向かって行った。

 いや本当にどういう態度取れば良いんだろう。

 助けてコスタス様と、私はもしかしたら初めて夫を必要とした。

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