第3話 声フェチと芸術

 五月雨俊介は、自分を、

「声フェチだ」

 と思っていた。

 それも、声の高い人が緊張からか、低い声になった時や、逆に声の低い人が出す、ハスキーボイスが好きだった、

 基本的にどちらも低音の魅力を感じるのだが、微妙に違うのだ。

 これは、中学の時に数人で初めて見たアダルトビデオの影響からだったようだ。元々、高い声の女の子が好きだったのだが、その時のAV女優は、顔から判断すれば、

「この子は声が高いんだろうな」

 と思っていると、思ったよりも低い声だったので、少しがっかりしたのだった。

 しかし、その声にも慣れてきたのか、途中から違和感がなくなってきた。つまり、いい意味でのギャップがあったのであって、しかも、彼女の塗れ場でのあの時の声は、実に切なさを感じさせるものだった。

「ギャップ萌えというのは、このことをいうのではないだろうか?」

 と思ったほどだった。

 その頃から、声が低い女の子も嫌いではなくなった。だが、

「この女優は、低い声に違いない」

 という、いかにもという感じで、ギャップがまったく感じられない人には、好きなタイプだとも、アダルトな塗れ場も、勘弁してほしいと思うであろう。

 ただ、テレビのトレンディドラマなどに出てくる女優で、ヒロインにしても、毎週レギュラーで出てくるような脇役であったとしても、声の低い女の子は好み云々関係なく、普通にいることができる。

「日常とは違う世界だ」

 という意識があるからだろうか。

 それであれば、AVの方がもっと現実を逸脱しているのはずなのに、どうして同じ感覚にならないかというと、

「アダルトは、最初の設定からありえないと思いながらも、妄想によって、自分の頭の中で作り上げる十分にありえる世界である。

 だが、ドラマの世界は、妄想ではなく、あくまでも、まったく別の世界として見ているという意味で、日常でないという意味でも、テレビドラマの方が意識の中で遠いのかも知れない。

 そういう意味でアダルトビデオやⅤシネマの世界は、日常にアダルトを組み込んだという設定であり、セックス自体は、普通の日常なので、別に非日常というわけではない。勝手にアダルトを妄想にしてしまうのは、人間の中にある性欲と欲求不満によるバランスを取ろうとすることが妄想に繋がらからであろう。

 声フェチの俊介は、もちろん、女性の声に対してのみ、感じるフェチである。

 俊介自身、自分の声はずっと低いと思っていた。しかし、中学時代に学内でインタビューを受けた時、校内放送でそのインタビューが流れた時、自分の声を聴いて、

「まるで、風邪でも引いているように籠って聞こえる」

 と思ったのだ、

 だが、インタビューを受ける前から、女子の間で、

「五月雨君は、声だけはいいもんな」

 というウワサがあると耳にしたことがあった。

 それを自分で感じている自分の声を好きなのだと思っていたのに、創造よりも二オクターブ近くの高い声に驚愕してしまった。

 校内放送で流れている自分の声を聴いて、

「なあ、俺のあの声に違和感ないかい?」

 と近くの人に聞くと、

「いや、いつもの声だけど?」

 と言われた。

 その時初めて、自分で感じる声と他の人が聞いている声とでここまでギャップがあるということに気づいたのだ。

 それと同時に

「女性は、あんな声が好きなんだ」

 と思ったのだが、自分ではどうしても好きになれない声だった。

 何が嫌なのかと言って、声緒のトーンというよりも、声の籠り方は嫌だった。ハーモニーを奏でているのであれば、明らかな声の高さが違っている波長が複数あるのだろうが、自分の声はハーモニーと言っても、声のトーンが皆同じで、その分、籠ったようにしか聞こえないのであった。

 声フェチなおかげで、できた友達もいた。その友達との関係は、実は如月は知らない。ただ、その人と友達だった期間は思ったよりも短かった。

 期間にすれば、半年もなかっただろうか、自分の声に違和感を感じるようになって少ししてからのことだった。

 相手の方から近づいてきた。どうやら、声フェチは声フェチが分かるとでもいうのか、その割には俊介には彼が仲間だと分からなかったのだが、友達になってからも、お互いにどこか見ていたものが違っていたような気がする、

 彼の方は、単純に、声フェチの仲間を探していたのではないだろうか。自分が声フェチであることを必要以上に嫌がっていて、それが、余計に声フェチセンサーを鋭くさせていたのかも知れない。

 だが、俊介は自分が声フェチだとは思っていたが、仲間がほしいというところまでは行っていなかった。下手に仲間意識を持ってしまうと、知られたくないと思っている人にまで、自分が声フェチであることを恥ずかしいと思っているからだろう。

 その思いは二人に共通しているのだろうが、それを表す態度は違っている。それはどれだけ声フェチが自分の性格に入り込んでいるかという割合に比例しているのか、それとも、濃度に比例しているのかのどちらかではないだろうか。

 二人は、その割合も濃度も違っていたので、それだけ最初に感じた声フェチの距離が近づいてくると思っていたものが、実は遠ざかっていくことに気づいた時、距離を埋めることはできなくなってしまったのだろう。

 二人が声フェチに種類があり、お互いに違う声フェチであることに気づくと、もう友達でいる理由がなくなった気がした。

 そもそも、声フェチという共通点がなければ、まったく二人の間に共通点がない状態なので、距離を一度感じてしまうと、修復は難しいのは、最初から分かっていたような気がする。

 二人が距離を保つことで、それまで二人が親密だったことに誰も気付かなかったのに、それまでのことがウソのように、距離があることで、二人がそれまで親密だったことが分かったのは皮肉なことだったかも知れない。

 そのために、如月との仲がギクシャクし始めたのは、予定外だった。

 確かに、如月に声フェチでの友達ができたということを知らせたことはなかった。知らせると、ぎこちなくなるかも知れないと思っていたはずなのに、声フェチの友達と距離ができたことで、如月とぎこちなくなるであろうことは容易に想像がついたはずなのに、どうして、思っていなかったような感覚になったのだろう?

「感覚と現実は違う」

 と言われるが、予想することになれば、余計に違いを感じることだろう、

 自分にとっての感覚と現実とはもう少し距離が近かったような気がした。だが実際には思ったよりも距離があり、その距離のおかげで、声フェチ同士の関係が見えない距離にいるだろうとタカをくくっていたのかも知れない。

 しかし、如月という男はどこか勘の鋭いところがある。

 しかも、それはターゲットを俊介に置いた場合のことであって、俊介ともう一人が誰であれ、如月の中には見えるのだ。

 きっと、如月は自分の正面に俊介を置いた場合、ちょうど、その延長線上に、見えない誰かを見据える形の視線を見せているようだった。

 そのおかげで、俊介を焦点にして先を見ると、ぼやけてではあるが、その先に影のような何かが見えてくる。その時に距離を感じることで、今度はその先にいるボヤけたものに視点を合わせるようになった。

 そのため、それまでボケてしか見えなかったものが見えてくることで、全貌が分かるという手法のようだった。

 如月は絵心があった。

 別に油絵をするわけではないが、デッサンであったり、マンガチックなものを書かせると、結構上手だったりする。

「どこかで習ったのかい?」

 と聞くと、

「我流だよ」

 と言っていたが、その割に上手だった。

 絵心のない俊介にとっては、絵が描ける如月は尊敬できた。一度、如月を見習って自分も何か書いてみようと思ったが、出来上がったものを見ると、

「もう二度と書こうとは思わないな」

 というほどの出来栄えだったのだ。

 だが、我流でやってきたという如月は、人にモノを教えることが好きなのか、絵のかき方について、いろいろとレクチャーしてくれたものだ。押し付けではないので、結構気楽に聞けたが、その内容は、まるで絵画教室で受けているような内容だったので、気も楽だった。

 もちろん、絵の描き方などという本を読んだわけでも、絵画講座などというカルチャースクールにも行ったことはない。ただ、最近、マンガチックなタッチも含めて、絵を描ける人が目立つようになったのを見ると、

「絵が描けるというのもいいな」

 と感じるようになった。

 最近では、サブカルチャーというのがまた流行っているようで、素人でも気軽に個展が開けるようなスペースが増えてきたような気がする。サブカルチャーの喫茶店が店の一部や影を展示スペースにして、プロではない人の作品を一定期間展示するというものだが、そういうのを見ると、何か羨ましい気がした。

 昔なら、有名にならなければ自分の絵を展示するなどありえなかったのに、個展が開けるというのはいいものだ。最近ではネットでいろいろな作品がブログなどでアップされたり、SNSで拡散されたりしているので、ネットの世界では公開は結構多いのだろうが、実際に現物を展示して、美術館のように見てもらうということに憧れている人も多いだろう。

 ネットというのは、気軽にC情報を拡散することができるが、その分、逆に本物志向にファンを傾ける効果もあるのではないかとも思えた。

「ただの趣味だよ」

 と言っていた如月だが、彼は今までに自分の個展を二度開いていた。

 同じギャラリーで開かれたものだが、よくよく見てみると、結構凝っていてイベントとしてもなかなかなものだった。

 キチンと宣伝用のポスターも作っていて、店に行けば、喫茶店の壁や通路に彼の絵が飾られていた。彼の絵はアニメチックな感じではなく、幻想的な絵が多かった。その中でもあまり意味の分からないと思えるような絵が多く、絵のタイトルからでは、何が言いたいのかよく分からなかった。

 しかし、如月の解説を訊いてみると、

「なるほど」

 と思えるところもあり、さらに、

「この絵の配置だって、実は結構考えているんだよ」

 というではないか。

 どこに繋がりがあるのか分からなかったが、訊いてみると、

「なるほど」

 と思わせるもので、訊いてみないと分からないところが、まだまだ自分に芸術的なセンスが分かっていないからなのか、それとも、彼の絵がそれほど、玄人好みするような素晴らしい作品なのかまでは分からなかったが、そのどちらかなのだろうと、俊介は感じたのだ。

 その喫茶店の名前は、

「くらげ」

 という名前だった。

「どうして、くらげなんですか?」

 と聞くと、

「くらげって、一番芸術的な気がしたんです。身体が透明で、軟体動物のように自由に身体を動かすことができ、そして、身を守るために人間を差すでしょう? 何よりも形が美しい。男性のようでも女性のようでもある。サブカルチャーの芸術的な店としては、一番いいのではないかと思ったんですよ」

 とマスターが話していた。

 マスターの話の中の、

「男性のようでも、女性のようでもある」

 というところが、俊介の気持ちを揺さぶった。

「なるほど、納得のいくお話ですね」

 というと、

「私の中では、透明な身体に興味を持ったんです。たぶん、この発想は芸術的な発想をする人は同じかも知れないと思っています」

 というマスターの話を訊いて、如月は何度も頷いていた。

 そういえば、如月の作品には、身体が透明な動物であったり、人間が時々出てくる。まわりが幻想的な光景で、海の中だったり、宇宙空間だったりと、非日常の世界を、透明な身体が表現している世界に通じるものがある気がしていた。

 ギャラリー「くらげ」、もしくは、喫茶「くらげ」と、どちらでも表現は構わないというマスターだったが、芸術に興味のある人は、

「美術館にいながら、コーヒーを楽しめる店」

 とイメージで、あくまでも喫茶店として利用する人は、

「壁に絵が飾っているだけで、普通にコーヒーのおいしい喫茶店」

 として利用していた。

 コーヒーも結構高い豆を使って作っていて、そもそもマスターは、自分にコーヒーの美味しい入れ方を教えてくれた人に出会うまで、それほどコーヒーが好きではなかったという。

「コーヒーなんて、どの豆を使っても、誰が入れても、さほど味に違いはないと思っていたんですよ。だいたい味なんて、その人の好みじゃないですか。誰もが美味しいコーヒーだと言って褒めているコーヒーを、そんなに美味しくないと思ったその人は何を感じるかというと、自分はコーヒーが好きではないんだって思うでしょうね。それは普通に当たり前のことで、好きでもないものを、おいしいから飲めと言われて、おいしくなかったら、そりゃあ、嫌いにもなるますよね。でも、おいしいから飲めと言われて本当においしかったら、本当においしいものに出会ったと思うんですよ。だから、僕は人に勧められたものは、どうしても嫌いなものは別にして、飲んでみようと思うんです。おいしくなくたって、別に損をした気はしませんからね。次から飲まなければいいだけで、その飲み物は自分に合わないということを知るという機会になっただけのことですからね。でも、おいしいものに出会えたら、何か運命的な出会いをした気分になることってあるでしょう? あの気持ちを私は、その人が定期的に感じるものだと思うんです。精神的に余裕がある時などは、意外と運命的なものに出会えるチャンスなんじゃないかって思うんですよ」

 とマスターは話していた。

 さすがにマスターは芸術的センスにを感じることができる人なのだろうと感じた。

 感性を持っていたとしても、それを理論的に口にできる人というのはなかなかいないものだ。

「私も、陶芸に少し凝っていましてね」

 と言って、マスターの作品を見せてもらった。

 正直、最初はそれが何なのか分からなかったが、

「マスターは、想像上の動物を作るのが好きで、特に、動物を合体させたりしたものが好きなようなんです」

 と、如月が言っていた。

「昔から特撮が好きで、怪人や怪獣をデザインしてみたいと思って陶芸を始めたんですが、なかなかプロの道は難しくて、喫茶店を営業しながら、趣味で作ったものを、最初は自分の作品だけを飾っていたんです、そのうちに壁が寂しい気がしてですね、古美術などを売っているところに絵を見に行ったんですが、見た瞬間、それこそ目が飛び出るような値段じゃないですか。これはさすがにと思っていると、ちょうどその時アルバイトで雇った女の子が、芸術系の大学に行っていて、絵を描いているというじゃないですか。彼女の絵を飾りたいと言ったんですが、さすがに最初は彼女も照れて、絶対に嫌って言っていたんですけどね。せっかく描いた絵なんだから、コーヒーを味わいながら見てもらうというのもいいかもよ? っていうと、彼女もその気になって絵を持ってきてくれたんです。彼女の絵は風景が多かったので、実に店の雰囲気に合っていたんです。特に彼女の描く絵は、山の中に湖畔の風景が多かったんです。コーヒーの香りが、木の幹を思わせる気がして、私は即行で、その絵を飾りましたよ」

 とマスターは言った。

「いい絵だったんでしょうね?」

 というと、

「彼女の絵を見たお客さんの中に、画廊の経営者の人がいて、その絵を高価で買うということになったんですよ。彼女は、それから、ここでアルバイトを続けながら、その画廊の絵を定期的に描くようになったんです。結構、画廊でも売れたらしいですよ。それでね、その時の彼女からの提案が、この店を喫茶店とギャラリーにして、素人だけど、作品を発表したいという人のためにここの壁を使ってあげればいいかも知れませんよ。と言ってくれたんです。それが、この店のある意味で出発点になったと言ってもいいと思いますね」

 というマスターに、

「なかなかいいお話を聞かせていただきました」

 と、俊介は言った。

 実際にこの店の展示予定は、すでに三か月先まで予定が詰まっているようで、人気のほどが伺える。実際に日本に似たような店がどれほどあるかというのも知りたいところではあるが、

「もっといっぱいあってもよさそうな気がする」

 と思わせる店であった。

 ここの店は、商店街の中の地下にあった、

 目立たないようにしてあるのは、マスターの考えのようで、

「どうせ店をするなら、ずっと来てくれるような常連さんでいっぱいのお店にしたいんだ。一見さんも嫌ではないんだけど、常連さんの話を訊きながら、コーヒーを淹れていきたいという思いと、どうしても自分は芸術家だという意識が捨てられないことから、目立つ店にはしたくないというのが本音かな?」

 と言っていた。

 以前この店は、(この店に限らずであるが)、数年前に流行した伝染病騒動のせいで、経営困難に陥って、マスターが、期間を区切って、休業宣言をぶちまけたことがあった。店でも公開し、ネットにもその情報を流した。すると、

「ギャラリー『クラゲ』を救う会」

 というのが結成され、全国から支援が寄せられた、

 ネットが普及しているこの時代、ギャラリー「くらげ」のウワサは全国に広がり、

「自分も個展を開きたい」

 という人が全国から言ってきていた、

 そんな人たちがマスターを慕って、救う会が発足したのだった。

「捨てる神あれば、拾う神あり」

 とはよく言ったものだが、それよりも、

「それだけ、言葉にすることはないけど、芸術を目指している人たちの気持ちは繋がっていたということなんでしょうね。本当にありがたかったですよ、救う会まで作ってくれてね。でも、それもきっと、芸術家というものが、個人でコツコツやることではあるけど、目指しているものは、皆同じ気持ちだと感じることで、一致団結できるんでしょうね。それが気持ちの上での余裕というものかも知れない。だから、あんな暗黒の時代でもやってこれることができたんでしょうね」

 と、マスターは話していた。

「マスターがこの店をやっているおかげで、一人で孤独に活動していた人が日の目を見るということが結構あるんですよ。ある意味、芸術界の救世主のようなイメージがマスターにはあるんじゃないですか?」

 と、如月は言っている。

 今のところ、絵を描いてみようという気持ちにはなっていない俊介であったが、如月が教えてくれた、

「絵心のイロハ」

 のようなことは、結構頭に残っている。

 そういえば以前、

「将棋で一番隙のない布陣」

 という話をしたのを思い出したが、その話に関係して、減算法、加算法の発想になったが、絵を描く時にも、これらの発想が生きてくるのを、如月が教えてくれていたのだ。

「絵を描く上で一番重要なのは、バランスと、遠近感ではないかと思うんだ。バランスというのは、例えば風景画であれば、ここのような湖畔であれば、空と山、そして湖のバランスをどれくらいにするかということだね、そして、遠近感はその名の通り、一番近い湖、そしてそこから山、そして空と繋がっていくわけでしょう? そして最後に空がその向こうに永遠に繋がっていくというのをいかに表現できるかというのが、絵を描くことにおいて重要なことではないかと思うんだ」

 と、言っていた。

「うん」

 と何となく聞いていたが、その後に話した如月の話に、

「まるで目からうろこが落ちた」

 と言わんばかりの話を訊くことができたのだ。

 その話は面白いたとえから始まった。

「五月雨君は、天橋立って行ったことがあるかい?」

 と訊かれて、

――一瞬何が言いたいんだろう?

 と思ってポカンとしながら、

「ああ、小学生の頃にあるけど」

 というと、

「じゃあ、あそこで、股の間から見たことはあるかい?」

 と訊かれて、

「うん、あるよ」

 と、答えた。

 股の間から見て何が面白いのかと思ったのを覚えているが、確かにまったく違ったものが見えたのは不思議だった。しかし、まだ小学生だったということもあり、だから、それがどうしたのかという、その次が分からなかったのだ。

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