第4話 怒りの5.15事件



 彼女は「そうだね。早く帰らないとね。」そう言って屋上の鍵をポケットから取り出しては、足早にこちらに近づいてきては「もうここ閉めるね。」と言って扉を閉める。こちらに視線を合わせることもなく、わずかに震えた手を握ると彼女は気丈に言った。


「今日のことはなかったことにして。君の記憶からも消してくれると嬉しい。そうじゃないと私は君を嫌いにならないといけなくなるから。」


「じゃあ。」


 そう言い残して彼女は居なくなった。敢えて明るいトーンで言われた、「君を嫌いにならないといけなくなる。」の言葉の重さに自分は鉛の球を腹にぶつけられたぐらい強い衝撃を受けた。


 とてもすぐには立ち直れない衝撃。好意を抱く人間から向けられる敵意ほど恐ろしいものはない。相反する感情は交わることなく、ただお互いを傷つけることしかないのだから。


 多分彼女は普通に歩いて階段を下がって行ったんだろうけど、その記憶がないくらいに自分はその場で立ち尽くしていた。ふと意識が戻ったのは夕焼けチャイムが鳴り響いた頃だった。


「あれ?進藤君?」


 とぼとぼと廊下を歩いていると、心配そうに顔を覗き込んできたのは結城だ。


「待ってても全然帰ってこないから心配したよ。意外と校舎広いし、どっかで迷ってるのかなって探してみたらここにいたのね。でもほんと良かった。このまま下校のチェックもしちゃおうか。」


 明らかに思考がぐちゃぐちゃになった自分はその後の事も、結城と一緒に下校したこともあまり記憶にない。それほどまでに自分は狼狽えていたのだ。


 明くる日の朝、ダラダラと続く学校までの坂道に、弓木芽衣、彼女を見つけた。昨日の姿が嘘の様に凛とした姿、美しさに、自分は視線を奪われた。


 昨日は嫌われるかもしれないと恐れていた感情も、所詮は可能性の話であって実際にそうなると決まった訳でもないのだ。となんだかやけに楽観的になった自分は更なるプラス思考を加速させていく。


 そうだ。


 こんな綺麗な彼女と同じクラスで1年間を共にする。なんなら同じ学校で3年間一緒なのだ。


 これからいくらでも仲良くなるチャンスはあるだろう。行事も何気ない会話も、全てが良い方向へと向いていく。そう思っていたはずなのに。


 季節はいつの間にかGWを終えて初夏を迎えていた。


 しかしこの間に弓木芽衣とは一言たりとも話していない。同じクラスだからと言って話すチャンスがあるわけでもなく、帰宅部である弓木は授業が終わるとすぐに帰ってしまう。


 授業の合間も誰かと話す訳でもなく、教室の後ろの席で一人スマホを触っては、時折机に突っ伏して仮眠を取っているようにも見えた。中学時代にあれだけの輝きを放っていた陸上も高校を期に辞めてしまったのには何か理由があるのだろうか。そんな色んな事が気になっては何かに理由を付けて弓木を見てしまう。


 クラスの方はと言うと、担任の鞍馬は基本的省エネ体質なのか、クラスのことは学級委員に任せる。と放任主義を貫いており、6月に迫る体育祭で学年1位を取ろうとかそう言ったクラスの事には全く関心がないようだった。


 お陰で変なプレッシャーもないのだが、その分クラスの覇気も士気も著しく低い。クラス全員リレーやムカデ競走はある程度練習も必要なのだが、そう言った練習をやる気配もなく。6月の第二土曜日に迫る体育祭を前にした5月15日、通称「怒りの5.15事件」は起きてしまったのだ。


 体育委員である松田、佐伯両名にこのままでは惨敗する。せめて少しは練習して体育祭で恥をかかない様にしたい。どうか協力して欲しい。と学級委員である自分と結城に涙目で懇願された結果、その窮状を憂いた?いや共感した結城が安請け合いして、どうにかクラス全員参加で練習を何日かしようと画策したのが、GW明けの月曜日5月8日の朝礼後の事だった。


 それから半日かけてクラス全員の予定を聞き周り、なんとか全員参加での練習日を5月11日、12日の二日間、それぞれ一時間を予定する事に成功した。のだったのだが‥


「あれ‥来ないね‥。」

「うん。来ない。」


 グランドは部活動優先の為使用出来ないが、部活棟とグランド、駐輪場の三つのエリアの空白地帯を活用してムカデ競走の足踏みだけでも練習しようとなっていたのだが。蓋を開けてみれば、部活の練習が断れなくなったとか、塾が入って無理になったとか、はたまた親戚が急病で倒れたとか、真実なのか虚偽なのかもあやふやな理由によって36名中15名しか集まらず、全員練習とはほど遠い寂しい結果となった。翌日もなんやかんやと理由を付けて来ない者も多く、結果として昨日より5名増えただけだった。


 そうなると真面目にやっている人間の怒りの矛先は真面目でない生徒へと向かう。しかも普段から怒りを持っている人間に対してはそれはもう激しい憎悪とも呼ぶべき悪感情が鬱積していたのであった。故にこの事件は必然だったのかもしれない。


 翌週、怒りの5.15事件当日。なんだか昼休みに中庭が騒がしいと、3階の窓から覗き込んでみると、そこには我がクラスの女子生徒、ダンス部所属のメンバー3人、本村、田丸、黒田が、弓木と相対しては口論をしていたのだ。


 ああ、これはまずいと感じたが、正直言ってこのメンツを抑える技量はない。


 ダンス部の三人はクラスの中でも中心的存在で、クラス行事にも積極的な方だ、故に友好的な関係を保っておきたいところ。返って弓木は協調性最悪の孤高の存在だ。まさに水と油。これは素知らぬフリをしようとひっそりと教室に戻ろうとしたところ、結城が息を切らして駆け寄ってくる。


「た、大変!!弓木さんと本村さん達が喧嘩してる!」


 内心それは知ってはいるが、関わりたくありません。と言いそうになったのを飲み込み、「どうしてそんな事に?」と学級委員らしく聞いてみる。


「どうやら本村さん達が、どうして全体練習来なかったのか弓木さんに聞いたら喧嘩になったらしくて。早く止めないと大変だよ!」

 

 今にも泣きそうな顔で懇願する結城は小動物みたいで可愛い。とか思ってる場合ではなく。この場合十中八九喧嘩に巻き込まれれば、双方に嫌われる可能性が高い。


 正直言ってそんな厄介ごとは避けたのが性分だが、こんなに困った顔をした女性を無下にする訳にもいかず、「分かった。今すぐ止めに行こう。」と答えては、片手に持っていた購買で買ったパンを飲み込むと、なるべく駆け足で中庭に向かった。


 中庭に着くと本村の怒りはピークに達していたようで、激しい口調で、なぜ練習に参加しないのか!もっとクラスに協力するのが普通でしょ?とか普段からクール気取ってそれがかっこいいと思ってるの?とか美人だから許されるとか思ってんの?と、それはもうそろそろ止めさせないと危ないな。と思っていたところに、今まで沈黙を保っていた弓木の右手が本村の左頬を素早く叩いた。


 パーン!


 と想像以上に響いた音。本村はすかさず弓木の頬を右手で叩いて報復した。


 双方赤く腫れた頬を気にすることもなく睨み合う。この雰囲気の中で仲裁するのは無理だろうと思う反面、自分の後ろで背中を押してくる結城の圧力に屈して中庭に対峙する両陣営に話しかける。


「あの‥そこら辺で終わりにしない?二人とも結構頬腫れてるよ?保健室行った方が‥」

「何?あんた弓木の肩持つわけ?第一こいつがクラスの雰囲気壊してるの気づいてないわけ?こいつが何かと非協力的なせいでクラスがまとまらないんじゃない!それとも何?あんたも美人だから弓木は特別ってわけ?」


 怒髪、天を衝くかの如く怒りに震えた本村は握り拳を作っていた。


「いやそんなわけないよ。でもお互いに暴力は良くないし。」

「ちょっと!何言ってんのよ!先に手を出したのは弓木でしょ?」

「そうよ!こっちは真面目に話してただけなのに!」


 友人を傷つけられた田丸、黒田も怒りをこちらにぶつけてくる状況で収拾がつきそうもない。


「いや、まあ、それはそうだけど。」

 すると黙っていた弓木は「もういいでしょ。帰るから。」と言い残しその場を去ろうとする。


「はあ?逃げんな!」


 とダンス部の三人が突っ掛かりそうになるのをようやく先生方が登場して仲裁に入る。


 先生に大丈夫?と声をかけられた弓木は「大丈夫です。」とだけ残しては中庭を後にした。

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