第5話 発明の目的
彼女が隣に図々しくも腰かけるのを見ると、
「なるほど、他の男性記者に負けじと、質問をしてくるだけの度胸がありそうだわい」
と、教授は感じた。
明らかに目力が強そうな雰囲気であるが、ショートの髪型に目力の強さ。軽くソバージュが掛かっているようで、そのあたりが気が強そうに見えるのであろう。
雰囲気とすれば、女優と言ってもいいくらいに美しい。美しさに気の強さはセットのようなもので、そのセットは一足す一を三にも四にもしそうな雰囲気があった。
「確か、初村さんとおっしゃいましたか?」
と聞くと、
「嬉しいです、覚えていただけていたんですね?」
と、さっきの会場で質問をしてきた時の凛々しさは少しなかった。
そのかわり、かわいらしさがあり、どこかあざとさも感じられたが、気の強く見える美しさと、かわいらしさはセットではないと思われるので、どこが矛盾しているのか考えてみたが、思い当たらない。目力とあざとさは間違いなくあるのだが、彼女の性格を表す根本であり、美しさとは結び付かない。そう考えると、彼女の気の強い性格と、美しさは結び付いていると思ったが、矛盾しているところがあるのであろうか。
「ええ、覚えていますよ。美しい方は忘れませんからね」
と言った、
もし、彼女のあざとさが本物だったら、さらにあざとさを続けるだろう。もし、彼女の性格をあざとさが補えないのだとすれば、皮肉だということに対して皮肉で返すかのように怒りをあらわにするのではないだろうか。
だが、彼女は、
「あら、そう言っていただけると嬉しいわ。教授から忘れられないほど美しいなんて言われると、本気になっちゃいますよ」
という言葉を帰してきた。
まるでホステスと客の粋な会話のようではないか。これではあざとさなのか、皮肉たっぷりなのかが分からない。
「初村さんは、お名前の方は何と言われるんですか?」
と、知っていてわざと訊ねた。
記者会見が終わってから、気心の知れた記者の人に教えてもらったのだが、彼なら教授の探りを入れるような言葉を他人に言ったりはしない。そういう意味では安心だった。
「つかさって言います。名前の方も覚えてくださいね」
というので、
「じゃあ、つかささんって呼んでいいですか?」
というと、
「ええ、ですが、プライベートの時だけですよ」
と言った。
ということは、
「二人の関係はインタビューする方と、される方の関係で、それ以上でも、それ以下でもない」
という意味と、
「彼女の一緒のあざとさのようではないか」
ということであった。
これもホステスと客の会話を彷彿させるものではないだろうか。
川村教授は、彼女にどちらを感じたのだろう。
「こんなことなら、さっきの記者会見の場で、もう少し彼女のことを聞いておけばよかった」
と感じた。
だが、気心が知れているということは、気は遣ってくれるが、こちらの感情が完全にバレバレなので、余計なことは訊くわけにはいかない。
それでもしつこく聞くと、
「あいつな、あの記者のことが好きなんじゃないか?」
ということで、変に勘繰られてしまうことだろう。
もう少し若く、三十代くらいまでであれば、
「浮いた話」
ということで、いい意味での評判になるのだろうが、さすがにこの年では、ゴシップにしかなりようがないだろう。
今まで好きになった女性は数人いたが、一体一番誰が好きだったというのだろう? 皆それぞれに好きになる理由はあった。逆に言えば好きになる理由があったから好きになったのだ。
「じゃあ、好きになる理由がなければ、人を好きになってはいけないのか?」
と自分に問うてみると、
「そう、好きになる人には、ちゃんとした理由がないといけないんだ」
と答えたことだろう。
そのあたりが、
「堅物だ」
と言われたり、
「やっぱり、学者肌なんだな」
と言われたりしていた。
それが高校の頃であり、学校の成績もよかったことから、まわりからはさぞ優等生として疎まれていたことだろう。川村教授が成績がよく優等生だという自覚を持つようになったのは、高校二年生の頃からだった。
それまでは、恋愛に興味もなく、ゲームやマンガなどを低速だと思っていた。
「皆浮かれているが、何が面白いというんだ?」
と思っていた。
特にゲームやマンガは今でもまったく分からない。恋愛感情もやっと高校二年生になって自覚できるようになったのだから、
「思春期が遅かったのだろうか?」
と感じたほどだった。
遅くとも中学時代くらいには思春期を自覚するものだと思っていたので、ゲームやマンガと同じように、恋愛感情を抱くことなく生きていくのかと思い始めていただけに、高校生になって恋愛感情が芽生えてきた時には嬉しかったものだ。
だが、超晩生な高校二年生での目覚めは、嬉しいという思いだけで済まされるものではなかった。
「きっと人を好きになるという感情が、他の人と違っているのではないか?」
と感じるようになったのは、まわりの連中が皆揃って、好きになるような、いわゆる可愛い人であったり、綺麗な人に対しては、別に自分が好きになるということはなかった。
それよりも、
「どこにでもいそうなタイプ」
と言われるような平凡な女性の中で、自分の感性で綺麗だと思う人を好きになっていたのだ。
だから、好きになった人が誰かと被ることはない、民からは、
「川村と一緒だと、好きになる女の子が被らないから、ライバルが一人減っていいかも知れない」
と言われていた。
別に悪口でもないし、まさにその通りであることから、相手がもしかすると皮肉を言っているのかも知れないが、怒る気にはならなかった。
だが、恋愛にも、
「類は友を呼ぶ」
というのは実際にあるものなのか、川村が好きになる女性は、考え方や感性が川村に似ていた。
だからと言って、川村が好きになった女性と相思相愛になれるというわけではない。そんな彼女たちは却って、
「私は、自分のこの性格が嫌なの」
と言っていた。
それだけに、必然的に川村が嫌いだと言っているようなもので、考え方が同じだからと言って、安易に、
「あの人も自分のことを好きに違いない」
などと思って告白しに行くと、返り討ちにあってしまうことが得てしてあったものだ。
それでも、川村青年は、懲りることがなかった。何度も告白して、返り討ちにあっているうちに、感覚がマヒしてきたのか、最初の頃のように、フラれてショックだという感覚がなくなっていた。
川村は、自分で気付いていなかった。フラれることによって、自分の中に、ショックのトラウマができてきていたことを。感覚がマヒしていたのは、自ら結界を作って、トラウマを見て見ぬふりをしようという防御反応の一種だったのではないだろうか。
自分にそんな感覚があったなどということを、まったく知る由もなかった川村青年の、大学時代の研究の中に、
「失恋とトラウマ」
というのがあった。
川村青年の奥底のトラウマが見えている人は、彼の論文を見ることはなかったし、逆に彼の論文を読む、研究成年は、恋愛のことについては、ほとんど分かっていなかっただろう。
そんな川村青年が高校二年生の、初めて好きになった女性に対して、果敢にもアタックしたのだった。
思春期を普通に過ごしてきた人にとっては、中学時代に恋愛感情とはどういうものかということをある程度理解できていたのだろうが、川村青年のように、それまでまったく恋愛感情を抱いたことのない、ずぶの素人にとっては、
「埋めることのできない距離」
に違いなかったであろう。
しかし、実際に好きになった相手は、自分よりも恋愛に関してはベテランであるという意識があるため、恋愛感情という特殊な環境の中で、余計に焦りが生まれてきて、普段のような計算がまったくできてこなかったこともあって、中学生の初告白よりもさらにお粗末な内容での告白では、好きになってもらうどころか、
「あの人の神経を疑うわ」
というほどのお粗末な告白だったのだろう。
それだけ、焦りというのは禁物なのだ。高校時代にはその失敗がどうしてなのか分からず、嫌なことは忘れてしまいたいという意識もあることから、高校時代には、人を好きになることもなかったし、
「自分には恋愛は向かない」
と思った。
そもそも、恋愛を、向く向かないという考え方の枠にはめ込むということ自体が間違っていたのではないかと後になって気付くのだが、その頃は考えることすべてが、悪い方に向かっていたのだ。
それは恋愛感情に限らず、どの感情でも同じことで、感情に関してはすべてが裏目に出ていた。
「じゃあ、何も考えないでいいように、何かに打ち込めばいいんだ」
ということで、川村青年が撃ち込んだのが勉強だった。
勉強している時は、余計なことを考えずに済んだのだが、勉強は何も自分に教えてはくれない味気ないものだった。
しかし、やればやるだけの成果が現れる。これほど分かりやすくて一番打ち込めるものはなかったのだ。
そして、F大学に入学し、心理学というものに巡り合った。それがあったからなのか、その時になってやっと、自分が恋愛に向く向かないという枠に当て嵌めたような考えがおかしいということに気づき、自分が恋愛をできない一番の理由が何なのかということを考えていると、そこにあるのが、
「恐怖だ」
ということに気づいたのだった。
恐怖心と恋愛感情を結び付けるまでにはかなりの時間が掛かった。それこそ紆余曲折を繰り返しながら、自分の中の恋愛感情を封印したその先にトラウマがあり、そのトラウマを研究することで、得られた結論が、これからの研究に役立つと思っていた。
最初は、考えられる感情を片っ端から書き出して、その中に自分が求める結論があるのかということで考えていこうとした。いわゆる、
「消去法」
という考え方なのだが、どうも、消去法では見つけることができなかった。
その理由は、消去法だと、油断していると、それが答えであるとしても、見逃してしまう。一度見逃してしまうと、一度洗い出した考えられる感情のすべてが考えられるまでは、そこに戻ってくることはない。
「おかしいな、もう一度最初からやってみようか」
と、一度最後まで消去法で考えてしまわないと、途中で戻ることはしないだろう。
もし、途中で戻ってしまうと、これから見て行かなければいけない部分と頭の中で考えが交錯してしまうのが分かっているので、少なくとも一度違うと思ったものを、再考するというのは、感情の誤認を招いてしまうことになると思うのだった。
そのために、気が遠くなるような時間と言っても過言ではないほどの時を費やして、やっとたどり着いた、
「恐怖感」
という感情、それが初老になる頃になってやっと日の目を見ることになってきたのだということだった。
それが今の研究に繋がっているわけだが、まさか、
「心理学と科学の融合」
という考え方になろうとは思ってもいなかった。
しかし、その発想も自分の中にある恋愛感情へのトラウマと、それを無意識に結び付けていたことが研究に結び付いたのだろう。逆にトラウマを意識していて、それを克服しようという、普通の考えに至っていれば、研究に結び付いたということはなかったのかも知れない。
今回の研究も、三大恐怖症を中心として考えたのだが、実際にはさまざまな恐怖症がある。
対人恐怖症、赤面恐怖症、広場恐怖症などの相手に関するもの、ボタン恐怖症などのようなものに対するもの。水恐怖症などの、トラウマに結び付きそうな恐怖症と、世の中のあらゆる自分に刺激を与えてきそうなもののリスクとして備わっているもののように感じられるのだった。
そういう意味では、恐怖症をこの世からなくすというのは無理だと思う。なぜなら科学の発展とともに、それに対しての新たなリスクが生まれてくるからだ。
「伝染病と特効薬のいたちごっこ」
のように、そのどちらも拭うことのできない、無限ループがあるからだ。
だが、少しでも恐怖を和らげることのできる、総合感冒薬のように、少々の恐怖に対しては、その薬を使えば応急処置ができるというような、ある程度の恐怖症に効くという特効薬の開発に似たものを開発できるようになることが、今のところの目標だった。
そのために、大きな三つの恐怖症である、高所恐怖症、暗所恐怖症、閉所恐怖症の研究から始まって、最初は個々の恐怖症の研究を重ねることで、その共通性を見つけることを考えていた。まず、恐怖症をそれぞれのパターンに分けて見たり、原因から結果を導く共通性からの関連性、あるいは、結果から原因を導き出すような関連性などの側面から、パターンを絞り出し、その中での共通点を導くことで、次第に最終的な共通点を見つけることを考えていた。教授はそれを、
「パターンのフレーム化」
と呼んでいた。
この表現は、ロボット工学などにおける、
「フレーム問題」
から、思いついた言葉だった、
ロボット工学のフレーム問題というのは、ロボットというものに、人工知能を取り憑ける時の話なのだが、ロボットの判断能力に関わる問題で、人間がロボットに命令を与えた時、ロボットは、その命令を忠実に行うだけではなく、状況を判断するという自己判断において、いかに行動できるかというものである。
人間がロボットに人工知能をつけるのは、当たり前の過程であり、そもそもロボットというのは、
「人間のできないことをロボットの力によってやってもらう」
というのが、基本だった。
つまりは、ロボットは、人間よりも力が強く、頑強でなければいけない。それが逆にリスクとなって、ロボット三原則のような、人間を守るという意識を絶対の最優先としてロボットの人工知能には埋め込まなければいけない。
しかし、ここでいう、
「フレーム」
というのは、ロボットが自分の意志で行動する場合、次の瞬間に広がっている無限の可能性に、ロボットが果たして対応できるかということである。
命令に対して、ロボットはいろいろなことを考えるだろう。人間であれば、
「必要なことだけを考えればいいんだ」
という発想になるのだろうが、それだけではないのだ。
ロボットの人工知能は人間が作って組み込むものだから、人間ができる状況判断をロボットにもさせようとすると無理がある、
「無限の可能性の中から、必要なものだけを抜き出せばいいんだ」
ということになるのだろうが、それこそ、
「数ある中の可能性の中の必要な部分だけを考えるように、パターン化して、それをロボットに組み込めばいい」
という考えになるのだろうが、そもそもが、可能性が無限にあるのだから、そのパターンも無限にあるのではないかという考え方が生まれてきて、またしても、無限ループに入り込んでしまう。
つまり、
「無限から何で割ろうとも、答えは無限でしかない」
という考え方だ。
これは、
「ゼロに何を掛けてもゼロにしかならない」
という発想と同じではないだろうか。
この問題を、ロボット工学でいう、
「フレーム問題」
というのだ。
だから、ロボットにそれぞれの考えられるパターンをフレーム化して組み込むことができたとしても、結局は考えるのはロボットである。ロボットが人工知能の性能に追いついてこなければ、結局は、ロボットは命令を受けたその瞬間から、動けなくなってしまうということである。
だが、この考え方は、川村教授が考える発明にはうってつけだった。いや、ロボット工学には向いていなかったというだけで、実際に他のことに関しては「フレーム化」というのは、たいていの場合に説得力のある解決方法ではないだろうか。
それを思うと、フレーム問題も、いつか解決できるのではないかと思えた。ある一定の方向からしか見ていないので、すべてが無限に見える、見方を変えるとまったく違った見え方になるのではないかと思うと、
「ひょっとすると、無限という概念自体、怪しいのではないだろうか?」
という無謀ではあるが、画期的に思える考えではないかと感じるのだ。
考え方には、減算法と加算法があると思うが、これも見る方向が違うからそう思うのであって、同じものなのかも知れない。
例えば、下から上を見た時の距離感と、同じ長さなのに、逆に上から下を見た時では、かなりの差がある。この錯覚がどこから来るのかということを考えると、そこにあったのは恐怖心であった。
「ここで、恐怖心が繋がってくるんだ」
と考えると、今回の発明の根幹である、三大恐怖症が思い浮かんできたのおだった。
減算法と加算法というとまったく違う発想に見えるが、実は同じなのではないかと思う。何もないところから新たに生む加算法、完全な形から余計なものを省いていく減算法。
これは絵を描いている人から聞いたことがある話なのだが、
「絵描きというのは、肖像画であったり、風景画であっても、目の前にあるものを忠実に描くことが正しいわけではないんだ。時として、感性やインスピレーションで、描くこともある。その場合に余分だと思うものは大胆に省略するというのも、芸術家としてはありだと思うんだ」
と言っていた。
真っ白なキャンバスに描いていく絵、これは加算法なのだが、目の前に見えるものを省略するという考え方では、減算法と言えるのではないだろうか。
加算法と減算法を一緒にして考えているとは言えないかも知れないが、それも、見ている方向が違うだけと考えれば、この発想もありなのではないかと思えてきた。相反するものであっても、相まみえることのないものではない限り、それぞれに共存が許されるのではないかと思うのだった。
今回の発明に対しても、恐怖心と錯覚という純然たるものがある反面、心理学と科学の融合を恐怖心と錯覚に結び付けようというのは、ある意味、相反するものに対しての挑戦のようなものではないかと考えるのだった。
しかも、今回の発明はあくまでも通過点。どこを終着点にするかというのは、まだ分からない。
「ひょっとすると、永遠に分からないものなのかも知れない。なぜなら、恐怖症というものが未来永劫増え続けるものだからだと思うからだ」
という考えの下ではあるが、一旦、
「ここが終着点だ」
と思って着地しても、着地した時点でさらに先が見えているのかも知れない。
考えてみれば、人生などそういうものなのかも知れない。
「終着点が見えてしまうと、目標を失ってしまい、達成感の次には、果てしない無限の孤独感が隠れていて、そのパンドラの箱を自らで開けることになる」
という考えであった。
「そういえば、暗所恐怖症も高所恐怖症も、その状態に入った時に、先だって恐怖を感じるという発想から発展したことだったはずだ」
と思った。
これは、高校時代に恋愛に晩生だった自分が、先に進むことができずに焦りまくっていたことへの反省も含まれているような気がする。いい部分、悪い部分とそれぞれにその反省が、今の発明に結び付いている気がした。
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